5 彼女の時間
床には新聞紙を敷き詰め、美玖はイスに座る。膝にも新聞紙を敷いて、体に髪が落ちないように簡易的に覆う。本当に小さな美容室を作った。目の前には縦長の姿見があり、私達二人を写す。
「本当にいいの? せっかくここまで伸ばしたのに」
「いい。っていうか前からこの髪私に合ってないと思ってた」
確かにその髪は、今の美玖の外見にはあんまり似合ってなかった。肩くらいまでにして、ちょっとウェーブさせて茶髪にするのが一番似合うと思うけど。
私は髪を手にとる、光に当てると艶がいいのがすぐわかる。髪にあまり興味のない私でさえもこの髪は羨ましいと思う。
少し暴走気味の美玖を、後から後悔しないようにと思って少しだけ説得したけど、美玖の気持ちは意外と強かった。どちらかというと髪を切るきっかけはいつも探していたのかもしれない。
「早く切っちゃお。お爺ちゃん来たらうるさいかもしれないし」
「うん……」
本当に使うことになるとは思ってなかったけど、一応持ってきていたはさみを握る。もう久しく人の髪なんて切ったことないので、緊張していた。
「どうせだから、最初はわかりやすく横にばっさり切ってくれる? 長さは首くらいで、あとはれいに任せるわ」
「私、人の髪切るのなんて久しぶりだから、失敗しちゃうかもよ?」
あまりの不安に聞いてみる。はさみを持ってもなぜか落ち着かなく、手は何度も開いたり閉じたりを繰り返していた。
「いいって。美容室行くのもなんかあんな男の為にお金使うようでムカつくし、れいだったら私好み通りに切ってくれそう」
さらにハードルが上がったように感じたが、でも、美玖の決意も、会話をするほどに痛いほど伝わって、私には切るしかなかった。
「じゃあ、始めるよ」
腰までまっすぐな髪を全体的に霧吹きで濡らして、髪をとかす。櫛は髪に引っかかることなく、するすると下まで降りる。
そして私は、首の中心ほどで髪にはさみを入れて。
シャキ
そんな軽い音とともに、美玖の髪がさらさらと、新聞紙の上に落ちた。
美玖は全く動かない、はさみをもう一度動かす。
シャキ
たった数回。私が手を動かすだけで、美玖の時間が流れるように落ちていく。長かった髪を首より少し下くらいの長さに切ってから、美玖に声をかけた。
「美玖」
目を瞑っていた美玖が、ゆっくりと目を開ける。
「…………」
美玖はそのまま、大きな涙をこぼした。
美玖の中で、なにが渦巻いているのかは、私には分からない、美玖は静かに涙をこぼし続けた。
窓からは大きな声が絶えず、お爺さんの声もなんとなく聞こえる気がする。お爺さんは、このばっさりと切られた髪を見て、どう思うのだろうか。そしてれいは、この髪にどんな思い入れがあったのだろうか。
私に今できるのは、その時間を切り取ってしまうだけだ。
「長さそのくらいで、いい」
美玖が言う。
「……うん。このくらいで整えるね」
私の手は、鋏を入れる度に自然に、より手際よく動いた。頭で忘れていても、体はちゃんと覚えているんだ。
後ろ髪を自然に揃えて、トップも薄くする。
シャキ シャキ
祭囃にとけ込んで、鋏の音が響く。
あぁ、そうか。
この音を聞いているうちに、私もあることに気づいた。
私が小さいころ、髪は決まってお母さんが切ってくれていた。まさに今と同じような状況で、お母さんの美容師でもなんでもなくただの主婦だったが、鋏はちゃんとした髪を切る鋏を持っていて、私はそのシャキ、シャキ、という音が心地良くて、切るほどの長さでもないのによく切ってせがんだものだ。あれが、私の美容師になろうと思ったきっかけだった気がする。
「はい、できたよ」
御神輿の音ももうだいぶ後ろに行ってしまったようで、通り過ぎた後はなんだか少し寂しい。
「んっ、ありがとう」
美玖は髪を手ですいて、残った髪を落とす。
「どう?」
「そうね。長いときよりよっぽど私に似合っていると思うわ。さすが美容師さん」
美容師ではないんだけどね、と心の中で思う。
「頭こんなに軽くなるなんて、思わなかった。肩こりも治っちゃいそう」
嬉しそうにくるくる回り、髪を広げる美玖は、私にもよく似合って見えた。
と思うと、急に美玖は立ち止まり、鏡の中の自分をじっと見て。
「ありがとう」
小さな声で、そう言った。
結局私は、お祭りを見ることはできなかった。元気なお爺ちゃんも、立派な御神輿も見たかったが、私はそれ以上に、大事なものを見せてもらった気がしていた。
帰ってきたお爺ちゃんは、美玖を見て声も出ないようだったが、結局はなにも言わなかった。いつか切ることは、お爺さんにも分かっていたんだろう。しかし、私達はその反応に拍子抜けしてしまって、美玖と感想くらいは言って欲しかった、と少しだけ文句を言った。
お祭りは無事終わり、後片づけもある程度済ませると、お爺さんは引き出しから封筒を取り出し、私に差し出した。
「三日間お疲れさま。これはバイト代じゃ」
働きに見合わない金額の入った封筒をもらう。なんだかお昼も豪華なもので、ほとんど本読んでいただけだし、少し申し訳ない気もするけど、ありがたく受け取った。
「ありがとうございます」
「美玖のことも世話になったな。気むずかしいあの娘があんなに懐くとは思わなんだ」
「いえ、私も楽しかったですよ。一人だとやることがなくて……」
「そりゃそうじゃな」
お爺さんは笑った。
私はここでバイトを続けたいな、と思ったがそんなことをしたらお爺さんの貯金がどんどん減ってしまいそうなので言わないでおく。
「一応聞いておくが……美玖の髪を切ったのは、お嬢ちゃんじゃな?」
「そうです」
私が素直に認めると、お爺さんは少し考えてから、困ったように笑った。
「いや、いいんじゃ。ワシはあの長い髪がよかったんじゃが、美玖は前から気にいらなそうにしていたからな。美玖とってはいい機会にだったんじゃろう」
お爺さんにも思うところはあったのだろうけど、私はほっとした。切った髪は戻らない、取り返しのつかないことだ。
「こちらこそいろいろ良くしていただいて、ありがとうございます。今度また遊びに来ますね」
「あぁ、美玖も喜ぶ。外で待っているはずだから、行ってやってくれ」
「はい、本当にお世話になりました」
私は深くお辞儀して、店を出る。カウンターの上に読みかけの本が置いてあって、最後まで読めなかったことを少し悔しく思ったと同時に、なんとなくまた読む機会が来るような気もした。
「お疲れさま。なんかペコペコし合ってて、おもしろかったね」
外にいた美玖はにやにやして、こちらを見ていた。
「だって、こんな破格のバイト、初めてだったもの。そりゃ頭も下げるよ」
「だよねぇ、いつも高すぎるって言ってるんだけど、お爺ちゃん変えないんだ。まぁこのくらいでも今までは一人も来なかったんだけど」
美玖と歩きだす。お昼とは全く違い、とても静かな商店街は、やっぱり寂しく思える。開いている店も少なく、初めて私が来た日より酷いかもしれない。
「でも、お給料たくさんもらったなら、なにか奢ってくれてもいいんじゃない?」
「えー、そんなこといったら私だって、昼間のカット料金、もらってないんだけど」
先を歩く美玖は、長い髪が懐かしいけど、今では短い方が自然に見える。その出来に私は少しだけ自画自賛した。
「えー、それ取るの? 高校生は世界一お金がないんだよ?」
「私もたった今無職になったんだけど……仕方ない、今回は少しだけ奢ってあげよう」
「やった、いいとこ知ってるから行こ、パフェが美味しいんだー」
美玖は飛び跳ねるように歩く。私はなんとなく鋏を持っているかのように手を動かしてみた。今ならどんな人の髪だって、上手く切れる気がする。
だって、誰もが羨ましがるような綺麗な髪を、私は切ったんだから。
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