01
平穏というものは長く続かない。
先の小競り合いの相手である部族が取り決めたはずの協定を破り、〈青鷹〉の領域に侵入したという一報に居留地は騒然となった。
ラガートが族長の天幕を尋ねると、父や兄をはじめ、部族の重鎮がほぼ顔を揃えていた。下座に就こうとしていた弟に、クレイスが無言で手招きをする。
「来たか、ラガート」
父にまで声をかけられたら従うしかない。無遠慮な視線が数十の針のように突き刺さる。ラガートは唇を引き結び、次期族長の隣の席まで赴いた。
「〈白蠍〉の一味が境界線を踏み越えたと」
隣り合う〈白蠍〉の部族とは、長らく友誼ではなく刃を交わしてきた歴史がある。稀少な水源や緑地をめぐって諍いが絶えず、〈青鷹〉の戦士の宿敵は〈白蠍〉の戦士と言っても間違いではない。ラガートとて、初陣から先の小競り合いまで彼らと踊った戦場は数えきれない。
北の沃地の職人が手がけた、蒼翼の鷹の図柄が染め抜かれたタペストリーを背に座った父は、厳しい表情で顎を撫でた。
「それだけならまだしも、すでに血が流されてしまった」
ラガートは顔をしかめた。
――最悪の事態だ。
「……死人が出たのですか」
「放牧に出ていた男衆がひとり、幼い倅を庇って斬り殺された。倅はなんとか居留地まで逃げ延びたが、傷が深く、助かるかどうかわからん」
沈黙の内側で殺気がはちきれんばかりに膨れ上がる。獣脂の灯りに照らし出された男たちの目には、怒りと憎悪が黒々と光っていた。
きっと自分も同じ顔をしているのだろうと、ラガートはぎちりと拳を軋ませた。
「報復を」
重鎮のひとり、中年の男が低く呟いた。その隣で老境の男が頷く。
「さよう。受けた仇は、必ずや晴らさねばならぬ」
「血の恨みと嘆きは、血によってしか拭えぬ定め」
輪唱のごとく同意の声が上がる。その響きに怯えたように火明かりが揺らいだ。
「――族長」
クレイスが次代として当代を呼んだ。父は、ラガートと同じ漆黒の眸を細めた。
「『剣を抜け』」
戦の開始を意味する慣用句を、石より冷たい声が告げた。
「血には血を、痛みには痛みを、嘆きには嘆きを。強奪と報復をお許しになられた女神の教えに、我らは従うまで」
応、と男たちの声がこだまする。張り詰めていた空気が刹那に塗り替えられ、幾人かが立ち上がって足早に出て行った。残った男たちの、特に髪の短い者を中心に具体的な話し合いがはじまった。
ラガートもその輪に加わり、物々しい熱を帯びていくやりとりに耳を傾ける。昂る激情のままに、復讐の刃を研ぎ澄まして。
手荒く垂れ布を跳ね上げると、驚きに染まった菫色のまなざしが出迎えた。
茫然と瞬いているエルローサを目にし、ラガートは苦い唾を飲み下した。そのまま奥へ向かおうとすると、慌てた様子で袖を引かれる。
浮き上がった膝から縫いかけの衣や刺繍糸が落ちた。
「いったい、何があったんですか」
眉間を引き絞り、ラガートは振り向いた。エルローサの美貌はいつもより硬く、青ざめているように見えた。
「戦の支度をする」
「……え?」
「〈白蠍〉という部族が取り決めを破って領域を侵した上に、同胞を殺された。明晩、やつらの居留地に奇襲をかけることが決まった」
女の細い喉が鳴った。握られた袖に皺が寄る。
「あなたも、行くんですか」
「ああ」
答える声は、我ながら平坦だった。ラガートはエルローサの手をそっと包みこみ、袖から外した。
「心配しなくても、居留地の守りは万全だ。もしも不安なら、義母上か義姉上のところへ行くといい」
「……ラガート殿が残ってはくれないんですか」
思いがけない言葉だった。戸惑う夫に、エルローサは両手で縋りついた。
「残る方もいるというのなら、あなたがそのひとりになることはできないんですか? きっとお義母様たちだって――」
言い募りながら、エルローサの顔がくしゃりと歪む。彼女は唇を震わせ、ラガートの胸に額を押しつけた。
ごめんなさい、と彼女は呻いた。スカーフが乱れ、亜麻色の髪がこぼれ落ちる。
「あまりにも急すぎて、頭が追いつかないんです……あなたを困らせたいわけじゃないの。でも、妾……」
ラガートは息を吸いこみ、腕の中にエルローサを閉じこめた。やわらかな肢体の奥の、骨の固さを感じるほど、夢中で抱き締めた。
喘ぐような吐息が聞こえる。きつく瞑った瞼の裏に、熱情が火花になって閃いた。
「すまない。あなたの希望は叶えられない」
話し合いの末、少数の精鋭で〈白蠍〉の居留地を襲撃することになった。ラガートは父から直々にその一員に指名された。もちろん、彼に否と答える理由はなかった。
――なのに、今はこんなにも戦場へ赴くことが怖い。
死ぬのが怖いのではない。言葉よりも雄弁に自分を引き留めようとする腕が、この存在を置いていかなければならない事実が、途方もなくおそろしい。
(こんなにもいとおしい女を、どうして残していけるというんだ)
他のだれでもない、エルローサに惜しまれる命を手放せなくなってしまいそうで。握り続けてきた覚悟も決意も、彼女の体温に溶かされてしまいそうで。
ラガートという男の何もかも明け渡せたら、どんなに安らかで幸せだろうか。燻る熱情の火を振り払うように、ラガートは瞼を押し開いた。
「俺は戦士だ。部族の盾となり、ときには矛とならなくてはいけない。それが俺たちの務めであり、誉れだから」
抱擁をゆるめて夜露色の眸を覗きこむと、エルローサは睫毛を伏せた。
「――はい」
認める声は落ち着きを取り戻していた。だが、やわい眦は愁いにしっとりと濡れていた。
それだけでたまらなくなって、ラガートは武骨な指先を伸ばしていた。褐色の掌に女の顔がやすやすと包みこまれる。
「……帰ってくると、約束する」
ささやくと、エルローサはハッとラガートを見つめた。どんな表情を作ればいいのかわからず、彼は困って微笑んだ。
「形あるものでは証明できないが、こんなことを約束するのはあなたがはじめてだ。本当に、心からそう思う。帰ってくるよ――あなたのところに」
エルローサはきゅっと眉根を寄せ、「ばか」と呟いた。
「『必ず』が足りません」
「……すまない」
ラガートは苦笑し、引き寄せられるようにエルローサの額に口づけた。瞼から頬へ、拗ねた唇にたどり着く。
小鳥が羽を交わすように軽く触れると、エルローサが両腕を首に巻きつけた。
「妾たち、まだ新婚ですよね」
「ああ」
「子どもだってできていないし、それどころかあなたの衣だって途中なんです。ようやく、満足に刺繍が仕上がったところなんですよ」
「うん」
「……未亡人なんてご免です」
無事に帰ってこないと許しませんから。愛しいばかりの脅し文句に、ラガートはエルローサの腰を抱き寄せた。
「俺も、あなたを寡婦になんてするつもりはないさ 」
二度目の口づけは深かった。体重をかけると、エルローサは素直に床へ倒れこんだ。長く細い髪が広がり、金色に波打つ。
煙るようなまなざしで、エルローサが夫の頭布を外した。耳元を掠めて布地が落ちる。どちらもそれを拾うことはなく、こもる熱をほどいていく。
(帰りたいなんて、はじめて思うよ)
言い尽くせぬ想いの代わりに、ラガートは白い首筋へ唇の痕を甘く刻んだ。