おっぱい。
おっぱい。
おっぱいとはなんともやわらかくいやらしくきれいに芸術的であり、およそけなすべき点が見つからないこの世の宝物である。
「おっぱい」という単語の響きの素晴らしさは何物にも代えがたい。胸では味気ないし、乳と呼んでしまえば乳牛のそれと間違いかねない。父と間違えてしまった場合は目も当てられない惨事なることだろう。
おっぱいとは正におっぱいのためにあるべき言葉だ。
そうして私が至ったのは、おっぱいによる世界平和である。
おっぱいによる世界平和である。
もう一度言う。
おっぱいによる世界平和である。
おっぱいがいっぱいで不満なものがいようか。
この世界にはどこにでも人間がいる。すなわち世界のどこにでもおっぱいがあるのだ。おっぱいはすでにグローバルであり、国境等は関係が無く、それ以前に国が出来る以前よりおっぱいは存在していたのだ。
数字が共通言語であるとは聞いたことあるけれど、おっぱいこそが共通おっぱいであると私は思うのだ。
おっぱいのおっぱいによる世界平和の考えが私に降ってきたのは天啓であると思う。神様もおっぱいの力をお認めになり、私に神託を授けたのだ。いや、おっぱいこそ神様だ。おっぱいイズゴッドである。
おっぱい世界平和を目指すにあたって、神託を受け取ったのが私で良かった。その理由は主に二つある。
まず一つ目は私が女であることだ。
男が言えば逆に女性の防御意識は高まり、おっぱいが引きこもってしまうかもしれないのだ。同性であれば、警戒心は薄まるはずだ。たとえ私の髪が短くボーイッシュと言われようとも生物学上は女には変わりない。男のように少なくともセクハラで訴えられることはない。ただしイケメンを除いて。
もう一つは私が貧乳であることだ。
品のある乳である品乳ではなく、貧しい乳と書いたほうの貧乳だ。おっぱい世界平和を唱えたらおっぱい至上主義と勘違いされ、巨乳が素晴らしい主義だと思われてしまうかもしれないただし私のおっぱいを見よ。穴の開くほど。生まれて十八年間変わらずこのおっぱいである。ちっぱいではない、おっぱいだ。
みんな等しくおっぱいだ。
みんな違ってみんなおっぱい。
どのおっぱいに違いはないんだ。おっぱいはどれも素晴らしい。
巨乳が羨ましいと思ったことはない。だっておっぱいはどれも素晴らしいから。本当、これが私の本心だって。
おっぱいによる世界平和は本当に出来ると思う。出来るからにはやらなければならない。
その際にはおっぱいに優劣をつけるような真似はしては駄目だ。その差はいつか大きく広がって溝となり、争いに発展しかねない。
だから、おっぱいに優劣をつけてはいけない。
僻んでいるわけではない。全ては世界平和のためだ。
おっぱいに巨も貧もない。
おっぱいは、おっぱいだ。