01
この作品はフィクションであり、実在の事件・人物等とは一切関係ありません。また、本編における残酷・反社会的描写は犯罪等を助長するものではなく、R15指定相当であることを明記します。
ラガートはすっかり憂鬱な気分だった。
赤々と燃える大焚火に照らされた広場には、百数十人もの老若男女が輪を描くように集っていた。酒精と香辛料の入り混じった胸焼けするような匂いが立ちこめるなか、笑いさざめく声の波間から軽快な音楽が流れてくる。輝く炎を背にした踊り子が小麦色の肢体をくねらせるたび、色とりどりの薄絹が艶めかしく翻った。
期待のこもった流し目を何度も食らい、舌を濡らす酒がますます苦くなった。ラガートはくっきりとした眉をしかめ、思いきり視線を逸らした。
十九の齢を数える彼は、まっすぐ通った鼻筋が厳しくも精悍な若者だった。黒髪を短く刈りこんで首筋をさらしているのは、敵に首を斬り落とされる覚悟を示す戦士の証である。ゆったりとした遊牧民の衣装に包まれた肉体はしなやかに引き締まり、少年の殻を破って男性的な悩ましさを仄かに漂わせていた。
宴席のあちこちから寄せられる秋波に、ラガートは心底うんざりしていた。今すぐここを抜け出して遠駆けに行きたいような気持ちだが、主役が宴を投げ出すわけにもいかない。しかも両脇をがっちりと監視役に固められており、逃亡は至難の業だった。
「そんな仏頂面をするな、ラガート」
上手に座った兄のクレイスが苦笑気味にたしなめた。
「確かに気乗りしないのはわかるが、父上たちもおまえを思ってああ言われたのだろう」
「そうですよ、小兄上」
下手から身を乗り出したのは、弟のルーファだった。
「族長の息子が成人を四年も過ぎてまだ独り身だなんて、そりゃあ周りが気を揉みますよ。兄上はとっくに三人も子どもがいるし、おまけに弟の俺にはかわいい許嫁が……痛ぁ!」
「うるさい、さりげなく惚気るな」
容赦なく頭をはたいてルーファを黙らせると、ラガートはクレイスを横目に睨んだ。
「別に俺がだれも娶らずにいようと問題はないでしょう。兄上とこいつはまだしも、俺はただの庶子なんですから」
すると、クレイスは母親譲りの優美な面を悲しげに歪めた。
「そんなことを言わないでくれ。私もルーファも、心からおまえを愛している」
「……わかりましたから、そんな顔で女を口説くような台詞を吐かないでください」
ラガートはげっそりして兄から視線を逃がした。
この〈青鷹〉の部族を治める族長には三人の息子がいる。クレイスとルーファは正妻から生まれた嫡子だが、ラガートの実母は身分の低い側室だった。
しかし、義母はたいへん愛情深く寛大な女性で、幼くして母を亡くしたラガートを手元に引き取り、我が子と分け隔てなく育ててくれた。クレイスとルーファを兄弟と呼べるのは、間違いなく義母のおかげだ。
それでも、子どもの頃は周囲に軽んじられなかったわけではない。両親や兄が庇ってくれたが、どんなに耳を塞いでも陰口というのは聞こえてしまうものだ。こちらが小さくなればなるほど口さがない人間が増えるのだと気づき、ラガートは逃げることをやめた。
星の数ほどの部族がひしめく砂漠の地では、わずかな水源や緑地をめぐって争いが絶えない。ゆえに遊牧民の男たちには、何よりも強さが求められる。潔く髪を切り、先駆けを務める戦士は、部族のだれもが憧れ敬う存在だ。ラガートがその道を選んだのは自然なことだった。
やわらかな幼子の掌は潰れた肉刺と剣胼胝に覆われ、今ではすっかり分厚い。十二歳で初陣を飾り、成人である十五歳を過ぎる頃には、同年代でラガートの剣の腕に敵う者はいなかった。
先日、近隣部族との間で起きた涸れ谷の領有をめぐる小競り合いを勝利で治めたのも、先陣を切って敵の懐に飛びこんだラガートが相手側の頭目の首を取ったからだと称えられた。今夜の宴は、その戦勝を祝うものだ。
父と義母の前に胸を張って立ち、息子として勝利を捧げられたことはとても嬉しい。……が、労いとともに賜った『褒賞』に、ラガートの心中は晴れやかどころか曇天が立ちこめていた。
「まったく小兄上の考えはわからなぁ。気に入った相手ならどんな娘でも妻にできるなんて、まさによりどりみどりな男の夢じゃないですか」
本気で首を傾げている弟に、ラガートは苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
「女なんて面倒臭いだけだろう」
「……小兄上って、実は女より男のほうがよかったりします?」
「殴られたいのか?」
ルーファは「怖い怖い」と首を竦めてみせた。
「妻というのはよいものだぞ、ラガート」
年長者らしい口ぶりでクレイスが言った。
「一日の仕事を終えて天幕に帰れば、あたたかな食事を用意して笑顔で出迎えてくれるのだ。『おかえりなさい』という言葉を聞くだけで、三日三晩砂漠をさまよってオアシスを見つけた旅人のような心地になる」
「兄上まで惚気ないでください……」
ラガートは片手で顔を覆い、深々とため息をついた。
「……そう思えるような、心動く相手が今はいないんです。言い寄ってくる者はいますが、どうしても族長の息子だとか戦士だとか、そういう肩書きに媚びているようにしか見えない」
今まで恋人がいなかったわけではない。ちらりと結婚が頭をよぎった相手もいる。だが、どんな甘美な睦言も潤んだまなざしも心をすり抜け、最後には自分の何を見ているのかという疑心しか残らない。
くり返される虚しさはやがて諦感に変わった。跡継ぎでもない自分は必ず子を残さねばならないわけではなく、むしろ待つ者がいないほうが戦場で生きて死ぬ身にはふさわしい気がした。
「だが、それでは父上が納得されないだろう。族長からの褒美を辞退するとなると、とやかく口を挟む輩も出てくるはずだ」
声をひそめたクレイスの言葉に、ルーファも大きく頷いた。
「そうそう。とりあえずここは、適当な相手を見繕っておいたらどうですか?」
「そんな馬鹿なことできるわけ――」
ないだろう、と続くはずだった台詞は、広場に響き渡った不思議な音色に立ち消えた。
ざわめきが静まり、人々の視線が一ヶ所に吸い寄せられていく。いつの間にか大焚火の前から踊り子が下がり、新たな余興がはじまっていた。
ラガートは目を瞠った。
――そこにいたのは、旅装束を纏った異国の女だった。
炎の色に染まった嘘のように白い肌。ゆるく波打ちながら華奢な肩を覆う髪は淡い亜麻色で、今は残照めいた輝きを帯びている。顎の尖った小さな顔は見慣れぬ造作をしているが、伏せられた長い睫毛がゆるりと持ち上がる様はなんとも妖しかった。
切れ長な女の双眸が観衆の上を滑り、不意にラガートを捉えた。視線が絡み合う。
女は見たこともない深い紫の瞳をしていた。暁闇の空、瑠璃色の宝石――鮮やかに香る菫の花の色。
背筋が震えるような、全身を駆けめぐる血潮がカッと沸騰したような感覚がラガートを襲った。
たおやかな細腕には琵琶によく似た楽器が抱えられていた。白い指が滑らかに弦を弾き、嫋々と旋律が流れ出す。
朱き砂漠を渡る風よ どうかわたしに教えておくれ
この胸の渇きを潤す水が眠る場所を
駱駝に乗って あのひとは旅立っていった
きっと帰ってくるからと他愛ない約束を残して
砂丘の向こうに消えるまで いつまでも手を振っていた
あのひとはどこまで行ってしまったのだろう
わたしはひとりきり 待ちぼうけ
それが人間の声だと、ラガートには信じられなかった。
玻璃の小鳥がさえずるような歌声は広場の隅々まで染み渡り、人々は息を殺して耳を凝らしていた。砂漠の民ならだれもが知る古い恋歌だというのに、まるではじめて耳にするように聞き入ってしまう。
朱き砂漠を渡る風よ おまえは知っているのだろうか
恋しい旅人の行く末を
あのひとが見た凍れる砂漠の星 紫紅の夜明けを
どうかわたしに教えておくれ
おまえが消したあのひとの 砂に刻まれた足跡
砂の海に沈んだ果たされぬ約束の在処を
震える弦の余韻が熱された夜気に溶けると、ワッと拍手と歓声の嵐が沸き起こった。女はふわりと微笑み、優雅な一礼で応えた。
「すばらしい、実にすばらしい!」
ひと際大きな声を上げたのは、最も上座に座った族長だった。その隣では、老いてなお麗しい義母が目を細めて頷いている。
「さすがは〈旅する語り部〉、聞きしに勝る歌声だ」
父の口から出た呼び名に、再び広場がざわめきはじめる。女を見る人々の目には、驚嘆と得心が浮かんでいた。
遥か古から、何世代にも渡ってこのテルミアの地を旅し続ける放浪の一族――ヨルン。彼らはさまざまな土地の伝承を聞き集め、美しい歌や物語に変えて語り継いでいく。その歌声は聞く者に至福の夢を見せるといわれ、いつしかヨルンの民は吉兆の象徴とされるようになった。
「お褒めいただき光栄にございます、勇猛なる〈青鷹〉の長」
吟遊詩人が薄紅色の唇を動かすたび、ラガートの耳元で水玉の鈴が涼やかになった。まるで視線の先を縫いつけられたように目が離せない。
女の謝辞に満足げに頷き、父は広場に集った人々を泰然と見渡した。
「聞け、我が同胞よ。我らの勝利と栄光を言祝ぐため、いと高き天におわしますミアは美しき福音の使者をお遣わしになった。今まさに神のご加護は我らの許にある。さあ、存分に呑み、食い、祈りを捧げ、この僥倖に酔い知れようではないか!」
先ほどを上回る歓喜の咆哮に広場が揺れた。祝杯を打ち鳴らす音があちこちで弾ける。
「ヨルンの歌い手よ、今宵の主役を紹介しよう。私の二番目の息子で、部族で最も勇ましき戦士であるラガートだ」
唐突に自分の名前を出され、ラガートはぎょっとなった。慌てて居住まいを正すと、父に促された女がしずしずと歩み出てきた。
砂埃と太陽の匂いを孕んだ外套が翼のように広がる。両膝をつき、左手の甲に右掌を乗せた両腕より低く頭を下げる――女は砂漠の民に伝わる最敬礼を完璧に行ってみせた。
「お初お目文字つかまつります、〈青鷹〉の若君。妾はヨルンのエルローサと申します。このような栄えある席にて我が父祖より伝わる歌を披露させていただき、恐悦至極に存じます」
「……どうぞ面を上げられよ、ヨルンのエルローサ殿」
乾いた唇を舐め、ラガートは女の名を呼んだ。
菫色の瞳がゆるゆると彼を映す。朱金の炎に照らされたエルローサは、ひどくまぶしかった。
「妙なる〈渡り鳥〉の歌声を頂戴し、こちらこそ身に余る誉れと思う。……あんなにも美しい歌を、俺は聞いたことがない」
エルローサはひとつ瞬き、ふっと吐息をこぼすような笑みを浮かべた。それだけで、年若い青年の心臓はたやすく跳ね上がった。
「ありがとうございます。とても嬉しいお言葉ですわ」
いくぶん砕けた口調でいたずらっぽく笑い、彼女は脇に置いた楽器を抱え直した。
「されど、雄々しき砂漠の若鷹を称える宴に涙に濡れた悲恋の歌は不相応なもの。今宵の英雄に、天翔る獅子に導かれし勇者の物語を捧げましょう」
力強い調べに乗って、透きとおった歌声が荒波のように広がっていく。それは沿岸四国で最も名高い武勲詩である、リオニア王国の建国を謳った『夜明けの無名王』だった。
かつての暗黒時代を終わらせた英雄王にラガートをなぞらえているのだと知り、〈青鷹〉の民は手を打って喜んだ。だが、彼の世界に響くのはエルローサの歌声で、その目に映るのはエルローサの姿だけだった。
歌が終わっても、ラガートはいつまでもいつまでも彼女を見つめていた。