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千一夜の薔薇  作者: 冬野 暉
第四夜 かげろう蜜月
13/14

03

「は?」

 ラガートの口からこぼれたのは、なんとも間抜けな声だった。

 彼の前には、渋い顔をした父と、苦い笑みを浮かべた兄がいた。

 兄の傍らには、この一年でずいぶん大人びた弟がむっつりと唇を引き結んでいる。その表情は、父親そっくりだった。

 弟の向かい側には、部族の幹部のなかでも抜きん出て重きを置かれる立場の男たちが並んでいた。だれも彼も一様に父や兄弟と似たり寄ったりの顔をして、事態の成り行きを見守っている。

「兄上、今、なんと……」

「〈白蠍〉の総領娘であるリューダ姫を妻に迎えよと、言ったんだ」

 ジジ、と火明かりが不安げに揺らめいた。あかがね色を帯びた蒼翼の鷹を背に、クレイスは淡々と続ける。

「〈白蠍〉の残党は、彼女を旗印に部族を再興しようと画策している。彼らの士気を潰すには、目に見える形で示す必要がある」

「……エリグを討った俺がリューダ姫を娶ることで、〈白蠍〉の者たちを屈服させられると?」

「生き残りの大半は女子ども、年老いた者や傷病者、あるいは未熟な少年兵ばかりだ。血気盛んな一部の若人が姫を担ぎ上げようとしているけれど、他の民には迷いがある。これ以上抵抗すれば、更なる血が流れるかもしれないというおそれだ」

 クレイスはいったん言葉を切り、悩ましげな吐息を洩らした。

「ラガート、おまえの気持ちはよくわかる。聖婚を結んだおまえに求めるのは、あまりに不相応な役目だ。だが――蠍殺しの英雄であるおまえにしか、果たせない役目なんだ」

「……何も、まことの妻にせよというわけではない」

 重々しく言葉を継いだのは、父のファルナードだった。

「仮初めの、側妾としてでかまわん。とにかく必要なのは、あの娘をけして同族と縁づかせず、我々の監視下に置き続けることだ。少なくとも〈白蠍〉の民を完全に取りこむまでの間、いっときたりとも目を離すことはできん」

 おまえとてよくわかっているだろう、と言われたラガートは、盛大に顔をしかめるしかなかった。宴の余韻に浸る部族の隙を衝いてリューダが逃亡を図ろうとした騒動は、つい二日前の出来事である。

 ラガートは、胡座を組んだ膝の上で固く拳を握った。

「仮初めの側妾とは、つまり、夫婦の契りを交わす必要はないと?」

「ああ。おまえは〈旅する語り部〉の伴侶となったきよい身だ。リューダ姫はあくまで形式上の、最も位の低い側妾とする。おまえの妻は、これまでどおりエルローサ殿おひとりだ」

「……しかし、形だけとはいえ側妾として迎えるからには、同じ天幕で暮らさねばならないでしょう」

 そうしなければ、〈白蠍〉の民を納得させることは無理だろう。たとえ肌を重ねることはなかろうと、幾夜かは同衾しなければなるまい。

 鉛のような感情が喉を詰まらせ、ラガートは表情を歪めた。思わず片手で顔を覆いかけたとき、ルーファが鋭く声を発した。

「俺がリューダ姫と結婚します」

「ルーファ!?」

 クレイスがぎょっと瞠目する。

 厳しく眉をひそめるファルナードの前に膝を進ませ、ルーファは訴えた。

「族長の嫡子で、次の族長補佐である俺でも夫役には充分でしょう? なんなら、リューダ姫が『正妻』でもかまいません」

「……シャーリアはどうするつもりだ」

 婚礼の日を指折り数えて待っている最愛の許嫁の名を出され、ルーファはぐっと押し黙った。

 義理の妹になる少女は今年ようやく成人を迎えたばかりの、控えめで愛らしい娘だ。幼いなりに族長の家系に嫁ぐ心構えをよく学んでおり、義母や義姉、何よりエルローサを「ちい姉さま」と慕ってくれている。エルローサもすっかりシャーリアをかわいがっており、花嫁の介添えを任されてからというもの張り切りどおしだ。

「……シャーリアは、俺の妻になる娘として育ちました。よくよく言って聞かせれば、納得してくれるはずです」

「馬鹿者めが」

 ファルナードが短く吐き捨てると、ルーファの肩が跳ねた。

 ラガートと同じ、しかしもっと峻烈で深みを湛えた黒い瞳が末息子を睨み据えた。

「おまえのような未熟者に、部族いちの戦士の代役が務まるものか」

「父上、俺は――」

「ルーファ、控えろ」

 ラガートの一喝に、今度こそルーファは声を失った。

「父上の仰るとおりだ。これは、おまえが口を挟んで許される領分ではない。立場をわきまえろ」

「……、……」

 ちいあにうえ、とルーファのくちびるが弱々しく動く。ラガートはまなざしだけで弟に微笑み、ファルナードに向き直った。

「――このことは、我が妻には?」

 以前よりも老いが色濃く浮き出た目元がぴくりと震える。灰色に褪せた口髭を歪め、ファルナードは首を横に振った。

「まだ話しておらぬ。……酷かもしれぬが、おまえの口から伝えてはくれぬか」

 ラガートは、このひとはこんなにも打ちひしがれた目をしていただろうかと思った。

 幼い頃から接してきた父は、威厳に満ち、おおらかで、ときに苛烈な気性を振るうひとだった。少なくとも、族長としてあらねばならぬ場で息子への愛惜を覗かせるほど気弱なひとではなかったはずだ。

(父上は、老いたのだ)

 ファルナードの横で、次代であるクレイスは哀切を漂わせながらもけしてまなざしを揺らがせていない。静かに、冷徹に、ひたとラガートを見つめている。

 ラガートは唐突に理解した。理解してしまった。

 ――このひとのためにこそ、刃を振るう時が来たのだと。

(ルーファとシャーリアの婚礼を終えて、俺があの姫を側妾に迎えれば……兄上が族長の跡目を継ぐことになるだろう。幹部たちも世代交代をして、兄上とルーファを中心に新しい部族の基盤を作っていく――〈白蠍〉の同化を一気に推し進める、またとない好機だ)

 砂漠の男は強者にこそ従属する。生き残った〈白蠍〉の若者たちに〈青鷹〉の武威を知らしめれば、自ずと忠誠を見せる者も出てくるだろう。

 次期族長と族長補佐の兄弟である己が彼らの最後の希望を『妻』としていれば――ラガートは笑いを堪えきれずに目を伏せた。

(まったく、俺の兄上はとんだ策士だ)

 争いを厭う兄は、昔から知略で揉め事を解決する天才だった。いつだって、ラガートはクレイスには敵わない。

 きっと己が唯一笑顔で敗北を受け容れられるのは、クレイスだけだ。

(ルーファがあんなことを言い出すのも、おそらくは予想の範疇なんだろう。あいつはまっすぐで優しすぎて危なっかしいが、だからこそ人を惹きつける力がある。兄上や俺では御しきれない風聞を、あいつはいつでも心強い追い風に変えてくれる)

 ちらりと重鎮たちを窺えば、揃って痛ましい顔つきで項垂れるルーファを見守っている。

 血の結びつきを尊ぶ砂漠の民にとって、家族を――特に目上の血縁者を大切にする者ほど好ましい人間はいない。父母や兄姉に孝を尽くすことは善行であり、子の生まれた家門に幸をもたらすと信じられていた。

 おそらく、ルーファが次兄の代わりに名乗り出た事実は煙のように広がるだろう。次期族長補佐の献身に心打たれぬ者はおらず、部族の求心力はますます高まる。

 ラガートは顔を上げた。

 光が波打つ。羽ばたくように震える青い翼の陰影を振り仰ぎ、彼は心を決めた。

 髪を切り、ひとりの戦士となった日。己の剣で何を――だれを守るのか、見定めた日。

 生きて死ぬ場所は、あのときからたったひとつだけだった。

 ラガートは、淡く笑んだ。

「心得ました。すべては、我らの蒼翼が往く遥かなる高みのために」




 静かな夜だった。

 かすかなリュートの音色が火明かりを揺らしている。物語だけで知る雪が降りしきるような密やかな調べは、伝え聞くそれと同じ色をした指先から紡がれていく。

 リュートを奏でるエルローサが息を吸いこんだ。ふわりと歌声が広がる。


 夏が来る

 恋しき貴女の季節が来る

 けれど私の心は千々に乱れて、歓びと哀しみが雪嵐の様に魂の空洞で木霊する


 夏の乙女の足音がする

 恋しき貴女の足音がする

 けれど私は切なくて苦しくて、逃げ場の無い檻の中で戦慄する


 夏が来る

 夏が来る

 貴女が私を捕らえに遣って来る

 然うして夏が過ぎ、檻に残るは見るも無惨な恋心の髑髏されこうべ


 エルローサの祖父に当たるという詩人が作った歌詞は、物悲しいと言うに尽きる。恋に苦しみ抜いた詩人の詩編に曲をつけ、恋歌にしたのは彼の息子――エルローサの父親だと彼女は語った。

 巣立ちの日まで守り導いてくれるはずの母鳥に捨て置かれたヨルンの雛は、おとぎ話の時代から生きてきたとされる名高き歌うたいに拾われ、慈しまれて育て上げられた。運命を予言する〈白鴉びゃくあ〉の伝説は、砂漠どころかこのテルミアの地で知らぬ者はいない。とんだ眉唾物だと思いつつ、しかしエルローサの微笑みの深さに疑いの言葉など溶かされてしまった。

 とにかく、伴侶を得るまでになったエルローサの父親は、たびたび亡き実父の詩を口ずさんでいたのだそうだ。恨むでもなく、憤るでもなく、数多の歌を継いできた〈渡り鳥〉の一羽として尊敬と哀惜をこめて。やがて生まれた娘に、実母と養い親から学んだすべてとともにその想いを託して。

 ふつりと歌が途切れる。ラガートは思考の淵から意識を引き戻し、弦に手を添えたまま黙りこくる妻を見た。

 蜂蜜色に煙る睫毛がきらめき、感情の読めない濃紫の瞳が上を向く。

「……妾のおそるべき『夏』が訪れましたか?」

 尋ねる声は聞き慣れた温度よりもいくぶん低かった。ラガートは頬杖をつき、笑顔になりきらない表情を浮かべた。

「妾がおそれる必要などないさ。だが、今よりは窮屈な思いをさせてしまうだろう」

 エルローサは眉宇をひそめた。

 言葉を吐き出すことがこれほど息苦しいと感じるのは、はじめてだ。

「――側妾を迎えることになった」

 リュートを抱く白い手が震える。ラガートは菫色のまなざしから視線を逸らし、淡々と続けた。

「あくまで形式上の、仮の妻としてだが。〈白蠍〉の残党に不穏な動きがあって、あの姫を俺の側妾とすることで連中の勢いを削ぐためだ」

「……仮の、というのは……あくまで名目だけだと?」

「……形式を伴うわけだから、同じ天幕で寝起きしなければならない。寝床をともにする日も必要だろう。だが、俺はあなたと婚姻を結んだ身であるし、あなたを蔑ろにすることは絶対にない。族長と次代もこれを承認している」

 弦がいびつな音を立てた。ハッとするとエルローサは肩を強張らせ、柳眉をわななかせている。

「ずいぶんと、ひどい話ですこと」

「……あなたには、申し訳ないと思っている。子もできていないうちに、こんなことになってしまって」

 エルローサは唇を噛んだ。ラガートは一拍のためらいを置いて、片手を伸ばした。

 彼女は触れる熱を拒まなかった。

 それに安堵して、折れてしまいそうな背中を抱き寄せる。肩にこつりと額が落ちた。

「……本当は、あの姫君こそあなたの奥方にふさわしいのでしょう」

「敗者の娘が最下層の側妾に零落するなんて珍しくないさ。俺の産みの母も、かつては〈青鷹〉に滅ぼされた部族の総領筋の娘だったらしい。父は母を本当に慈しんでいてくださったようだが……幼心に、母はいつもどこか寂しげで、儚いひとだった」

 腕の中でエルローサが視線を上げる。鼻先が触れ合うほとに顔を近づけ、ラガートは微笑んだ。

「最初の夜に約束したとおり、俺の血潮のひと雫はあなたに捧げよう。あなたが父祖から受け継いだ宝を授けるにふさわしいヨルンの子が産まれるまで――あなたが俺の妻でいてくれる限り、俺が腕に抱くのはあなただけだ」

 エルローサの表情が波立つ。彼女は伏し目がちに夫の褐色の頬に白いそれを重ね、どうか、とささやいた。

「妾を、愚かなウェンダルのように狂わせないでください」

「――ああ」

 妻のぬくもりを抱く腕に力をこめながら、ラガートは黒と灰の瞳を閉ざした。瞼の裏にちりちりと金の残像が焦げつく。

 いっそこのひとが狂ってくれればいいのにと、浅ましい願いを彼は苦く噛み殺した。

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