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 少女は、まさに今、天に飛び立つかのような態勢で静止するフラハ母神の前で膝をつき、両手を組んで祈っていた。

 フラハ母神を象った巨大な石像は、寺院から外れた山の奥地にある。そこから慈悲深く国全体を見下ろしているようでもあり、どこか寂し気に微笑んでいるようにも見えるのが印象的だ。きっと、祈る者の心根によって、表情は幾通りにも変化するのだと思う。今の彼女に、石像の主はやはり静かな絶望に浸っているように窺えた。彼女自身が、声も上げられない、底なしの絶望に浸っているためだった。

 ――フラハ母神様、お教えください。

 ――私の浅ましさは罪ですか?

 少女は、心の中で問い掛ける。だが、返ってくるのは、沈黙。石像は、慈悲深いような、憐れんでいるような、絶望しているような表情を浮かべたまま、動かない。答えない。

 ――どうかお答えください。そして、お許しください。こんなにも浅ましい私を、こんなにも醜い私を。お許しください。お救いください。

 沈黙。

 ――いや、そもそも、救済を求めることが罪なのですか? 巫女失格の分際で、人並みの処遇を求めることが罪なのですか? 私は今、とても恐れ多い大罪を犯しているのですか?

 沈黙。

 ――それでも、どうかお許しください。お見過ごしください。大層なことは決して申し上げられませんが、どうかこんな私にも、ほんの一欠片の幸福で結構でございます、自分を肯定できる言葉を、自分を好きになれる言葉をお与えください。どうか、どうか、どうか、フラハ母神様、フラハ母神様、フラハ母神様。………

「後生でございます」組んだ指に力を込める。強張った背中が前のめりになる。額に汗が浮かぶ。「――お答えください」

 と、その時――。

「ユキ」

 沈黙が破られた。

 

 突然名前を呼ばれた少女の肩が、びくりと上下する。振り返ると、背後に雄大な森を傅かせた、普段は対面も儘ならない大人物――大巫女の姿があった。口元は凛と引き締まっているが、瞳からはこの上なく穏やかな色彩が放たれている。

「あっ……」あまりの事態に、ユキは咄嗟に反応できない。サン・フラハ寺院を司る大巫女は、寺院の最奥部で国の要人と面会するのが常だ。国が平穏そのものとは言え、たった一人で森の中をうろつくとは、立場上考えづらい。彼女との遭遇は、まさに青天の霹靂と言えた。

「どうかしましたか? 口が開いていますよ」そう言って、一歩、大巫女が歩を進める。それでユキは我に返った。

「大変失礼致しました」片膝をついて首を垂れる。目線を降下する。「お師匠様、ご機嫌麗しゅうございます」

「ご機嫌麗しゅう。……敬虔な貴女のことですから、きっとここにいると思っていました。母神像に祈願していたのでしょう?」

 ドキリと心臓が脈打つ。大巫女は自分を探しに来たのだろうか? もし用件があるようなら、遣いの巫女を出せば良いものを、自ら探しに来るとは……。

 きっと、試験の結果が耳に届いたのだろう。三度も不合格だった落ちこぼれに、引導を渡しに来たのかもしれない。これで私の見習い期間も終わりかと、ユキはどこか他人事のように思う。散々うじうじと悩んできたが、幕引きは意外に呆気ないものだ。

 だが、これで良かったのかもしれない。

 執着に取り憑かれ、嫉妬に懊悩する自分は明らかに巫女たる器量ではなかった。これ以上無様な醜態を晒したくない――己を嫌いになりたくない――と、なけなしの自尊心が切実に訴えていた。だから、いっそのこと一思いに「追放」を宣告された方が、永遠に辿り着くことのない希望を追い求めて、生乾きの傷を増やし続けるよりも、ずっとずっと優しい。優しい、はずだ。

 本当に。

 親切すぎて、涙が出る。

「――はい」頬を熱っぽく伝う水滴。頭では納得しようと努めても、心の奥底が鈍く痛んで抗議の声を上げる。

 悔しい。

 ――これまで費やしてきた時間は、苦労は、すべて無駄となってしまうのか? 幼い自分が夢見た、偉大なる未来の自分には、結局会えないままなのか? 夢は所詮、指を銜えて見るものだから、夢なのか?

「私は母神像に祈っておりました。どうか、私をお救いください、と。こんなにもはしたない、浅ましい見習いの分際ですが、もしフラハ母神様に虫ケラをも慈しむ心がおありなら、どうか気紛れで結構でございます、その御手を差し伸べてくださいませと、不相応ながら祈っておりました」

 ユキは一息に、胸に詰まっていた毒まみれの言葉を吐き出した。

 大巫女は沈黙したままである。

 しかし、一度箍が外れた呪詛の念は、留まることを知らない。

 それは、暗黒街を闊歩する百鬼夜行のごとく、涙と共に、後から後から溢れ出す。

「結果、母神像は沈黙を尊びました。しかしそれも道理です。私は、見習いと自称するのも烏滸がましい、不純な身の上なのですから。祈りが届くはずもございません。

 ……どのあたりが不純なのか、具体的に申し上げましょうか?

 率直に言って、他の巫女達が憎くて憎くてたまらないのです。私がいくら努力しても成し得ないことを、平然とやってのけ、あまつさえ易々と巫女の地位に居座っているからです。これが産まれ持った才能の差なのでしょうか? 姉巫女達の御心は、産まれた直後から巫女になることを決定づけられていたかのように清く澄んでいて、一方で私の心は煤のごとく黒く歪んでいる。これを才能と言わずして、何と言いましょうか? もはや入口からして全てが違うのです。いずれにせよ、劣悪な嫉妬心を禁じ得ません。

 当然のことながら、私だって努力を怠ってはいないのです。しかし、巫女に向いている、向いていないという明確な差はどうしても生じてしまいます。それで言えば、確実に私は巫女に向いていないのです。それでも幼少より志していた手前、諦めきれず、みっともない執着心を抱いてしまいます。不適正の分際で、なんとか恩恵に与ろうと、執拗に足掻いてしまいます。

 本当に、お恥ずかしい話でございます。

 しかし、この恥ずかしいという気持ちが世界に存在していることも露知らず、執着とも嫉妬とも無縁の場所で、他の巫女達が穏やかに微笑んでいると思うと、やはり腸が煮えくり返る想いなのです。私だけが、この国――安らぎの国――から理由もなく疎外されている。爪弾きにされている。そう思えてなりません。一方で、姉巫女達もまた、理由なく安らぎの国に歓迎されている。歓迎される性質を、元来備えている。これは、……これは、まさしく不平等の極みではないのでしょうか?」

 ユキは、口を閉ざして相手を見上げた。どんな反応を期待しているのか、肯定されたいのか否定されたいのか、自分でも分からないまま。半ば酩酊状態で。……

 大巫女は――。

 やはり、凛と口元を結んだまま、穏やかな瞳で彼女を見下ろしている。その表情は、どこか慈悲深くもあり、憂いを含んでいるようにも窺えて、印象が一向に定まらない。

 つまりは、フラハ母神と瓜二つなのだった。

 生きた母神が、見下ろしている。

 両者が見詰め合ってから、いったいどれほどの時が流れただろうか。

 突然。

「――愚か者」

 沈黙を切り裂く声が、ユキの脳天を突き刺した。

 フラハ母神の声ではない。

 大巫女が口を開いたのだ。


   〇


「貴女は根本的に勘違いをしております。そうですね……どこから話せばいいものやら」

 ユキは、口籠る大巫女を初めて目の当たりにした。彼女の知る大巫女は、いつでも達観したように優美に構え、感情の変化を面に出さないからだ。眉根を寄せて、悩んでいる風の表情に、戸惑う。「勘違い、でございますか?」

「ええ、それはもう甚だしい……。しかしそれが、貴女の良さなのかもしれませんが」

「良さ?」素直に訊き返す。「どういうことでしょうか? 理解が出来ません」

「まず一つ」すらりと細い指が立つ。「ユキは自身の執着心と嫉妬心を、唾棄すべき感情とあしざまに言っていましたが、私の見解とは少し異なります。私は、そういった感情を抱くこと、それ自体は、なんら恥じ入ることではないと考えます。なぜならば、人である以上、執着心、嫉妬心、劣等感、悲壮感といった感情を完全に抑制することは不可能だからです。言い換えれば、そういった感情を抱くことが、すなわち人である証左だと言えます。つまり、貴女は自身を不健全だと貶めましたが、実際はその逆――まるで健全なのです。まずは、そのことを正しく理解してください」

 すらすらとリズムよく繰り出される心地良い声音に、ユキは一瞬心を奪われかけるが、瀬戸際で堪える。脳裏に浮かぶのは、憎き姉巫女達の顔触れだ。「お師匠様、そんなことはございません。私を慰めようとしてくださるお気持ちは大変嬉しいのですが、やはり私は人として……いや、巫女見習いとして適性を欠くと言わざるを得ません。事実、姉巫女の皆様は、そのような浅ましい感情とは無縁かと存じます。決して他人を罵ったり、心の内で見下したりするような真似はなさいません。嫉妬も執着もなさいません。なぜならば、それこそがつまるところ、巫女が巫女たる所以だからです。……それこそが、私に一番欠けているものなのです」

「彼女らの頭の中を覗いたことがあるのですか?」

「えっ」言葉に詰まる。「それは、どういう……」

「先に述べたように、人である以上、喜びもすれば、悲しみもします。喜怒哀楽すべての感情を兼ね備えて初めて、その人物は文字通り一人前となれるわけです。そして、『怒』の感情には嫉妬心が含まれ、『哀』の感情には執着心が含まれます。これら負の感情なくして、人は人たり得ません。『喜』と『楽』だけでは、心理的均整を保てなくなってしまうのです。そういった人物は、例外なく、自重に潰されます。すなわち、『怒』と『哀』は、不思議なことに悪い影響ばかりではなく、心理的負荷を取り除く息抜きの側面も持ち合わせていることになるのです。これは理屈では語れません」

 そしてここからが二つ目――と、二本の指がぴんと立つ。

「巫女も、巫女である以前に人です。で、あれば、当然空腹を覚えれば『お腹が空いた』と考えるし、疲労が溜まれば『疲れた』と考えます。同様に、ときには怒りを覚え、ときには哀しみに打ち拉がれます。何度も繰り返しますが、人である以上、それは至極当然の感情なのです。なにも特別なことではありません」

「そ、それはそうかもしれませんが、しかし実際、姉巫女達はまったく穏やかに……」

「貴女にはそう見えるのでしょう。しかしそれは、彼女らが、そう見えるように振舞っている努力の結果に過ぎません」

「努力、ですか?」まったく関係ない言葉が突然出てきたように感じたので、思わず反応してしまう。その言葉だけは、姉巫女に似合わない。相応しくない。――そう思う。

 大巫女は、ユキから視線を外して、虚空を見詰めた。まるで、記憶の残滓に想いを馳せるかのように。

「ええ。彼女らは皆、陰で努力をしています。なぜならば、この国が、そして国民が、そういったイメージを――清廉潔白な理想像を、巫女に求めているからです。具体的に言えば、フラハ母神に敬虔な志を持ち続ける者には、老若男女問わず無上の愛情でもって応える――そういった形式を、期待されているからです。つまり、巫女とは、国民が欲する型を形成して、初めて巫女と呼べるのです。そのために、彼女らは日夜努力を欠かしません」

 無論、それは私も変わりませんが――と、大巫女は呟く。

「言わずもがな、ここ『安らぎの国』には、フラハ母神を心の拠り所とする者達が大勢在住しています。その体制を揶揄して、近隣諸国の中には悪意を持って『宗教国家』と指をさす国も少なくないと聞きますが、それは中らずと雖も遠からず、といった具合です。この国の秩序は、まさしく宗教によって守られているのですから、『宗教国家』と揶揄されようとも、私はその事実を誇りに感じています。……人を救済する手段は、人の数だけ存在して良いはずです。その手段が偶々宗教で、提供者が巫女達だったという、ただそれだけの話なのですから。人の役に立てられている以上、誇りに感じこそすれ、後ろめたいことは、どこを見渡しても見つかりません」

「………」

「話が些か逸れましたが――貴女の疑問に答えるため、あえて身も蓋もない言い方をすれば――前述した理由から、巫女とはあくまで、この世に存在する数ある職業の中の一つに過ぎないということです。提供者という括りで見れば、食事を提供する者を料理人、技術を提供する者を職人と呼ぶように、救済を提供する者を巫女と呼ぶ――ただそれだけのことなのです。そして、無論、料理人も職人も巫女も、職業という名の幻惑を取り払ってしまえば、その正体は同じ人です。ゆえに、大きな差異が発生するわけもありません。眠ければ『眠い』と考え、嬉しければ『嬉しい』と考え、悔しければ嫉妬心を抱き、諦められなければ執着心を抱きます。……ユキは少々、巫女という存在に憧れを抱きすぎていたのでしょうね。いや、その愚直なまでの真面目さが、貴女の強みなのでしょうが」

 と、このとき。

 いつの間にか慈愛の光彩が消え、鋭利に細められていた瞳が、ユキを捉えた。

 その眼光はどこまでも鋭く、そして清らかに透き通り。

 少女の内面を深々と射抜いて、逃がさない。

 ゆっくりと、唇が開閉する。

 ――そう、まさに貴女は、真面目が過ぎたのです。巫女という肩書を持つ彼女らに敬意を払い、献身的な努力を続ける一方、この国の国民と同じように、見当違いの憧れを見出すようになってしまったのです。

 ――それは決して悪いことではありません。現に、同じ幻想を見出した他の者達は、心の安らぎを得て、何一つ不自由なく暮らしているのですから。私共の努力も報われているのです。しかし、不運にも、ユキだけには幻想が悪い方面に作用してしまった。それは私共の努力が足りていなかったことが原因とも言えますし、ユキが規格外に真面目で、繊細な心の持ち主だったことが原因とも考えられます。いずれにせよ、不幸な事故でした。

 ――幼少期より夢見た理想の巫女と、現実の職業としての巫女。

 ――そこの食い違いが、貴女を苦しめていた、異物の正体です。


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