03
ルーファとの一件から数日後、ラガートは妻ともども兄夫婦から晩餐の誘いを受けた。
考えるまでもなく、よくも悪くも弟想いのクレイスなりの心配りなのだろう。まさか否と言えるわけもなく、ラガートは憂鬱な気分を押し隠してエルローサとともに兄の家族が暮らす天幕を訪ねた。
「まあまあ、いらっしゃい!」
明るく出迎えてくれたのは、小柄でふくよかな兄嫁だった。とびっきりの美人ではないが、内側から陽が射すような笑顔と頬に浮かぶえくぼは人懐っこい愛嬌に溢れている。その腰回りには五歳の甥と三歳の姪がぴったりと張りついて、はじめて対面する異邦人の『叔母』を熱心に見つめていた。
礼を述べるラガートの声も自然と和らぐ。
「お招きいただきありがとうございます、義姉上」
「いいえ、こちらこそうちのひとが急にごめんなさいね。どうしてもラガート様と話したいことがあると言って聞かなくて……。でも、わたしもエルローサ様とぜひ仲良くなりたいと思っていたところなのよ。声をかけようにもお義母様が独り占めなさっていたから、ちょうどいい機会だったの」
義姉はころころと笑って答えた。会話の流れを察し、それまで慎ましく控えていたエルローサが唇に微笑と言葉を乗せた。
「改めてご挨拶を申し上げます。義姉君のお心遣い、ありがたく存じます」
「あらあら、そんなかしこまらないでちょうだい。わたしにとっては待ちに待った義妹だもの。ラガート様ったらいつになっても奥方をお迎えくださらなくって!」
「お義母様からも聞いております。『よく息子の求婚を受けてくれた』とお礼を言われてしまいました」
「まったくそのとおりよ! それにしても、まるで本当に恋物語のひと幕ようだったわねぇ。見ていて思わず胸がどきどきしてしまったわ」
女たちのやりとりに肩身の狭さを覚え出した頃、そっと袖を引っ張られた。視線を下に向けると、兄の長男であるサジェと目が合った。
「兄さま、父上がお呼びです」
今年で十歳になる少年は、年の近い叔父たちを『兄』と呼ぶ。幼いながらも聡明さを感じさせるまなざしは、いずれ〈青鷹〉の民を率いて立つ将来を充分に期待させてくれるものだった。
まだ頭布を被っていない頭を撫で、ラガートはつぶらな双眸を覗きこんだ。
「ありがとう、サジェ。お父上のところまで案内してくれるか?」
サジェはこくりと頷き、叔父の手を取った。義姉と話しこんでいるエルローサを振り返ると、心得ているとばかりに一瞥で応えられる。
(まったく、よくできた妻だ)
苦笑いをこぼし、ラガートは甥に導かれるまま天幕の奥に向かった。
次期族長の住居にふさわしく、兄の天幕はかなり広い。床には北部の沃地から運ばれてきた〈花織り〉の絨毯が敷き詰められ、ちりばめられた草花の紋様が華やかに目を楽しませてくれる。
クレイスはその上に転がしたクッションに凭れ、くつろいだ姿勢で待っていた。
「急に呼び出してすまなかったな」
息子と弟の姿を認めると上体を起こし、甘い目元を綻ばせた。両手を広げてサジェを抱き寄せ、ラガートに座るよう促す。
ラガートは腰を下ろすと、表情を引き締めた。
「何か、お話があると義姉上からお伺いしましたが――」
黒々とした睫毛がゆるりと瞬く。クレイスはほんの少し眉尻を下げ、サジェの背中を優しく叩いた。
「サジェ、すまないが母上の手伝いをしてきてくれないか」
「はい」
少年は素直に父親の腕の中から離れ、ぱたぱたと走っていった。ラガートは黙って甥を見送った。
「……すっかり大きくなりましたね」
「ああ。私が言うのもなんだが、とても利発に育ったよ。父上はすっかりあの子の頭のよさを気に入って、あれやこれやと書物を読ませたがって困ったものだ。私としては、おまえやルーファのように剣も覚えてもらいたいんだが……どうやら、欠点ばかり父親に似てしまったようだ」
クレイスは族長の跡目として申し分ない人物だが、武術の才に秀でているとは言いがたった。もともと争いごとを好まぬ、温厚なひとなのだ。
首を横に振り、ラガートは反論した。
「それでいいではありませんか。兄上はお優しく公平で、皆から慕われている。サジェの理知は、ゆくゆくは部族を平らかに治めるのに役立つでしょう。ルーファは――あいつはまだまだ子どもですが、まっすぐで家族のことを常に考えている。もう少し歳を重ねれば、兄上やサジェをよく助けてくれるはずです。……血腥い領分は、俺に任せてください」
すると、クレイスは柳眉をいっそう曇らせた。
「おまえは変わらないな、ラガート」
淋しさのこもった声に、ラガートは目を伏せた。
「ルーファと喧嘩をしたそうだな」
「……久しぶりに稽古をつけてくれと頼まれて、ついやりすぎて、泣かしてしまったんです」
「いつもルーファを慰めてやっていた、おまえが?」
クレイスの、末弟と同じ琥珀色の眸は、しかし遥かに思慮深くラガートの内心を見つめていた。困ったような笑みが口元に滲む。
「別に、ルーファを叱ったりしないさ。当のおまえが許しているのなら、私が口を挟む謂れはないだろう?」
ただ、と兄は続けた。
「エルローサ殿を迎えて、おまえのなかで何かが変わりはしないかと期待していたんだよ。母上と同じく……おまえがはじめてわがままらしいわがままを言ってくれて、私は嬉しかったんだ。どこか死に急いでいるようだったおまえが、ようやく心を預けられる場所を見つけられたのかと」
ラガートは膝の上で拳を握った。低く呟くように口を開く。
「彼女は、いつかここを去る旅人です。風のように過ぎ行く者だ。そんな相手に心のすべてを委ねては、俺の剣はとんだなまくらになってしまう」
「では、あの求婚の誓言は嘘だったというのか?」
思わず目を見開くと、クレイスは険しい顔つきをしていた。無言の詰問に、ぐっと頬が歪んだ。
「――いいえ」
引き絞られるように心臓が痛い。爪が食いこむほど両手を握り締めた。
魂の底からエルローサを欲し、捧げた言葉に偽りなどありはしない。降り積もる愛しさはどうしようもない狂おしさとなって、喉の奥まで満ち溢れている。叶わぬ夢想を描くほどに。
けれど、ラガートは己のあるべき在り方を骨の髄まで理解していた。それがどれほどかけがえのない、惜しいものか、いやというほど知っていた。
「妻にと願ったのは本当です。父上の落胆を買っても、俺はエルローサ殿を求めたかった。応えてくれたときの喜びは、きっと死ぬまで忘れられないでしょう。だからこそ、彼女が俺の妻でいてくれる限り――ともに過ごす日々が続く限り、俺は真心をこめて彼女に尽くすつもりです。よき夫として、決して後悔が残らぬように」
手放すことを、あきらめることを、最初から覚悟している恋だった。思い出すら痛みになったとしても、きっと自分は耐えられる。なぜなら、ラガートの胸には抜けない棘がとっくに刺さっているからだ。
そしてその棘こそ、ラガートをラガートたらしめる楔だった。
「……ルーファに約束しました。エルローサ殿のよき夫となると同時に、あいつのよき兄であると。いつか彼女がいなくなっても、俺が戦士であることに変わりはありません。俺の命は、あいつや、兄上や、サジェたちのためのものだ」
「ラガート――」
言葉を失うクレイスに、ラガートは淡く微笑んだ。強張った拳をぎこちなくゆるめる。
遠い記憶の底で母の体温に触れたやわい掌が、真っ赤に染まるまで剣を握り続けた。潰れた肉刺の数だけ、ひとりで流した涙の数だけ、ラガートの守りたい確かさがある。乗り越えた傷を惜しんでくれるぬくもりが、ここにはあった。
「俺の望みは、もう充分すぎるほど叶っています」
「そんなわけ……ッ」
珍しく声を荒げかけ、クレイスは片手で顔を覆った。
「……本当に、私は不甲斐ない兄だ」
「兄上?」
訝しむ弟に返されたのは、苦悩の淵から決意が生まれようとしているまなざしだった。
「ラガート、私はおまえに幸せになってもらいたい。たとえおまえがどんなことを望んだとしても、私は兄として力を尽くそう。それだけは忘れないでくれ」
中途半端にほどけた拳にクレイスの掌が重ねられる。包みこむ手は自分のものより華奢で、しかし大きかった。
ラガートが言葉を継ぐよりも早く、義姉の声が夫を呼んだ。どうやら晩餐の支度が調ったらしい。
「ああ、わかった」
それに応えながら、クレイスの手が離れる。彼は場の空気を塗り替えるように笑った。
「父上からいい酒をいただいたんだ。ルーファだけでなく、私の相手もしてくれるだろう?」
ラガートは一度口をつぐみ、それからふっと苦笑した。今はただ、素直に兄の思いやりに甘えよう。
「……喜んで」
優しいばかりの時間は、ひどく切なかった。