03
よくも悪くも熱気が冷めやらぬうちに宴は終わり、ラガートは『妻』を連れて早々に自分の天幕に引き上げた。
若者が固く唇を引き結んで差しのべた手にエルローサはひとつ瞬き、すべてを心得たように微笑んで掌を重ねた。触れる指先の自分よりもやわらかな膚に、ラガートの心臓は激しく震えた。
まるで初陣に臨んだときのようだ。あるいは、これから待ち受けるものは彼が知るどんな戦いよりも手強いのかもしれない。
渋面のままの族長と対照的な笑みを浮かべたその正妻に一礼し、部族中の視線に見送られて花婿と花嫁はその場をあとにした。内心、ラガートは今にもエルローサを抱き上げて天幕に駆けこみたい思いでいっぱいだった。しかし、年下の『夫』に導かれるまましずしずとついてくる彼女のいじらしい姿に、万里のようなわずかな道のりをぐっと堪えることができた。
独り身だったラガートの天幕は、族長の次男坊で若い戦士の筆頭格とはいえど、平均的な大きさのものよりもずいぶんこぢんまりしていた。戸口にかけられた垂れ布をまくり上げてやると、エルローサはじっとラガートの目を見つめた。
「……狭苦しい我が家で申し訳ない」
羞恥に顔を逸らしながら、なんとかそれだけ口にする。エルローサは優しく笑みを深め、「ありがとうございます」と目礼してから垂れ布の下をくぐった。
彼女に続いたラガートは、未だ突き刺さる無数の視線を断ち切るように勢いよく垂れ布を下した。
砂漠で暮らす遊牧民の多くは、黒山羊の毛皮を張った天幕を住まいとしている。吹き荒れる砂嵐に耐えられるよう、造りは平べったく横に長い。家族が多かったり地位が高かったりする者ほど長く大きな天幕をかまえる。〈青鷹〉の部族で最も大きく立派な天幕を持っているのは、もちろん族長であるラガートの父だ。
獣脂を固めた蝋燭に火を点けると、蜜色の灯りががらんとした室内を照らし出した。毛皮と布を敷き詰めた床が広がり、最低限の身の回りの品が隅のほうにまとめて置いてある。数本の柱と丈夫な縄を巧みに組み合わせて築いた天幕は、なんとかふた間に仕切ることが可能だ。
むっとこもった獣臭さに顔をしかめることもなく、エルローサは興味深げに天幕の中を見回していた。その様子に安堵しながらラガートは口を開いた。
「あなたのために、もう少し天幕を広げよう。それまでは、どうか辛抱してほしい」
「……今のままでも充分なのでは?」
小首を傾げたエルローサに、ラガートは思わず眉根を寄せた。
「これは独り住まいの男のための大きさだ。妻を迎えたら、相応の天幕に広げることが必要なんだ」
天幕の大きさは、すなわちその家の主たる男の度量を表している。妻を娶り、子をもうけ、より多くの家族を養うことができる者ほど、部族からの信頼と尊敬も篤い。ラガートが周囲からさんざん結婚をせっつかれていたのも、男は所帯を持ってこそ一人前という認識が背景にあったからだ。
これまでだれに何を言われてもピンと来なかったというのに、ラガートは急にそれを実感し、強烈に意識せざるを得なかった。明日にでもすぐに父に頼んでみようと考えている『夫』の思いなどいざ知らず、『妻』は研究熱心な学者のように深く頷いた。
「それが新婚の慣習なのですね。黒い天幕というものも話には聞いたことがありましたが、本当に目にしたときは驚きました」
「……真昼の砂漠は陽射しばかり強くて日陰が少ないだろう。遊牧を生業とする部族なら、山羊の毛皮はいくらでも手に入る」
いきいきと目を輝かせているエルローサに答えてやりながら、ヨルンの民とはこういうものなのだろうかとラガートは思った。十までは行かなくともそれなりに自分より年を重ねているだろう妙齢の女性が、今はまるで好奇心旺盛な仔犬のようだ。無邪気に振り回される亜麻色のしっぽまで想像し、ラガートは慌てて咳払いをした。
「とりあえず、座ってくれ。このままでは話をすることもままならない」
「ああ、そうですね。これは失礼しました」
エルローサは外套を脱ぐと、促されるまま天幕の奥に腰を落ち着けた。ラガートも帯に差していた長剣を外し、彼女の向かい合う形で胡坐をかいた。
ジジ……と蝋燭の火が頼りなく揺れる。
改めて目の前にした自分の『妻』は、やはり美しかった。彼女に劣らぬ器量よしの娘をラガートはいくらでも知っているが、ため息をつきたくなるほど美しいと思ったのはひとりだけだ。誘われるように手を伸ばし、流れ落ちる長い髪をひと房掬い取る。絹糸のようにやわらかい。
エルローサは拒むそぶりなど見せず、静かに『夫』の手元を見つめている。梳くように感触を楽しんだあと、ラガートは癖のある毛先にそっと口づけた。
女と男のまなざしが交差した。
「……今更だが、後悔はしていないか」
開いた指の間からするりと亜麻色の髪が逃げていく。エルローサの睫毛が上下し、火明かりに光った。
「はじめて会うたばかりの年下の男に、物のように求められて。しかもその男は剣でしか身を立てられず、戦が起きれば明日死ぬかもわからない。あなたが捧げられた剣を受け取ったのは、そういう男だ」
「それはお互い様でしょう?」
さもおかしげにエルローサはくすりと笑った。
「どこの生まれとも知れない年上の女を武勲の証に望まれるなんて。〈青鷹〉のラガートといえば近隣の部族にも広く知れ渡った名高い戦士。彼こそまさに勇猛なる砂漠のもののふだと、だれもが口を揃えて褒め称えていらっしゃいましたよ。宴の席でもあちこちから悩ましげな乙女の吐息が聞こえていましたが、なぜ彼女たちのなかからお相手を選ばれなかったのですか?」
からかうような問いかけに、ラガートはぐっと押し黙った。エルローサは唇の端を吊り上げると、「ラガート殿はおいくつですか?」と更に尋ねてきた。
「……今年で十九になる」
「では妾の七つ下ですね。二十六にもなればどこの国でも嫁かず後家などと呼ばれても仕方がありません。妾たちヨルンの民の婚姻は生涯ただ一度きり、これまで我が身と血を託すにふさわしい殿方になかなかめぐり会えず……このままでは歌と使命を継ぐ子を残せぬまま朽ち果ててしまうと思うようになりまして」
ラガートはすうっと胸の内が冷えていくのを感じた。苦く、絶望にも似た黒い波が押し寄せてくる。それは幼い頃、幾度となく彼が味わい、やわらかな少年の心を硬く硬く縮こませたものだった。
濃紫の瞳がわずかに顔を歪めた若者を映す。可憐な仔犬などではない、だれにも捕まえられない気位の高い雌猫の目だった。
「あなたが多くの方から想いを寄せられながら、そのなかのだれひとりの手も取らず、あまつさえ妻は持たないつもりなのだと親切な方々が教えてくださいました。しかし、先の武功の褒賞として花嫁を選ばなければならないとも。そこに現れたヨルンの女は、さぞ都合のいい相手だったのではありませんか?」
「俺は……ッ、……」
とっさに声を荒げかけたラガートに、エルローサはふと笑みの種類を変えた。眉尻を下げるように目を細め、はじめて彼女から手を伸ばした。
白く、音楽を奏でるための指が、浅黒く、剣を握るための指に絡まり、つながった。
「少し意地悪な言い方をしてしまいましたね。けれど、妾は別にかまわないのです。あなたには周囲を納得させる『妻』が必要で、妾には子を授かるための『夫』が必要。お互いの利益がこの上なく一致した、すばらしい取り合わせだと思いませんか?」
ラガートはきつくエルローサを睨み、顔を背けた。
「……あなたは、子種さえ貰えればだれでもよかったのか」
すると、エルローサはむっとした様子で眉間に皺を寄せた。
「妾にだって好みというものがあります。自慢ではありませんが、妻にと乞われたことも一度だけではありません。ですが、それにお応えしたのはあなたがはじめてです。この先も、二度とないでしょう」
きっぱりとした口調にラガートは目を丸くした。エルローサは身を乗り出して『夫』の顔を覗きこんだ。
「ヨルンとの婚姻は生涯続くものではありません。子が生まれてある程度まで育ったら、妾はその子を連れてこの地を去ります。……もしも部族のなかに想う方ができたら、そのあとに本当の奥方として迎えてさしあげてください」
最初から、ふたりの終わりは決まっていた。
流浪の民であるヨルンと土着の民が添い遂げることは叶わない。ごく稀に、伴侶を伴って旅立つことを許される幸運なヨルンもいるが、部族の護り手であるラガートが故郷を離れられるはずもない。
たとえ我が子に恵まれても、その子は〈青鷹〉の民ではなく、いつか旅の空に巣立つヨルンの雛でしかありえないのだ。焦がれた『妻』も血を分けた子も、何ひとつ彼の許には残らない。
(……それでも)
それでも、エルローサが欲しかった。
同じ想いが返ってこなくても、本当の意味で彼女を得られなくても、いつかこのぬくもりを手放さなくてはならないと知っていても。もう引き返せないほどに、ラガートの心は決まっていた。
細い指に自らの指をいっそう絡め、手を握る。そのまま引き寄せ、小さく声を上げた彼女を抱き締めた。
「あなたの望みに応えよう、ヨルンのエルローサ。あなたがもたらす吉祥の代わりに、俺はこの身に流れる血の一滴をあなたに捧げよう」
押し殺した声でささやくと、ためらいがちに背に両手が回された。ゆるゆるとエルローサの体から力が抜け、腕の中にすっぽりと収まった。
肩口に頬を寄せたエルローサがそっと視線を持ち上げる。砂漠には咲かない花の色の瞳が微かに潤んでいた。夜露に濡れた菫の芳しさとはこんな風情なのだろうかと、ラガートは思った。
もはや交わす言葉はいらず、男と女はどちらからともなく距離を埋めた。天幕の壁に浮かぶ影が深く重なり合い、ゆっくりと床に倒れこんだ。
幼い恋心を置き去りにして、熱く凍みるような砂漠の夜は流れていった。