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「そんな……」華奢な身体が、頭を抱えてくずおれた。「それじゃあ……私は……え? ……だから……そんな……?」
「今はすべてを理解する必要はありません」大巫女が、膝をつく。「少々、思い込みが強いようでしたので、荒療治を施しました。すぐに心の整理のつく問題でないことは、分かっています。時間をかけて、一つずつ、理想と現実の折り合いをつけていって下さい」
そう言って差し伸べた手を、少し躊躇した末――ユキは拒否した。
「い、いいえ……やはり納得致しかねます!」大巫女目がけて、喉を振り絞って叫ぶ。「お師匠様のお話は、きっと的を射ているのでしょう。恐れ多くも、ご内容を要約すればつまり、神聖なる巫女とはいえ内実は人である、ゆえに邪まな感情を抱く瞬間もある。従って、そのこと自体を、巫女見習いとして恥じる必要性はない――というものですね?」
「ええ。一つ補足を加えるとすれば、そういった断続的に呼び起される負の感情を、意識的に抑制する努力のことを指して、私達は『修行』と呼びます。人である以上、怒りや悲しみは、抑えようとしても中々抑えられるものではありません。抑えた気になっても、いずれは再び甦ります。そのつど、意識して平静を保つ努力をする。これを繰り返す。終着点のない永遠の衝動と抑制……これこそが巫女における『修行』の神髄なのです。ゆえに、生きている限り『修行』の道が途絶えることはありません」
「はい、よく分かりました。お師匠様のお教えは、大変身になります。有難うございます」皮肉の一つも言いたくなる。挑発的な笑みをつくろうとするが、しかし、うまく笑えない。「ともあれ、巫女としての素質云々が私の見当違いだとしても、他の姉巫女に出来て、私に出来ないことがあまりに多いのは歴とした事実です。試験に三度も落ちていることが、その紛れもない証拠です。私は、基礎的な所作を、作法を、言葉遣いを、信じられないほど浅はかな落ち度ゆえに間違えてしまいます。つまり、お師匠様のお言葉を拝借すれば、いわば、巫女見習いとして不完全なのではなく、そもそも人として不完全だということになります。そう、私は、落ちこぼれは落ちこぼれでも、巫女ではなく、人としての落ちこぼれだったのです。平たくいわば――ヒトデナシ、とでも言うのでしょうか? ……ともあれ、私は、まさに常識を形成する部品の足りない、欠陥品というわけでございます」
「何を言っているのですか?」大巫女は、無表情だ。その瞳は、視る者すべてを凍りつかせるかのように、恐ろしく冷え切っている。「貴女は、自分が何を言っているのか、分かっているのですか?」
「分かっています、分かっています……」嘘だ。分かっていない。分かっていないことを証明するかのように、原因不明の涙が止まらない。「……所詮、欠陥品なのです」
いっそのこと――この身が粉々になるまで嫌われたかった。
自己嫌悪を凌駕した破滅願望が、腹の底でのた打ち回っていた。
どうして、そんな危うい心理状態に陥っているのか、自分でも理由が掴めない。しかし、理由なんてものは些細な問題であり、このときの彼女は少しも気にかけていなかった。ただ、腹の底の毒を、すべて出し切ってしまいたかった。
たとえそのせいで、敬愛してやまないお師匠様とのあいだに、修復不可能なほどの断裂が走ろうとも構わない――。
腹の底で煮えたぎる溶岩を、洗いざらいぶちまけずにはいられない――。
ユキは、すっかり自制が利かなくなっていた。
静かなため息が落ちる。「まるで貴女からは、自身を極限まで貶めることで、全員を敵に回したがっているかのような、危険な印象を受けます。己が能力的に劣っていることを嘆いているようで、実は無自覚のうちに、それを強く望んでいる口振りです。誰でも心が弱っているときに陥る、典型的な破滅願望の一種ですね。必要以上に自身を貶めることでしか、心の均整を保てない、まことに難儀な状態です。しかし、典型的とは言え、その心のバランスのとり方は、非常に危険極まりない。……欠陥品、ですか?」
そう言ってから、大巫女は、すうと息を吸い込むと、
「間違っても、そんな悲しい言葉を使うものではありません」
凛として言い放った。
「ま……」これまで聞いた中で、もっとも強い口調に、ユキは怯む。「……間違ってなどいません。本心であり、真実です」
「なにが本心なものですか。興奮状態から導かれる言葉は、その者が理性を模ったつもりでも、大体の場合失敗しています。どうしても、言葉にする過程で余分な感情や情報が積み重なり、結果、真意を過剰に理解してしまうのです。貴女が自己嫌悪に陥っているのは分かりますが、しかし、だからといって余計に考えすぎるのはおやめなさい。自責も、度が過ぎれば自傷となり得ますよ? ――無益なことです」
どこかで聞いた言葉だ。だが、どこだったか? 誰が言っていたか?
「それでも、私は……人として当然のことが出来ません。誰もが、当たり前のこととして行っていることを真似しようとしても、てこずります。本当に、なんというのか……駄目なのです。未熟以前の問題なのです」精一杯の当てこすりを加える。「――ご高潔なお師匠様には、お分かり頂けないことでしょうが」
「何故でしょう?」
「え?」素で訊き返してしまう。「何故?」
「何故――だと思いますか?」大巫女が真っ直ぐに見詰めてくる。その表情は再び、真意の読めない仮面に包まれている。
ユキは、思わず視線を逸らした。……負けた。
「何故――とは、私が当たり前のことにてこずる、理由のことでございますか?」
「ええ、勿論」
「それは……何度も申し上げているように……」欠陥品、だからだ。「……いえ、あえて繰り返すのはよしましょう。ですが、なんなのですか、そのお問いかけは?」
「やはり、気付いていないようですね」
「ですから、それは……」
「いいえ、貴女は気付いていません」有無を言わせぬ口調。「気付いていたのであれば、自身をそこまであしざまに罵ったりはしません。――こんなにも追い詰められるまで、独りで抱え込んだりはしません。この意味が、分かりますか?」
「意味……」ユキは考え込む。本当に、大巫女の言葉が何を示唆しているのか、分からないのだった。
「思い当たりましたか?」短い沈黙の後、問題の出題者は尋ねた。
「いえ……」それに応じて、解答者は首を横に振る。嘘は吐いていなかった。
再び、沈黙が落ちる。
なんともバツが悪い。
真意を測りかねて、顔を向けると、大きな瞳に視線を吸い寄せられた。
大巫女の瞳は、いつのまにか穏やかで、慈愛に満ちた色彩を取り戻しているようだった。
不覚にも、しばらく見惚れてしまう。見慣れているはずなのに、まるで未知との遭遇を経験したように、新鮮で爽やかな驚きを、禁じ得ない。
そうこうしているうちに、やがて――出題者による解答が示された。
「その姿勢が……答えです。それこそが、この現状を生み出している、元凶なのです」
「姿勢、ですか?」
鸚鵡返しをしてから、そういえば今日は――訊き返してばかりだ、と思う。
過去に、これほどまで相手の伝えようとしている言葉を、理解しようと努めたことがあっただろうか?
いや、ないかもしれない。
相手の意思を正確に汲み取るためには、頭が痛くなるほど意識を集中させて、伝達に協力しなければならない。相手側がいくら意思を、思想を、情報を正しく伝えようとしても、受け手側がそれを受信する心構えでいなければ、一方通行か、すれ違いで終わってしまう。そんなことを、唐突に考えた。あるいは――大巫女によって、考えさせられた?
まさか……今の自分の思考回路は、意識的にそうなるよう誘導された結果なのだろうか? 可能性は低いと思うが、しかし……彼女ならばやりかねないかもしれない。そう思う。
なにせ、話をしているのは、ただの巫女ではない。
サン・フラハ寺院を司る――あの大巫女なのだ。
(ああ……)
勝負をしていたつもりはないが、あえてこれまでの応酬を舌戦と例えるのなら、初めから勝敗は決していたのだろう。
ユキは、天を仰いだ。
空が果てしなく青く、遠い。
……そういうことだったのか。
すう――と、肩の力が抜けるのを感じる。危うく、片膝をついた体勢から、尻もちをついてしまうところだった。
「気付いたようですね」大巫女が、指を立てる。三本目――。「これで、私からの話は最後です。そう、お気づきのとおり、貴女は『他者から学ぶ』ということを怠っていたのです。他者から学ぶ、教えを乞う、情報収集をする……言い方は様々ですが、つまり、ユキは他の巫女を頼るということを一切行ってこなかった。――例えば今朝、貴女は寺院にて姉巫女と会話をしましたね? その際、何故試験に合格できなかったのか、どうすれば合格できるのかを、尋ねましたか?」
「――いえ」心中かき乱されていて、それどころではなかった。余裕がなかった。――というのは、言い訳だ。
今朝だけではない。教えを乞うチャンスは、過去にそれこそ星の数ほどあった。しかし、「あんな姉巫女達には頼らない」という変な意地と歪な自尊心が働いて――要は無駄に高いプライドが邪魔をして――頭を下げることを拒んできた。つまり、自ら、成長の切欠を手放していた。その挙句が、三度の不合格だった。
見下されている気になっていたが、実のところ、見下していたのは、自分の方だった。
所詮、恵まれている彼女らに悩みを相談したところで意味なんてないと、侮っていた。
日夜、ぎゅうぎゅうと首を絞め、ユキを苦しめていた指の正体は――ユキ自身だった。
すべての違和感が、理路整然と組み立て直されていく。まるで、パズルのピースが、次々に形良く空白を埋めていくように。
異形に、異物に、異端に、正当な因果関係が付与されていく。
独りで抱えこみすぎなのです――と、大巫女の声。
「たった一言、『お教えください』と、口に出せば良かったのです」視線を、ふいとユキの後方に向ける。「つい今しがた、貴女がフラハ母神へ祈っていたように。素直な心を、打ち明ければ良かったのです」
「………」
「そうすれば、打ち明けられた巫女は、ありとあらゆる言葉と行動でもってサポートしてくれます。繰り返しますが、巫女の本分とは、求める者に救済の手を差し伸べる――なのですから。巫女見習いといえども、例外ではありません。ただ一つ――今回のことで新たな課題も見つかりました。求める者にのみ救いを与えるのではなく、求めない者にも救いを与える――提案をするという、ある種のがめつさも必要なのかもしれない、と考えさせられました。その者が……鬱憤を抱え込み、爆発してしまう前に」
がめつさ、という部分を、大巫女はちょっとお道化たふうに発音した。
口元が笑っている。
冗談を言ったのだ。
神聖なる大巫女が。
まるで、自身も人の子であると、先の発言を実証するかのように。
だが――。
慣れていないのか、冗談を口にした彼女の笑顔は、どこかぎこちなくて、照れているようでもあり。
最高に可愛らしい。――そう思った。
ユキは、そんな彼女の視線を追って、石像を見上げた。
どこまでも深く青く澄み渡る空のもと、真白なフラハ母神は、やはり不動のまま、こちらを見下ろしている。その表情は、祈る者の心根によって変化するのか、慈悲深くもあり、憐れんでいるようでもあり、絶望しているようでもある。しかし、その一方で、微笑んでいるようでもあり、考え込んでいるようでもあり、見守っているようでもあり、――そのどれにも当てはまらないようにも見える。不思議で、不可解な造形だ。
この瞬間、ユキは――。
直感的に、石像の内心を理解した。
「良い顔つきになりましたね。まるで別人です」大巫女が言う。すでに、口元はいつものごとく真一文字に結ばれている。そして、ユキに注がれる視線は、柔らかく、穏やかで、温かい。
「お師匠様の、修行のおかげでございます」にっこりと、微笑み返す。「久しぶりに、人と会話を交わした心地です」
「それは何よりです」
期待したが、そう都合よく、二度目の笑顔は拝めなかった。