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千一夜の薔薇  作者: 冬野 暉
第三夜 剣に祈りを
9/14

03

 どれほど剣を振るっただろうか。

 後ろ脚を斬りつけられた馬が激しく嘶く。思わず体勢を崩した瞬間、左の脇腹を灼熱が走り抜けた。

「……ッ」

 ラガートは地面に叩きつけられながらも、必死に受け身を取った。狂乱する馬蹄が躍る。

 激痛と砂塵に顔をしかめると、視界の端で剣筋が光った。

 ――風を切る音がした。

 逃げるよりも早く振り下ろされた刃が右目を切り裂いた。すべてが紅く染まる。

「その首、貰ったァ!」

 叫びが喉を衝く前に、再び肉薄する殺気に利き腕が動いていた。

 骨を断つ鈍い感触。ばたばたと頬に血飛沫が降る。霞む左側の視界に、頭部を失って傾ぐ男の体が映りこんだ。

 左目を濡らす返り血を拭い、ラガートは長剣をかまえ直した。

 たったひとりの〈青鷹〉の戦士に対し、彼を囲む敵はあまりに多勢だった。剣の柄を握る手がぎちりと軋む。

(まったく、名が売れすぎるのも困ったものだ)

 片頬を歪めるラガートに、じりじりと〈白蠍〉の戦士が迫る。荒くなるばかりの呼吸を整えようとして――後方から響いてきた蹄の音に隻眼を見開いた。

「〈青鷹〉だ!」

「騎馬が戻ってきたぞ!」

 怒声が聞こえた瞬間、ラガートは全力で跳んだ。息を呑んだ〈白蠍〉の戦士を斬りつけ、猛然と駆け出す。

「逃がすな! だれか捕まえろ!」

 あっという間に追いついた馬の上から腕が伸ばされた。ラガートは夢中でその手を掴み、騎手の後ろに飛び乗った。

 よく見知った、剣創の戦士の背中だった。

「しつこい蝿は頼んだぞ、若!」

「……勝手言いやがって!」

 ラガートは追いすがろうとする敵を馬上から打ち払った。馬は泡を吹く勢いで駆けていく。びょうびょうと風が耳元で唸る。

(ああ――)

 深い深い、砂漠の闇が騎馬を迎え入れた。凍った風に血の臭いが散らされていく。〈白蠍〉の居留地を抜けたのだ。

(よかった。約束を、守れそうだ)

 そこで限界だった。

 激しい振動に揺さぶられながら、ラガートの意識はぷつりと途切れた。




 細い指先が、汗に濡れた額に触れている。

 張りついた前髪をそっと払い、水で絞った布で汗を拭ってくれる。焼けつく痛みに苛まれながら、ラガートは無意識に尋ねた。

 ――かあさん?

 優しい掌が一瞬、動きを止める。掠れた女の声が「いいえ」とささやいた。

「あなたは、妾の子どもではないでしょう?」

 泣いているような、詰るような口ぶりだった。途端に申し訳ない気持ちになって、ラガートは眉宇を曇らせた。

 ――すまない。

 思わず伸ばした手をきつく捕らえられる。弱々しい嗚咽が聞こえた気がして、ラガートは、必死に彼女の名前を呼んだ……




 目を開いて、視界の違和感に瞬いた。

 ――右目が塞がっている。

 手探りに確かめると、分厚く包帯を巻かれている。開いているのか瞑っているのか、瞼の感覚がうまく掴めない。

 左の脇腹が焼けつくように疼いた。全身が重く、息をするだけで胸が苦しい。まぶしさが頭痛と嘔気を誘い、ラガートは顔をしかめて左目を閉じた。

(生きている……)

 痛みこそが生あることの証だった。傷の消毒に使われる酒と薬草の匂いを深く吸いこみ、かつてないほどの安堵を噛み締めた。

 天幕の間仕切りの垂れ布がめくられる音。そっと近づく人の気配に、ラガートは妻を呼んだ。

「……エルローサ?」

 彼女は短く息を呑んだ。固いものが床に落ちて、ぱしゃんっと水が跳ねる。

「ラガート殿」

 応える声は微かに震えていた。冷たい指が閉じたままの左の瞼に触れる。ラガートは苦く笑った。

「目は覚めている。光がまぶしくて、頭が痛くなるんだ」

「……っ、今、薬師を」

 とっさに腕を伸ばし、離れようとするエルローサの衣を引いた。

「すまない。声を、聞かせてくれないか」

 枕元に座りこむ気配があった。引き留めた手をやわらかな掌が包みこむ。力が抜けた指先に、濡れた唇が触れた。

 ――胸の奥から、ようやく、喜びがこみ上げてきた。

「こんな、こんな大怪我をして帰ってくるなんて」

「……すまない」

「血まみれで、意識をなくしたあなたが運びこまれてきたとき、どれだけ妾が驚いたと……っ」

 エルローサはきつく詰った。それがひどく嬉しくて、ラガートは小さく笑った。

「約束は守っただろう?」

 口をつぐんだあと、泣き出す寸前の声が「ばか」と言った。どうやら、自分に関する妻の口癖になっているようだった。

「いったい何日熱にうなされていたと思っているんですか?」

 あれから五日も経ったのだとエルローサは告げた。ラガートは表情を引き締めた。

「皆は」

「半数以上の方が無事に帰ってこられましたよ。……あなたが立派に殿を果たしたおかげだと」

 責めるように手の甲に爪を立てられる。ラガートは息をつき、わずかに眉尻を垂らした。

「……拗ねないでくれ」

「拗ねてなんかいません」

「じゃあ、許してほしい」

 再びエルローサは黙りこんだ。

「あなたに会いたくて無我夢中だった。決死の努力を褒めてくれないか?」

「ほんとうに、馬鹿ですね」

「うん。……なぜか、あなたにそう言われるのはいやじゃないな」

 指の背に、冷えた頬が寄せられる。微かに残る湿り気に、胸が締めつけられた。

「心配を、かけた」

「かけすぎです」

「これからも、たぶん、かけると思う」

 吐息のような微笑みが伝わった。

「わかっていたつもりでしたけれど、案外、つらいものですね」

「……すまない」

「いいんです。あなたの求婚を受けたことを、悔いてなんていません。ただ、ただ……胸が押し潰されそうで、怖くて」

 ひくり、とエルローサの喉が鳴る。声を詰まらせ、彼女はラガートの肩口に身を伏せた。

「だれかを失うことが、こんなにも怖いものだなんて……」

 彼女の言葉に、ラガートは重みのようなヨルンの孤独を感じた。寄辺のない、放浪者の哀しみを。

 ――淋しがりやな小鳥を、慰めてやりたいと思った。

「何度でも、約束する」

 ぎこちなく手を握り返し、ラガートはただひとりの妻にささやいた。傷ついた心を解きほぐそうと、もう片手で長い髪を梳く。

「あなたが心安らぐなら、俺は必ず帰ってくる。あなたを寡婦にするつもりなんて毛頭ないと、言っただろう?」

「……当たり前です」

 ぐすりと鼻を鳴らし、エルローサは口調を尖らせた。ラガートは声を洩らして笑った。

 額に、額が重なる。震える呼気が熱い。幸せだと感じ、どうしようもなく泣きたくなった。

「おかえりなさい」

 早くエルローサの顔が見たいと思った。笑った顔を、美しい菫色の瞳に映る自分を確かめたい。ただここにある、生きる歓びを。

「――ただいま」

 すべての想いをたったひと言にこめて、ラガートは愛するひとに口づけた。

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