03
どれほど剣を振るっただろうか。
後ろ脚を斬りつけられた馬が激しく嘶く。思わず体勢を崩した瞬間、左の脇腹を灼熱が走り抜けた。
「……ッ」
ラガートは地面に叩きつけられながらも、必死に受け身を取った。狂乱する馬蹄が躍る。
激痛と砂塵に顔をしかめると、視界の端で剣筋が光った。
――風を切る音がした。
逃げるよりも早く振り下ろされた刃が右目を切り裂いた。すべてが紅く染まる。
「その首、貰ったァ!」
叫びが喉を衝く前に、再び肉薄する殺気に利き腕が動いていた。
骨を断つ鈍い感触。ばたばたと頬に血飛沫が降る。霞む左側の視界に、頭部を失って傾ぐ男の体が映りこんだ。
左目を濡らす返り血を拭い、ラガートは長剣をかまえ直した。
たったひとりの〈青鷹〉の戦士に対し、彼を囲む敵はあまりに多勢だった。剣の柄を握る手がぎちりと軋む。
(まったく、名が売れすぎるのも困ったものだ)
片頬を歪めるラガートに、じりじりと〈白蠍〉の戦士が迫る。荒くなるばかりの呼吸を整えようとして――後方から響いてきた蹄の音に隻眼を見開いた。
「〈青鷹〉だ!」
「騎馬が戻ってきたぞ!」
怒声が聞こえた瞬間、ラガートは全力で跳んだ。息を呑んだ〈白蠍〉の戦士を斬りつけ、猛然と駆け出す。
「逃がすな! だれか捕まえろ!」
あっという間に追いついた馬の上から腕が伸ばされた。ラガートは夢中でその手を掴み、騎手の後ろに飛び乗った。
よく見知った、剣創の戦士の背中だった。
「しつこい蝿は頼んだぞ、若!」
「……勝手言いやがって!」
ラガートは追いすがろうとする敵を馬上から打ち払った。馬は泡を吹く勢いで駆けていく。びょうびょうと風が耳元で唸る。
(ああ――)
深い深い、砂漠の闇が騎馬を迎え入れた。凍った風に血の臭いが散らされていく。〈白蠍〉の居留地を抜けたのだ。
(よかった。約束を、守れそうだ)
そこで限界だった。
激しい振動に揺さぶられながら、ラガートの意識はぷつりと途切れた。
細い指先が、汗に濡れた額に触れている。
張りついた前髪をそっと払い、水で絞った布で汗を拭ってくれる。焼けつく痛みに苛まれながら、ラガートは無意識に尋ねた。
――かあさん?
優しい掌が一瞬、動きを止める。掠れた女の声が「いいえ」とささやいた。
「あなたは、妾の子どもではないでしょう?」
泣いているような、詰るような口ぶりだった。途端に申し訳ない気持ちになって、ラガートは眉宇を曇らせた。
――すまない。
思わず伸ばした手をきつく捕らえられる。弱々しい嗚咽が聞こえた気がして、ラガートは、必死に彼女の名前を呼んだ……
目を開いて、視界の違和感に瞬いた。
――右目が塞がっている。
手探りに確かめると、分厚く包帯を巻かれている。開いているのか瞑っているのか、瞼の感覚がうまく掴めない。
左の脇腹が焼けつくように疼いた。全身が重く、息をするだけで胸が苦しい。まぶしさが頭痛と嘔気を誘い、ラガートは顔をしかめて左目を閉じた。
(生きている……)
痛みこそが生あることの証だった。傷の消毒に使われる酒と薬草の匂いを深く吸いこみ、かつてないほどの安堵を噛み締めた。
天幕の間仕切りの垂れ布がめくられる音。そっと近づく人の気配に、ラガートは妻を呼んだ。
「……エルローサ?」
彼女は短く息を呑んだ。固いものが床に落ちて、ぱしゃんっと水が跳ねる。
「ラガート殿」
応える声は微かに震えていた。冷たい指が閉じたままの左の瞼に触れる。ラガートは苦く笑った。
「目は覚めている。光がまぶしくて、頭が痛くなるんだ」
「……っ、今、薬師を」
とっさに腕を伸ばし、離れようとするエルローサの衣を引いた。
「すまない。声を、聞かせてくれないか」
枕元に座りこむ気配があった。引き留めた手をやわらかな掌が包みこむ。力が抜けた指先に、濡れた唇が触れた。
――胸の奥から、ようやく、喜びがこみ上げてきた。
「こんな、こんな大怪我をして帰ってくるなんて」
「……すまない」
「血まみれで、意識をなくしたあなたが運びこまれてきたとき、どれだけ妾が驚いたと……っ」
エルローサはきつく詰った。それがひどく嬉しくて、ラガートは小さく笑った。
「約束は守っただろう?」
口をつぐんだあと、泣き出す寸前の声が「ばか」と言った。どうやら、自分に関する妻の口癖になっているようだった。
「いったい何日熱にうなされていたと思っているんですか?」
あれから五日も経ったのだとエルローサは告げた。ラガートは表情を引き締めた。
「皆は」
「半数以上の方が無事に帰ってこられましたよ。……あなたが立派に殿を果たしたおかげだと」
責めるように手の甲に爪を立てられる。ラガートは息をつき、わずかに眉尻を垂らした。
「……拗ねないでくれ」
「拗ねてなんかいません」
「じゃあ、許してほしい」
再びエルローサは黙りこんだ。
「あなたに会いたくて無我夢中だった。決死の努力を褒めてくれないか?」
「ほんとうに、馬鹿ですね」
「うん。……なぜか、あなたにそう言われるのはいやじゃないな」
指の背に、冷えた頬が寄せられる。微かに残る湿り気に、胸が締めつけられた。
「心配を、かけた」
「かけすぎです」
「これからも、たぶん、かけると思う」
吐息のような微笑みが伝わった。
「わかっていたつもりでしたけれど、案外、つらいものですね」
「……すまない」
「いいんです。あなたの求婚を受けたことを、悔いてなんていません。ただ、ただ……胸が押し潰されそうで、怖くて」
ひくり、とエルローサの喉が鳴る。声を詰まらせ、彼女はラガートの肩口に身を伏せた。
「だれかを失うことが、こんなにも怖いものだなんて……」
彼女の言葉に、ラガートは重みのようなヨルンの孤独を感じた。寄辺のない、放浪者の哀しみを。
――淋しがりやな小鳥を、慰めてやりたいと思った。
「何度でも、約束する」
ぎこちなく手を握り返し、ラガートはただひとりの妻にささやいた。傷ついた心を解きほぐそうと、もう片手で長い髪を梳く。
「あなたが心安らぐなら、俺は必ず帰ってくる。あなたを寡婦にするつもりなんて毛頭ないと、言っただろう?」
「……当たり前です」
ぐすりと鼻を鳴らし、エルローサは口調を尖らせた。ラガートは声を洩らして笑った。
額に、額が重なる。震える呼気が熱い。幸せだと感じ、どうしようもなく泣きたくなった。
「おかえりなさい」
早くエルローサの顔が見たいと思った。笑った顔を、美しい菫色の瞳に映る自分を確かめたい。ただここにある、生きる歓びを。
「――ただいま」
すべての想いをたったひと言にこめて、ラガートは愛するひとに口づけた。