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千一夜の薔薇  作者: 冬野 暉
第三夜 剣に祈りを
7/14

01

 平穏というものは長く続かない。

 先の小競り合いの相手である部族が取り決めたはずの協定を破り、〈青鷹〉の領域に侵入したという一報に居留地は騒然となった。

 ラガートが族長の天幕を尋ねると、父や兄をはじめ、部族の重鎮がほぼ顔を揃えていた。下座に就こうとしていた弟に、クレイスが無言で手招きをする。

「来たか、ラガート」

 父にまで声をかけられたら従うしかない。無遠慮な視線が数十の針のように突き刺さる。ラガートは唇を引き結び、次期族長の隣の席まで赴いた。

「〈白蠍しろさそり〉の一味が境界線を踏み越えたと」

 隣り合う〈白蠍〉の部族とは、長らく友誼ではなく刃を交わしてきた歴史がある。稀少な水源や緑地をめぐって諍いが絶えず、〈青鷹〉の戦士の宿敵は〈白蠍〉の戦士と言っても間違いではない。ラガートとて、初陣から先の小競り合いまで彼らと踊った戦場は数えきれない。

 北の沃地の職人が手がけた、蒼翼の鷹の図柄が染め抜かれたタペストリーを背に座った父は、厳しい表情で顎を撫でた。

「それだけならまだしも、すでに血が流されてしまった」

 ラガートは顔をしかめた。

 ――最悪の事態だ。

「……死人が出たのですか」

「放牧に出ていた男衆がひとり、幼い倅を庇って斬り殺された。倅はなんとか居留地まで逃げ延びたが、傷が深く、助かるかどうかわからん」

 沈黙の内側で殺気がはちきれんばかりに膨れ上がる。獣脂の灯りに照らし出された男たちの目には、怒りと憎悪が黒々と光っていた。

 きっと自分も同じ顔をしているのだろうと、ラガートはぎちりと拳を軋ませた。

「報復を」

 重鎮のひとり、中年の男が低く呟いた。その隣で老境の男が頷く。

「さよう。受けた仇は、必ずや晴らさねばならぬ」

「血の恨みと嘆きは、血によってしか拭えぬ定め」

 輪唱のごとく同意の声が上がる。その響きに怯えたように火明かりが揺らいだ。

「――族長」

 クレイスが次代として当代を呼んだ。父は、ラガートと同じ漆黒の眸を細めた。

「『剣を抜け』」

 戦の開始を意味する慣用句を、石より冷たい声が告げた。

「血には血を、痛みには痛みを、嘆きには嘆きを。強奪と報復をお許しになられた女神の教えに、我らは従うまで」

 応、と男たちの声がこだまする。張り詰めていた空気が刹那に塗り替えられ、幾人かが立ち上がって足早に出て行った。残った男たちの、特に髪の短い者を中心に具体的な話し合いがはじまった。

 ラガートもその輪に加わり、物々しい熱を帯びていくやりとりに耳を傾ける。昂る激情のままに、復讐の刃を研ぎ澄まして。




 手荒く垂れ布を跳ね上げると、驚きに染まった菫色のまなざしが出迎えた。

 茫然と瞬いているエルローサを目にし、ラガートは苦い唾を飲み下した。そのまま奥へ向かおうとすると、慌てた様子で袖を引かれる。

 浮き上がった膝から縫いかけの衣や刺繍糸が落ちた。

「いったい、何があったんですか」

 眉間を引き絞り、ラガートは振り向いた。エルローサの美貌はいつもより硬く、青ざめているように見えた。

「戦の支度をする」

「……え?」

「〈白蠍〉という部族が取り決めを破って領域を侵した上に、同胞を殺された。明晩、やつらの居留地に奇襲をかけることが決まった」

 女の細い喉が鳴った。握られた袖に皺が寄る。

「あなたも、行くんですか」

「ああ」

 答える声は、我ながら平坦だった。ラガートはエルローサの手をそっと包みこみ、袖から外した。

「心配しなくても、居留地ここの守りは万全だ。もしも不安なら、義母上か義姉上のところへ行くといい」

「……ラガート殿が残ってはくれないんですか」

 思いがけない言葉だった。戸惑う夫に、エルローサは両手で縋りついた。

「残る方もいるというのなら、あなたがそのひとりになることはできないんですか? きっとお義母様たちだって――」

 言い募りながら、エルローサの顔がくしゃりと歪む。彼女は唇を震わせ、ラガートの胸に額を押しつけた。

 ごめんなさい、と彼女は呻いた。スカーフが乱れ、亜麻色の髪がこぼれ落ちる。

「あまりにも急すぎて、頭が追いつかないんです……あなたを困らせたいわけじゃないの。でも、妾……」

 ラガートは息を吸いこみ、腕の中にエルローサを閉じこめた。やわらかな肢体の奥の、骨の固さを感じるほど、夢中で抱き締めた。

 喘ぐような吐息が聞こえる。きつく瞑った瞼の裏に、熱情が火花になって閃いた。

「すまない。あなたの希望は叶えられない」

 話し合いの末、少数の精鋭で〈白蠍〉の居留地を襲撃することになった。ラガートは父から直々にその一員に指名された。もちろん、彼に否と答える理由はなかった。

 ――なのに、今はこんなにも戦場へ赴くことが怖い。

 死ぬのが怖いのではない。言葉よりも雄弁に自分を引き留めようとする腕が、この存在を置いていかなければならない事実が、途方もなくおそろしい。

(こんなにもいとおしい女を、どうして残していけるというんだ)

 他のだれでもない、エルローサに惜しまれる命を手放せなくなってしまいそうで。握り続けてきた覚悟も決意も、彼女の体温に溶かされてしまいそうで。

 ラガートという男の何もかも明け渡せたら、どんなに安らかで幸せだろうか。燻る熱情の火を振り払うように、ラガートは瞼を押し開いた。

「俺は戦士だ。部族の盾となり、ときには矛とならなくてはいけない。それが俺たちの務めであり、誉れだから」

 抱擁をゆるめて夜露色の眸を覗きこむと、エルローサは睫毛を伏せた。

「――はい」

 認める声は落ち着きを取り戻していた。だが、やわい眦は愁いにしっとりと濡れていた。

 それだけでたまらなくなって、ラガートは武骨な指先を伸ばしていた。褐色の掌に女の顔がやすやすと包みこまれる。

「……帰ってくると、約束する」

 ささやくと、エルローサはハッとラガートを見つめた。どんな表情を作ればいいのかわからず、彼は困って微笑んだ。

「形あるものでは証明できないが、こんなことを約束するのはあなたがはじめてだ。本当に、心からそう思う。帰ってくるよ――あなたのところに」

 エルローサはきゅっと眉根を寄せ、「ばか」と呟いた。

「『必ず』が足りません」

「……すまない」

 ラガートは苦笑し、引き寄せられるようにエルローサの額に口づけた。瞼から頬へ、拗ねた唇にたどり着く。

 小鳥が羽を交わすように軽く触れると、エルローサが両腕を首に巻きつけた。

「妾たち、まだ新婚ですよね」

「ああ」

「子どもだってできていないし、それどころかあなたの衣だって途中なんです。ようやく、満足に刺繍が仕上がったところなんですよ」

「うん」

「……未亡人なんてご免です」

 無事に帰ってこないと許しませんから。愛しいばかりの脅し文句に、ラガートはエルローサの腰を抱き寄せた。

「俺も、あなたを寡婦になんてするつもりはないさ 」

 二度目の口づけは深かった。体重をかけると、エルローサは素直に床へ倒れこんだ。長く細い髪が広がり、金色に波打つ。

 煙るようなまなざしで、エルローサが夫の頭布を外した。耳元を掠めて布地が落ちる。どちらもそれを拾うことはなく、こもる熱をほどいていく。

(帰りたいなんて、はじめて思うよ)

 言い尽くせぬ想いの代わりに、ラガートは白い首筋へ唇の痕を甘く刻んだ。

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