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千一夜の薔薇  作者: 冬野 暉
第二夜 命の在り処
5/14

02

「小兄上、稽古の相手をしてくれませんか」

 久しぶりに顔を合わせた弟のルーファは、どこか強張った表情で言った。

 エルローサは義母に呼ばれて留守にしており、天幕にはラガートだけが残っていた。敢えて妻の不在を狙って訪ねてきたのだろうと、ラガートは勘づいていた。

(あの宴から明らかに避けられていたからな……)

 三歳下の弟は、ラガートよりもよほど幼い面差しをしている。長兄と同じく義母の美貌を色濃く受け継ぎ、まるで少女のように愛らしい。本人はひどくそのことを気にしており、精悍な父親に似た次兄を羨んでいた。

 容姿だけでなく、ルーファは昔から何かとラガートの真似をしたがった。剣を習い出したのも、ラガートと同じ戦士になりたいと志願したからだった。

 しかし族長の嫡子であり、ゆくゆくは父の跡目を継ぐ兄の補佐を担うべき彼が前線で戦うことを許されるはずもない。だから癖の強い黒髪は、少年の首筋を覆うように肩まで流れている。

 溌剌と輝くはずの琥珀色の眸は、暗く翳っていた。ラガートは長剣を手に取って立ち上がった。

「……いいぞ」

 天幕をあとにし、ふたりは居留地の外れに向かった。まばらに草が生えた砂地には夕暮れの気配が漂いはじめていた。

 遥かな砂丘の連なりを背に、ラガートは弟と向き合った。ルーファはラガートのものより軽い長剣を鞘から抜くと、かつて兄が教えたとおりのかまえを取った。

 成人の祝いに父から剣を贈られてから、ルーファは稽古用の木剣を手にしなくなった。子どもじみた片意地だとしても、ラガートはできる限り弟の思いを尊重してやりたかった。

 すらりと現れた白刃が金色の斜光を弾いた。ラガートがかまえると同時にルーファが砂を蹴った。

 金属が噛み合う音が甲高く響く。

 一撃、二撃と、ルーファは常よりも荒々しく踏みこんできた。冷静に弟の剣をいなしながら、ラガートは目を細めた。

「頭に血が上りすぎた」

 ぼそりと呟くと、少年の眦がカッと紅潮した。力任せに剣を振るいながら怒鳴りつける。

「小兄上は、なんにもわかっちゃいないっ」

「何を」

「なんで――なんでヨルンなんか選んだんだ!」

 交差した刃越しに、ルーファは烈しく睨んできた。ラガートは眉をひそめた。

「おまえこそ何が不満なんだ、ルーファ」

 最初はエルローサに対して好意的ではなかった父も、義母の取り成しもあって渋々ながらも次男の嫁として彼女を認めてくれている。クレイスは優しい苦笑とともに、「おまえが心から望んだのなら祝福するよ」と言ってくれた。

 弟のルーファだけが、頑なにエルローサの存在を拒み続けている。

「ヨルンとの契りは、吉祥と繁栄をもたらす聖婚だ。部族にとって悪いことではないだろう」

「そういうことを言ってるんじゃない!」

 がむしゃらな猛攻に、ルーファの呼吸が乱れはじめていた。それでも勢いは止まらず、なりふりかまわず突っこんでくる。

「小兄上はいつもそうだ。自分を軽んじてばかりいる! 俺がどんなに追いかけたって、少しも振り返ってはくれないんだッ」

「ルーファ、だからなんの話だ」

「父上から『褒賞』のことを聞いて、ようやく小兄上をつなぎ止められると思ったのに。小兄上の心は、どうして俺たちを見てくれないんだ!」

 ガキンッと刃が鳴った。肩で息をしながら、ルーファは声を震わせた。

「俺は昔から怖かった。小兄上がいつか砂丘の向こうに消えてしまうような気がして。戦があるたびに、そのまま帰ってこないような気がして――どんなに手を伸ばしても、小兄上の心には届かない」

 ラガートは唾と一緒に言葉を飲み下した。ルーファは顔を歪め、子どもの頃のように瞳を潤ませていた。

「小兄上にとって、俺は何?」

「…………おまえは、俺のたったひとりの弟だろう」

「なら、どうして俺にとっても小兄上はそうなんだって信じてくれないんだよ!? 俺だけじゃない。父上や母上、兄上も同じだって……俺たちの失えない家族なんだって、わかってくれないんだ!」

 ルーファがよろめきながら両腕を振り上げる。ラガートは瞬時に間合いを詰め、少年の手から剣を弾き飛ばした。

 息を呑んだ少年の隙を逃さず、ラガートはルーファの腹に蹴りを叩きこんだ。砂地に転がったルーファは、体を丸めて咳きこんでいる。

「ルーファ」

 立ち尽くしたまま名前を呼ぶと、ルーファは仰向けになって手足を投げ出した。涙を溜めた双眸は決してラガートを見ようとしない。

 吐息を洩らし、ラガートは剣を納めると弟に歩み寄った。目を合わせないまま傍らに腰を下ろす。

 いよいよ燃え落ちようとする太陽が天と地を深紅に染め上げていた。昼と夜の狭間を照らす鮮烈な赤は、命の残り火のように熱く、孤独のように静謐だ。

(砂漠の夕焼けがいっとう美しいと、あのひとは言っていたな)

 かつて砂漠から北の大沃地まで平らげた古の覇王は、この地をリティア=リゼーレ――『夕映えの国』と呼んだ。王国が亡んだのちも、その美称はリュトリザと響きを変えて今に伝わっている。

 輝く黄昏の大地、太陽が眠る場所。ラガートが生まれ、育ち、そしていつか砂に還る故郷。

 だが、エルローサにとってはそうではない。彼女が望む語り部の子を生せば、いずれは去りゆく土地にしか過ぎない。ここで見て、知ったことは、いつか遠い異国で物語る歌に変わってしまう。

(そうか)

 ラガートは理解した。弟がおそれているものを。妻にと乞うた女が厭われる理由を。

「……ルーファ」

 もう一度呼べば、ルーファはきつく唇を引き結んだ。ラガートは乱れた頭布を軽く叩き、そのままくしゃりと黒髪を撫で混ぜる。

「すまなかったな、不安にさせて。だが、おまえが考えていることは杞憂だ」

 琥珀色の眸が縋るようにラガートを見た。弟のまなざしに微笑んで、ラガートは続けた。

「俺とエルローサ殿の婚姻は、しきたりどおりいっときのものだ。子が生まれて長じれば、彼女はヨルンの旅路に戻る。……俺は〈青鷹〉の戦士だ。俺の剣は、兄上の子どもたちや――いつか生まれてくるおまえの子を守るために振るわれるだろう」

 ルーファは、いつかラガートがエルローサとともに部族を去ってしまうと思ったのだ。どうしても埋められずにいた隔たりがあったからこそ、たやすく少年の心は追い詰められてしまった。

 ――すべてを委ねることは難しくても、ラガートの命の在り処は、ずっと昔から決まっている。

「俺はどこにも行かないよ、ルーファ」

 ルーファの喉がひくりと震えた。ラガートのものより頼りない両手が伸びて、膝に顔を埋めるように抱きついてきた。

 食い縛った歯の奥から洩れる嗚咽に気づかないふりをして、ラガートは空を仰いだ。

 落日の火は西の地平へこぼれ、夜の女王が藍晶石色の裳裾を広げて天の階をゆっくりと下っている。凍て星が白く光る前に、弟を連れて帰らなければ。

(あと、もう少しだけ)

 涙が頬を伝わぬように、ルーファが泣きやむまでに自分勝手な感傷を忘れられるように、ラガートはじっと空を見つめ続けた。

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