01
白い肌の吟遊詩人が〈青鷹〉の部族の一員となって、ひと月が経とうとしていた。
族長の息子が部族の女ではなく、ましてや砂漠の民でもない花嫁を娶るという異例の出来事を、部族の人々は大きな困惑の最中で受け容れた。ヨルンの民との婚姻は豊饒と繁栄を約束する聖婚であり、砂漠の地にもいくつかの伝承が存在するが、寝物語に聞くのと実際に目の当たりにするのとでは重みが違う。表立ってとやかく言う者はいないが、単純に喜ばしいとは思えぬ者も少なからずいるはずだった。
エルローサは旅装束を脱ぎ、部族の女たちと同じようにゆるやかな貫頭衣とズボンを纏い、色鮮やかなスカーフで亜麻色の髪を覆い隠すようになった。砂漠の民の衣装に身を包んだ彼女を見るたび、名実ともに自分の妻になったのだという歓喜がラガートの胸を焼いた。
まず彼女が取り組んだのは、女たちの仕事を覚えることだった。
砂漠で暮らす遊牧民は、駱駝や山羊などの牧畜を生業としている。家畜は彼らの財産であり生活の糧だ。駱駝は移動の手段であり、山羊や羊の肉や乳は貴重な栄養源であり、その皮を加工して天幕や敷布などを作る。ときには何日にも渡って居留地を離れることもある放牧は主に男たちの仕事で、残された女たちは家畜の乳を搾って乾酪を作ったり、皮をなめしてさまざまな手工に勤しんだりする。個々の生産は家族単位で完結せず、部族全体の営みを支える基盤の重要な部品だ。〈青鷹〉の民に加わったからには、エルローサもまた部族の暮らしの担い手でなければならない。
エルローサに砂漠の女としての手ほどきを教えることになったのは、姑である義母だった。当然といえば当然だが、どうやら義母の並々ならぬ熱意に父が敗北した結果らしい。
義母は血のつながらぬ次男が一世一代の『わがまま』で迎えた妻をひどく気にかけ、できる限りの世話を焼いてやりたいと考えているようだった。
(義母上には一生頭が上がらないな)
戦士であるラガートも、平時には放牧に従事している。結婚の祝いにと父や兄から今までの倍もの家畜を贈られたので、最低でも三日から五日は家を空けなければならなくなった。居留地にエルローサをひとり残していくたび、不安や寂寥で胸が押し潰されそうだった。
だが、優しい義母が彼女のそばにいてくれると思うと、胸につかえる重みもわずかに和らいだ。義母の人柄にエルローサも少しずつ打ち解けているようで、最近では部族に伝わる刺繍を習いはじめたのだと、あの仔犬のような笑顔で教えてくれた。
――ああ、これが望まれていた幸福なのかと、ラガートは甘露のような感情を噛み締めた。
エルローサが笑うと、胸の内に花が咲きこぼれる。ふたりで囲む炉端のぬくもりは体の奥底まで染みこみ、不意に泣きたくなるような情動になって青年の心を揺さぶった。言葉を詰まらせて黙りこむ夫を怪訝に見たりせず、妻はそっと菫色の瞳を伏せ、顔も朧げな実母が歌ってくれた砂漠の民の子守唄を口ずさんだりした。
放牧に出ている間、想うのはエルローサのことばかりだった。朱い砂の広野を渡る風に、静かに燃える紫紅の暁に、凍てつく夜空に散った銀の星屑に、彼女の横顔を、白い膚の艶めきを、オアシスに湧く泉のような甘い呼び声を、思い出さずにはいられなかった。
寂寞とした大地にひとり佇めば、魂の深みから恋しい歌声が聞こえてくる。いつの間にかラガートは、エルローサが謡う世界にいるのだった。
居留地に夕闇が訪れるよりも少し早く、ラガートは此度の放牧を無事に終えた。たらふく草を食ませた家畜をすべて柵の中に戻し、忙しなく我が家に向かう。幾人かに声をかけられたが、気もそぞろな返事を投げて先を急いだ。
見慣れた天幕が近づくと、いよいよラガートの呼吸は速まった。ほとんど飛びこむように戸口の垂れ布を跳ね上げる。
唐突に現れた夫に、天幕の奥に座った妻はきょとんと目を丸くしていた。膝の上に大判の布を広げ、手元には糸を通した刺繍針。どうやら義母からの課題に取り組んでいる最中らしい。
「まあ、おかえりなさいませ」
「……ああ」
ラガートは脱力しながら頷いた。砂を落としてもいないままだと気づき、ため息をついて外に出る。
汚れた外套と頭布を外し、軽くはたいてから天幕に戻ると、エルローサが盥に水を張っているところだった。
「思っていたよりも早いお帰りで、びっくりしました」
あまりにも素っ気ない言葉にむっとしながら、ラガートは彼女の前に腰を下ろして衣を脱いだ。
「帰って来なかったほうがよかったか」
思わずぼやくと、小さく笑う気配がした。
「そんなことはありませんよ。無事に帰ってきてくださって、嬉しいですわ」
ひたりと、濡らした手拭いを背中に押しつけられた。首筋から肩甲骨の隆起をなぞり、ゆっくりと撫で下ろされる。その冷たさに、青年は睫毛の先を震わせて目を瞑った。
「あなたはいつも息を切らして、まっすぐ駆けてきますね」
若者らしい張りといくつかの傷痕がある背中を拭きながら、エルローサは穏やかに言った。燃え上がるばかりの熱情を見透かされたようで、ラガートの頬に朱が差す。
「……いけないか」
「いいえ、ちっとも」
くすりと笑い、エルローサは夫の肩を叩いた。向き直るように促され、ラガートはおそるおそる瞼を開いて振り返った。
視線を絡ませ、彼女はゆったりと唇を綻ばせた。
「いけないはずがありません」
日に焼けたせいで鼻の先が薄赤く染まっている。だからだろうか、出会った夜よりもあどけなく、まるで少女のように映って、ラガートは黒い眸を見開いた。
エルローサは身を乗り出し、片手をラガートの腿に置いた。ほどけたスカーフから亜麻色の髪がこぼれ、砂と汗の匂いが胸を騒がせる。
「女としての冥利に尽きますわ」
かわいげのない睦言に、しかしラガートは目元まで紅潮させて顔をしかめた。
「……からかわないでくれ」
「そんなつもりはないのに」
口とは裏腹に、エルローサの笑みはますます意地悪いものになっていく。早鐘を打つ胸に手拭いを寄せられ、ラガートは喉を鳴らした。
「俺は、ただ、あなたが心配なだけだ」
「え?」
「慣れない土地に、何日もひとりにしてしまって……心細くはないだろうかと。義母上が気にかけてくださっているが、それでも……早く帰らなければと、そう考えずにはいられないんだ」
まるで初心な少年に戻ってしまったように舌が回らない。エルローサを前にするといつもこうだ。自分は、こんなにも不器用な子どもだっただろうか。
不意に寄りかかってきた重みに、ラガートは息を呑んだ。亜麻色の頭が肩口に置かれ、冷えた指先が胸元に触れた。
「わたしのかわいいひと」
はじめて聞く言葉に瞬くと、エルローサは猫のごとく眸を細めた。
「砂漠では、情を交わす相手をどんな風に呼ぶのですか?」
「……は」
「あなたの声で呼ばれてみたいと思ったんです」
カッと腹の底が熱くなった。意味はわからなくとも、先ほどの呼びかけがつまりはそうなのだと理解できた。
(なんて女だ)
片手で顔を覆うと、エルローサは笑い声を転がした。首筋に頬擦りされ、とうとうラガートは考えることを放棄した。
ぐっと女の腰を抱き寄せ、細い髪に指を絡めながら低音を落とす。
「わたしの(クト)、うつくしいひと(アルデ=ワナ)」
武骨なラガートに気の利いた美辞など思い浮かばない。あらゆる言語に通ずるヨルンならば、いかに味気ない口説き文句か手に取るようにわかってしまうだろう。
だがエルローサは満足そうに微笑むと、腕の中で伸び上がった。
覚えのあるやわらかさが唇に触れる。短い音を立て、エルローサは顔を離した。
「よくできました」
唖然とするラガートにかまわず、彼女は上機嫌で汚れた手拭いを濯いでいる。完全にたなごころで遊ばれている身であることを痛感し、ラガートはがっくりと項垂れた。
(ヨルンの女は、陸に上がった人魚だと聞いたことがあるが……)
母なるレーテスから漕ぎ出た外洋には、美しい歌声で船乗りを惑わす妖女が棲むという。人魚の歌は嵐を呼び、幻惑に魅せられた船乗りたちを船ごと海に沈めてしまう。暗い水の淵に引きずりこまれた魂は、魔性の虜になったことに気づかぬまま、塵も残さず人魚に貪り尽くされるのだ。
ヨルンの歌姫は、昔から陸の人魚にたとえられてきた。福音を運ぶ青い鳥を不吉な妖魔になぞらえるなど無粋だと思っていたが――確かに、ラガートはおそろしい魔女を娶ったのかもしれない。
「ラガート殿」
呼ばれたラガートは顔を上げた。絞った手拭いを頬に当て、エルローサがはにかんだ。
「お義母様から新しい刺繍を教えていただいたんです。きれいに仕上がったら、あなたの衣に使いなさいと言われて」
「…………そうか」
やっと呟き、ラガートは手拭いを持つ女の手に触れた。ひんやりとした温みに目を閉じると、涙が滲んだ。
こんなにも尊い時間が魔女の歌う夢ならば、どうか覚めないでくれと願った。
「それは、楽しみだ」