第7話
オイラはジョニー。場末の盛り場にある寄席で飼われているサバトラのオス猫さ。
え? 寄席ってなんだって? 寄席というのは噺家や漫才師や奇術師など芸人が出てそれを客が見に来る所さ。無論有料だがな。
オイラがこの寄席に飼われてもう一年半になる。今はこの寄席のテケツに居る姉さんが俺の主だが、生まれてからずっとそうだった訳じゃ無いんだ。
ダンボール箱に捨てられていたオイラを拾ってくれたのは寄席の情報誌の編集部に勤めている神山孝之という人だったんだ。飢えと寒さで意識が無くなりかけていたオイラを拾ってくれて連れて帰ってくれ温めてくれて、猫用のミルクを呑ませてくれたんだ。オイラは春生まれだけど、その日は桜が咲いてるのに雪が降って、本当にオイラは自分でも死ぬ覚悟をしていた時だったら本当に嬉しかった。
病院にも連れて行ってくれて注射もされた。その神山さんには美人の奥さんが居て、何でも女優で芸名を橘薫子というらしい。本名は立花薫と言って神山さんは「かおる」と呼んでいる。オイラは二人に大事に育てられたんだ。
でも困った問題が起こった。それは薫さんは妊娠していて、臨月も近いらしかった。神山さんの親戚は何も言わなかったけど薫さんの親戚が
「赤ん坊が生まれるのに猫がいるのは……」
と言ってオイラが居るのに難色を示したそうだ。神山さんは随分説得したら、薫さんの親がウンと言わなかった。そこで神山さんはオイラの里親を探す事にしたんだ。
アチコチと声を掛けてみたが見つからなかった。そこで神山さんはオイラを懐に入れて仕事の一環として寄席を回っていたんだ。都内の四件の寄席を回って最後に今のこの寄席に来たんだ。その時出て来たのが今の姉さんだった。
「あれ神山さん。その懐の子猫ちゃんどうしたの?」
「ああ、実は里親を探してるんだよ」
神山さんはそう言って今までの経緯を姉さんに話したんだ。そうしたら姉さんは
「ねえ君。うちに来る?」
いきなりオイラに話しかけたんだ。これはオイラも驚いた。だって今までそんな声を掛けてくれる人なぞ神山さんと薫さん以外に居なかったからだ。驚いているオイラを他所に
「ねえウチで引き取っても良いわよ」
姉さんは神山さんにそう言った。
「良いのかい?」
「歓迎よ。だって商売屋に招き猫は付きものでしょう」
「上手い事言うねえ。確かにそうだな。じゃあお願いしようかな」
そんな感じでオイラはこの寄席に貰われて来たんだ。別れる日に薫さんが大粒の涙を流して別れを悲しんでくれた。薫さんは本当は大の猫好きだったそうだ。
テケツで昼寝をしていると知った足音が聞こえた。これは神山さんの足音だ。神山さんは週に一二度取材を兼ねてやって来てくれる。そうしてオイラを抱いて可愛がってくれるんだ。ちゃんとお土産も忘れない。オイラの大好きなチュウルーも必ず持って来てくれるんだ。
「よおジョニー変わりないか?」
神山さんの声は何時も温かい。オイラもニャーと返事をする。そうしたら姉さんに
「これあげてください」
そう言って猫のオヤツを渡してくれていた。今日は何を持って来てくれたのか楽しみだ。
「今日は柳生師匠が出るから来たんでしょ」
姉さんの質問に神山さんは
「さすがだね。その通り。実は頼まれたんだよ。ネタおろしをするから聴きに来て評価して欲しいってね」
「そう。今日ネタおろしするんだ。それは楽しみ」
柳生師匠とは麗々亭柳生と言って噺家芸術協会の売れっ子の噺家で、人気実力ととも抜きん出ている。と言われている。でも、あの師匠ほどの人がネタおろしなんて珍しい。まあ、大抵の噺家は何処かの大きな落語会で最初にやる時は寄席でネタをおろして出来具合を確かめることが多い。
「なんだジョニー聴きたそうな顔だな」
二人のやり取りを黙って聴いていたら神山さんがオイラを見てそう言った。判ったのだろうか。
「ジョニーは落語好きだものね」
姉さんはそう言うがオイラは落語だけではなく、漫才も奇術も曲芸も好きだ。まあ、曲芸だけはオイラの方が上手いけどな。
寄席は大体だが昼席は笑いを楽しみたいお客が多く、夜席は噺を楽しみたいお客が多い感じがする。これはオイラの感覚だし、寄席ごとに違っているかも知れない。
「娘さん元気?」
「ああ、もうつかまり立ちするんだよ」
「プレーボーイで鳴らした神山さんも自分の娘さんにはメロメロね」
「イヤ別に俺は……」
「知ってるんだから薫ちゃんには黙っていてあげるからね」
そんな軽口を交わして神山さんは楽屋に入って行く。オイラは神山さんに抱かれて一緒に入って行った。
「柳生はトリだからな。時間があるからな」
オイラにそう言って楽屋の暖簾を潜ると前座が
「神山さん。柳生師匠はさきほど楽屋入りなさいました」
そう「教えてくれた。尤もオイラはとっくに知っている。来た時に声をかけてくれたかたからだ。
「神山さん。約束通り来てくれたのですね」
「ああネタおろしとあれば聴きに来ない訳には行かない。薫も来たがっていたんだが子供が目を離せない時期だからな」
「ああ、そうなんですね。早いですね」
「ところで、一体何をやるんだい?」
「それがですね『粗忽の釘』なんですよ」
「『粗忽の釘』!また何で? 今までやらなかったかい?」
『粗忽の釘』とはオイラも驚いた。この噺は寄席でも結構掛かるし、特別な噺でもない。柳生師ほどならとっくにやってると思っていた。
「いいえ、随分前に六代目柳橋師の愛弟子の七代目に稽古をつけて貰ったのですが、なぜかやる機会に恵まれずに来てしまったのですよ」
「そういや柳橋先生一門だっけな。じゃあサゲは」
「ええ、ちゃんとやります」
「それは楽しみだ。最近は箒にのサゲしか聴いてないからな。楽しみに客席で聴かせて貰うよ」
神山さんはそう言って楽屋を後にした。そして抱いたオイラに向かって
「ジョニーも今日は聴いておいた方がいい。寄席の猫なら尚更だ」
そんな事を言ってくれた。そう言えば箒のサゲ以外聴いた記憶はなかった。楽しみになって来た。
出囃子の「外記猿」が鳴り出す。普通はトリだと「中の舞」が流れるのだが今日は自分の出囃子を選択したようだ。神山さんが
「『外記猿』を選んだという事は気合が入っているという事だな。だって自分の出囃子をワザワザトリの時に使うのだからな」
そうオイラに解説してくれた。柳生師は座布団に座り頭を下げた。
「え~今日は、私が最後です。私の後は明日まで出て来ませんね。長かった苦行もこれでお終いですので、どうぞお付き合いを願います。よく、そそっかしい人の事を粗忽者なんて昔は言いまして……」
噺が始まった。黙って観客は耳を傾けている。この噺は
引っ越しをするという当日、亭主は大きな荷持を持って出たきり引っ越し先にも到着しません。女房は早くに着いてあらかた片付けも済んだところへ、やっと大きな風呂敷包みを背負った粗忽な亭主が大汗をかきながらやっと到着します。
女房にホウキを横にしておくともめ事が絶えないので「釘を一本打ってホウキを掛けたい」
と頼まれた亭主は釘を打つのですが、八寸もある瓦釘をことも有ろうに壁へ打ち込んでしまいます。
「お隣に釘の先が出てて、着物を破いたりケガをしたりするといけないから」
と女房に言われ、粗忽な亭主は謝りに行きまが、最初に行った家がお向かいさんで、
「路地を乗り越えて来る釘なんてありませんよ」と言われやっと違うと気がつく始末。
女房に「落ち着けば一人前」と言われ、隣家へ行きますが、煙草を一服してから、
話出しましたが、釘の事はどこへやら、自分と女房の馴れ初めを惚気る始末です。
「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出します。
そして釘の事を話しますが、調べてもらうと、仏壇の阿弥陀様の頭の上に釘。
「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」と言ったりします。そして
「明日からここに箒を掛けに来なくちゃならない」
などとおかしな事を言うので
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじに、いけねえ、中気で寝てるんで……忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」
とサゲる噺で、今の噺家の殆どは箒のところで切っている。神山さんに言わせると
「そっちの方がウケると言う考えなのだけれど、ちゃんと実力があれば我を忘れるの方がスッキリ落とせる。要は実力が無いんだよ」
という事らしい。確かに柳生師は見事な高座でとてもネタおろしとは思えなかった。
オイラを抱きながら神山さんは
「こいつが健在な限り伝統は守られるよ」
そう言ってオイラの背中を優しく撫でたのだった。