02
右目が、熱い。
冷めかけた焼き鏝を押し当てられたようにじくじくと疼く。不快感は鈍い頭痛に変わり、ラガートは顔をしかめて瞼をこじ開けた。
薄暗い視界は不自然にぼやけていた。たまに右目の傷が痛みを思い出すと、こうして視界が霞むのだ。少し待てば痛みは引き、目の前の靄も晴れる。
(薬師の婆は、傷は治りきったはずだと言っていたが……)
無意識に右目を押さえながらため息をつくと、傍らの人物が身じろぐ気配がした。
「……ラガート殿?」
眠たげな色をした妻の声に、ラガートは苦笑した。
まだ陰影の滲んでいる視界で淡い色が揺れ、起き上がったエルローサが顔を覗きこんできたのだとわかった。
「どうしたのですか」
右目を覆う手に華奢な女の掌が重なる。瞬きをくり返すと、不安を滲ませた菫色のまなざしが見下ろしていた。
「いや、少し傷が疼いただけだ」
「また?」
そっと目元から手を払われ、あらわになった傷痕を確かめるようになぞられる。ラガートはくすぐったさに喉を鳴らし、エルローサの手を捕まえた。
「心配はいらないさ。我が妻の麗しのかんばせがよく見える」
「もうっ」
エルローサは子どものように頬を膨らませ、ぺちりと夫の鼻先を叩いた。
たくましい褐色の腕が伸びて白い腰に巻きつく。寝床に引きずりこまれたエルローサは笑い混じりの悲鳴を上げ、首に噛みつくラガートの肩に腕を回した。
天幕には獣脂の残り香をした夜の気配が燻っていた。かすかに射しこむ光は淡青く、夜明けが近いことを物語っている。
ふたりはしばらくじゃれ合いのような交歓に耽っていたが、どちらからともなく息を切らして毛皮の褥に身を沈めた。
何しろ、ひと晩じゅう祝勝の宴席で歌い踊ったあとなのだ。狂騒冷めやらぬうちに天幕へ雪崩れこみ、若い熱情で互いの肌を焦がした。汗で湿った妻の体を抱きながら、このまま快い疲労感に身を委ねてまどろんでいたい。
うとうとしていると、右頬の傷痕に細い女の指がそうっと触れた。
「……エルローサ殿?」
褐色の胸板に乗り上げたエルローサは、骨張った頬から引きつれた瞼へ指先を移した。濃灰色に褪せた眸に子どもっぽく歪んだ美貌が映りこむ。
「あなたは何度、妾の白い鳩を殺すのでしょうね」
「鳩……?」
「ウェンダルという北の詩人が詠った、古い詩編の一節ですよ」
甘く掠れた〈渡り鳥〉の声がひっそりと謡う。
――私は左胸に白い鳩を飼っている
夏の乙女の接吻に溶け去る淡雪の様に真白く、寄る辺無き小さな体を竦ませ、貴女の両手の裡で震えている
貴女が一寸力を入れるだけで、哀れな鳩は容易く縊り殺せるだろう
小さな舌を突き出して死にゆく鳩が零した一滴の紅玉は、貴女を恐れ慕う私の涙
夜の静寂に染み渡るような歌声だった。
ラガートは嘆息した。
「なんとも、淋しい詩だな」
「ウェンダルは、生涯に渡って苦しい恋に悩まされたそうです。相手の女性との間に子どもまで設けたのに結局添い遂げることができず……最後は自ら毒を呷って命を絶ちました」
思わず眉をひそめた。戦いに負けて砂に膝をついたのならまだしも、望んだ女を妻に得られなかったというだけで世を儚むとはいささか感傷過ぎやしないか?
「詩人というからには、ヨルンの血統なのか」
「いいえ、彼は高貴な騎士の家柄に生まれついた公子でした。けれど、天の女神がウェンダルにお与えになったのは武人の才ではなく詩人の才だった。……孤独で、繊細な少年だったそうですよ。年若い彼に詩学を手ほどきしたヨルンの語り部は、その豊かな才能と玻璃細工のような魂を深く愛しました」
エルローサの睫毛がほのかな光を弾き、夜の闇を孕んだ瞳がラガートを見つめる。そのまなざしに、ラガートは不意に理解した。
「公子にさえずることを教えた師は、あなたのような歌姫だったのか?」
年上の妻は婀娜っぽく笑った。
「ええ。リュリサーラという名の、琥珀色の膚をした吟遊詩人でした。よくも悪くもヨルンの女らしく、奔放で、高慢で、可憐な小鳥の姿をした猛禽だったと聞いています。彼女は短い夏の間だけウェンダルの許に留まり、幾度となく正妻にと乞う彼を嘲笑って夏とともに去っていきました。そのくせウェンダルの自死を知ると、『夫』の墓前で喉を掻き切ってあとを追いました」
「……なるほど、確かにおそろしいご婦人だ」
ラガートは、はじめて聞くヨルンの魔女に不思議な既視感を覚えた。
蜂蜜酒よりも甘い肌を光らせ、波打つ黒髪を揺らし、艶かしく愛をささやく有翼の人魚の幻が浮かび上がる。女の声は、目の前の語り部のそれに似て響く。
――おそらくは、エルローサがはじめて口にした彼女という人間の端緒だった。
「てっきりあなたの左胸に棲んでいるのは弱々しい北方の鳩ではなく、しなやかに旅の空を翔る猛禽のような気がしたのだがな」
年下の夫のやわらかな皮肉に、エルローサは苦笑した。ほつれた髪を耳まで掻き上げ、挑発的に胸元の膨らみを潰してみせる。
「どうかしら。妾はリュリサーラのように、〈止まり木〉の嘆きを悦楽に結びつけられる感性は持ち合わせていませんよ。むしろ、ウェンダルの詩情が痛いほど理解できる。帰るともわからぬ相手を待ち続け、胸の奥で打ち震える鳩が今にも絞め殺されてしまいそうなほどの苦しみが……」
熱く白い膚の下で脈打つ音色を感じる。
口元には娼婦じみた冷笑を刷いているくせに、エルローサの眸の奥にはいとけない少女がいた。寄る辺なき小さな体を竦ませ、ラガートの掌中で震えている小鳥。
喉の奥まで迫るいとおしさに、青年はただ優しく妻のこめかみに口づけた。
「しばらくは、あなたの鳩を殺す算段は思いつかないな」
「しばらくって、どれくらい?」
エルローサはくすぐったそうに目を細めて頬を寄せてきた。ラガートは彼女の腰を引き寄せ、唇をたわませた。
「そうだな――」
穏やかな睦言は、鋭い馬の嘶きに切り裂かれた。
天幕の外で怒号が上がる。びくりと肩を強張らせたエルローサを押しやり、ラガートは枕辺に置いていた長剣を手に取った。
「すぐに動けるよう支度を」
「は、はいっ」
素肌に外套だけ羽織って天幕を飛び出すと、荒々しい馬蹄が耳を打った。捕虜が逃げたぞ、だれか止めろという叫びが切れ切れに聞こえる。
わあわあと声を上げる人々の囲いの向こうに、前脚を跳ね上げる黒駒の影があった。鬣を振り乱して抵抗する暴れ馬の背で、薄紅色のスカーフが激しく翻る。
ラガートは舌打ちして砂を蹴った。
「危ない!」
「離れろ! 蹴り殺されるぞッ」
甲高い嘶きがとどろき、黒駒が跳躍する。砂の飛沫を散らして駆けてくる騎馬に向かってラガートは一直線に走った。
「若!?」
制止を振り切り、ラガートは鞭のごとくしなる手綱を左手で掴んだ。
見開かれた深紅の瞳を横目に、騎手の後ろへ滑りこむ。気合の声とともに手綱を引くと、黒駒は薄明の空に前脚を躍らせた。
腕の中で娘が悲鳴を洩らす。ラガートは奥歯を軋ませ、怯える黒駒を必死になだめた。
「どう、どう」
よく知る騎手のかけ声に気づいたのか、黒駒は息を弾ませながらも気を鎮めた。ぶるるっ、と鼻を鳴らして困惑と怒りを訴えてくる黒駒の背を何度も叩いてやり、ラガートは「もう大丈夫だ」と苦笑した。
「二の若様!」
「お怪我は!?」
駆け寄ってくる仲間たちに手を振りながら、ちらりと目の前の少女を見遣る。
もつれた栗毛の下で頼りない肩が震えている。ラガートはため息をつき、ほとんど脱げかけたスカーフを直してやった。
「……〈白蠍〉の姫は、優秀な騎手のようだな。こいつは気難しくて、〈青鷹〉の戦士でもなかなか乗りこなせないんだ」
戸惑いを表すように少女が瞬く。ラガートは片頬を歪めた。
「だが、たとえ居留地から逃げおおせたとしても、いったいどこへ行くつもりだ? 水も食糧も持たずに、部族を失った女ひとりで砂海を渡っていけるとでも? 運よくどこぞの隊商に拾われたとしても、身を堕とす先は娼婦か奴隷だぞ」
「――ッ」
少女の眦にカッと火が散った。一対の柘榴石が燃え上がる憎悪に照り輝く。
きれいな娘だなと、ラガートは素直に思った。
「同胞のだれかに、おまえだけでも逃げて一族の血をつなげなどとそそのかされたんだろう? ……もしも俺がおまえと同じ立場だったら、おめおめと憎い仇を見逃したりせず、復讐を果たすまで砂を噛んでも生き延びてみせるがな」
「な……」
「この首、欲しければ獲ってみろ。〈白蠍〉の族長エリグが長子――リューダ」
少女の喉がかすかに動く。
年端も行かぬ子どもには似合わない、灼々とした眼光がラガートを射抜いた。
「ころしてやる」
黎明の炎が鮮やかに天を、砂の大地を染めていく。乾いた風が少女の髪を巻き上げ、剥き出しの頬を涙の代わりに暁光が縁取る。
どこか心地好い光景に、ラガートは知らず嗤っていた。
「せいぜい、愉しませてくれ」
遠く、向かい合う男と少女を頑なに見つめる女の眸に気づく者は、だれもいなかった。