02
静かな夜だった。
藍く凍った空には星ぼしが光り、音もなく砂を踏んで進む隊列をひっそりと照らしていた。ひと際明るく燃える青い星――〈アストロの瞳〉の位置を確め、ラガートは片手を上げた。
隊列が止まる。馬上の男たちは目を眇め、砂丘の合間に覗く居留地の灯りを見据えた。
「あそこだ」
ラガートの横に並んだ壮年の男が呟く。右の頬に古い剣創がある彼は、初陣の頃から世話になってきた手練れの戦士だった。
「気づかれていないようだな」
「ああ。〈白蠍〉のやつらめ、のんきに天幕の中で寝こけてやがる」
剣創を歪ませ、男は嘲笑った。ラガートはわずかに眉根を寄せた。
(なんだか、いやな予感がする)
剥き出しの首筋を夜風が冷たく撫ぜる。心細さにも似た不安がじわりと滲み、ラガートは手綱を握る拳に力をこめた。
胸中の翳りを振り払い、夜空を仰ぐ。今宵は新月――満天の星明かりが降るようだ。
(そろそろ刻限か)
戦士たちは三方向に分かれ、同時に〈白蠍〉の居留地へ攻めこむ手筈になっていた。ラガートは一隊の指揮を任された。
広大な砂漠で生きる遊牧民は、天の光の運行を読んで時刻や方位を知る。幾千幾万の星の模様は、この世で最も正確な時計であり精緻な地図なのだ。
(夜襲にはもってこいの晩だな)
深い闇は刺客の心強い味方だ。だからこそ、決行の夜に選ばれた。
また首筋にひやりと風が触れる。だれかにささやかれたような気がして、ラガートは瞬いた。何か――何か見落としていないだろうか?
掴み取れない焦燥感と戦っていると、剣創の戦士が低い声で「刻限だ」と告げた。ざわりと殺気が浮き立つ。
低く、重く、厳かに男たちは詠う。
「血には血を」
「痛みには痛みを」
「嘆きには嘆きを」
「死の天秤の量り手、裁きと赦しの司、我らが慈母よ。彼方の皿を重く、此方の皿を軽くされよ」
「願わくは、我らの剣を濡らす血潮は咎にあらじと判じられることを」
砂漠の戦士たちに伝わる、流血の赦しと勝利の祈願を乞うまじないの詞だった。清らかな天上におわすミアはあらゆる者に慈悲深く、同時に残酷だ。それでも、汚れた地上で足掻き続ける人間は、より多くの救いを望まずにはいられない。
(ここまで来ては引き返せない)
ラガートはすばやく思考を切り替えた。もはや死地へ踏みこむだけだ。片手で長剣を鞘から引き抜くと、掲げた刃を星屑の雨垂れに濡らした。
一瞬、脳裏を白い面影がよぎる。ただ静かに、彼は祈った。
「――聖き語り部の祝福を」
それが合図となった。
砂塵を散らし、隊列が駆ける。砂地を抜けるとだれからともなく鬨の声を上げた。馬蹄の音が居留地を踏み荒らす。
馬上から刃が振るわれ、天幕を切り裂いた。しかし中から飛び出してきたのは憐れな獲物ではなく、武装した〈白蠍〉の戦士だった。
甲高い嘶きとともに、血飛沫と悲鳴が上がった。
ラガートは目を剥いた。
天幕から次々と現れる、刃を手にした男たち。〈青鷹〉の戦士たちは、いつの間にか居留地の内側に囲いこまれていた。
(罠か!)
気づいたときには手遅れだった。ラガートより年少の戦士が数人がかりで馬上から引きずり下ろされ、容赦なく刃を突き立てられる。悲痛な断末魔を、瞬く間に剣戟と怒号の嵐が掻き消した。
少数精鋭の〈青鷹〉の戦士たちに対し、〈白蠍〉の戦士の数は圧倒的だった。おそらく部族を挙げての作戦に違いない。密かに居留地を移し、新月の晩を狙って夜襲を誘い――あとは袋のネズミとなったラガートたちを仕留めるだけ。
ラガートは奥歯を軋ませ、長剣を薙いだ。まさに躍りかかろうとしていた敵の腕がちぎれ飛ぶ。
(こんなところで――)
剣を振るいながら必死に考える。確かに数では負けるが、こちらは騎兵だ。一縷でも、そこに望みはある。
ラガートは声の限り吠えた。
「走れ!」
戦場を貫く声に、〈青鷹〉の戦士たちがハッと息を呑む。赤い雫を散らして、銀の切っ先が砂地を示した。
「あきらめるな、かまわず駆けろ。走るんだ!」
男たちが瞬時に馬首を返す。跳ね上がった馬脚が〈白蠍〉の戦士を蹴散らし、撤退という名の猛攻がはじまった。
ラガートは最後尾につき、逃げる仲間たちを敵の刃から守り続けた。剣創の戦士が叫ぶ。
「若!」
青年を狙う凶刃が弾かれる。剣創の戦士は、ラガートの背中を庇うように馬を寄せた。
「何をしてるんだ、あんたも早く逃げろ!」
「俺にかまうな」
「若――」
ラガートは苦笑した。
「そう呼んでもらうからには、務めは果たすべきだろう?」
自分の腕を認め、若殿だと言ってくれる戦士たちを無駄死にさせるわけにはいかない。居留地には、彼らの無事を信じて待っている人々がいる。
「皆を頼む」
剣創の戦士は唇を噛み締めた。ラガートは振り返らず、敵陣に向かって手綱を引いた。
「聞け、卑怯者どもめ!」
腹の底から声を張り上げる。戦場では強さこそがすべてだと知る戦士だからこそ、その功名心を煽るなど簡単だ。
「我が名は〈青鷹〉の族長ファルナードが次子、ラガート! 貴様らにこの首が獲れるというのなら、獲ってみろ!」
おおおおッ! と〈白蠍〉の戦士たちが咆哮した。松明にぎらつく刃がラガートへ向けられる。
底冷えするような、それでいて血流が燃え上がるような、無音にも似た高揚感が意識に染み渡っていく。どれだけ時間を稼げるだろうかと目算しながら、ラガートは思った。
(せめて、愛していると伝えればよかった)
帰らない自分にエルローサは怒るだろうか。少しでも泣いてくれるだろうか。菫色の瞳からこぼれ落ちる涙を拭えぬことがたまらなく口惜しく、いとおしかった。
――はじめて、約束をした。
族長の息子、部族の護り手としてではなく、ラガートというひとりの男として。だれのためでもなく、自分の心が願うままに。
(まだ天秤は傾いていない)
死神は傍らに立っている。その手がじわじわと首を絞めつける。
それでも、ラガートは握り締めた剣に祈った。
(どうか、あきらめさせないでくれ)
息を吸いこみ、力の限り馬の腹を蹴った。