↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「貴様との婚約を破棄する」と49回目に言われましたが、殿下、巻き戻した回数は塔の石に刻まれておりますのよ

作者: 法燈
掲載日:2026/09/18

 その言葉を、わたくしは知っている。


「エルネスティーネ・フォン・アーレンスマイア。貴様との婚約を、破棄する」


 大広間の中央。集まった貴族はおよそ200名。天井から吊られた光晶石が、床の大理石を白く焼いている。正面に立つのは、この国の王太子ジークベルト・レーヴェンハルト殿下。


 わたくしは、その光景を初めて見ている。にもかかわらず、次に何が起こるかを知っている気がしてならない。


 殿下は右手を上げる。そこに小姓が羊皮紙を載せる。


 ――載せる、と思った瞬間に、載った。


「罪状は三つ。一つ、ホルベック男爵令嬢ミリアムへの再三の侮辱。二つ、彼女の私物の毀損。三つ、階段からの突き落とし」


 背筋が、冷たい。


 罪状の中身が恐ろしいのではない。三つ、という数が、口にされる前からわかっていたことが恐ろしい。


「……申し開きをお許しいただけますか」


「許さぬ、と言いたいところだが」


 殿下は、笑った。


「言ってみろ。どうせ、東の回廊の証人の話をするのだろう」


 わたくしは、息を止めた。


 東の回廊。三つ目の罪状の日、わたくしがどこにいたか。証人として名を挙げるつもりだった庭師の老人の名を、まだ一度も口に出していない。手紙にも書いていない。昨夜、自室で一人で決めたことだ。


「……なぜ、それを」


「調べたに決まっている」


 答えになっていない。


 殿下の顔を、わたくしは見上げた。22歳。三年前に婚約した相手。背が高く、金の髪をきちんと撫でつけ、いつも自信に満ちた目をしている男。


 今日の目は、違う。


 疲れている。異様に疲れている。四日も眠っていない者の目だ。しかも、こちらを見る視線に、憎しみとは別のものが混じっている。


 ――苛立ち。


 同じ話を何度もさせられている人間の、あの苛立ち。


「その庭師は死んだ」殿下は言い放った。「先月、流行り病でな。証人は立たぬ」


 大広間がざわめく。


 わたくしは、指先が冷えていくのを感じていた。老人が死んだことは、わたくしも今朝知ったばかり。屋敷の者以外、誰も知らないはずのこと。


 この方は、わたくしが何を言うかを、先に知っている。


   ◇


 アーレンスマイア家は、古い。


 国が建つより前から、この土地には「刻守(ときもり)」と呼ばれる家系があったという。我が家は、その末裔ということになっている。


 役目は一つだけ。王家の秘宝〈逆鍵〉を見張ること。


 逆鍵は、時を巻き戻す鍵だ。伝承ではなく、実在する。王城の地下、刻の塔の根に封じられていて、鍵そのものは王家が、封の解除は刻守が握る。二つ揃わなければ使えない。そういう仕組みになっている。


 わたくしは十の年から、父にその律を暗誦させられて育った。


 ――逆鍵は、三日を超えて戻すことあたわず。


 ――逆鍵は、対価を要す。対価は、術者に最も近き者の時より徴す。


 ――逆鍵の使用は、環輪に刻まれる。環輪の刻みは、いかなる時の流れによっても消えぬ。


 この三行を、わたくしは十九年、呪文のように覚えている。意味を考えたことは、正直なかった。逆鍵が使われたのは、記録に残る限りでは三度きり。300年前の飢饉、190年前の大火、そして40年前の王女の落馬。どれも、わたくしが生まれる前の話だから。


 断罪の夜から戻って、わたくしは屋敷の書庫にこもった。


 燭台を三本立て、律の写本を膝に広げる。指が、文字の上で止まった。


 ――対価は、術者に最も近き者の時より徴す。


「最も近き者」


 声に出してみる。書庫の天井に、自分の声が薄く反響した。


 術者は、鍵を持つ王家の人間。この場合は、殿下。


 では、殿下に最も近い者とは、誰か。


 わたくしは自分の左手を見た。爪が三枚、縦に割れている。先月からだ。医師は乾燥だと言い、乳母は栄養だと言った。


 鏡の前に立つ。


 こめかみのあたりに、白いものが混じっている。


 19歳。それが、わたくしの年齢だ。


   ◇


 この半年、わたくしの体はおかしかった。


 朝、起き上がれない。三度階段を上がると息が切れる。食欲が落ちて、ドレスの丈を二度詰めた。侍女のヨハンナが心配して、王都で三番目に高い医師を呼んだ。医師は脈を取り、瞳を覗き、首をひねって帰っていった。


「悪いところが、どこにもございません」


 その言い方を、わたくしは覚えている。


「強いて申し上げるなら――お嬢様のお体は、70の老婆のように疲れております。ですが、臓腑はどこも健やかでいらっしゃる」


 疲れている。70のように。


 書庫で、わたくしはその言葉を思い出していた。


 もし、逆鍵が使われているとしたら。


 もし、その対価が、術者に最も近い者――婚約者――の「時」から徴されているとしたら。


 わたくしは震える手で、写本の次の頁をめくった。


 ――徴される時の量、一度につき一年を下らず。


 一度につき、一年。


 燭台の炎が、揺れた。


 わたくしは半年で、どれだけ老いたのだろう。爪と、髪と、階段と、詰めたドレスの丈。それを年に換算したら、いくつになるのだろう。


 父の書斎の扉を叩いたのは、その夜明けのことだ。


   ◇


「馬鹿を言え」


 父アルブレヒトは、わたくしの話を最後まで聞いてから、そう言った。寝間着の上にガウンを羽織って、髭も剃っていない。


「逆鍵は封じられておる。封を解くのは刻守だ。わしは解いておらん。使えるはずがない」


「封は、破れませんの」


「破れぬ」


「ですが、お父様。40年前の王女の落馬のとき、封を解いたのはどなたですか」


 父の口が、止まった。


「……先代だ。わしの祖父にあたる」


「そのとき、封は元に戻されましたか」


 父は、答えない。


 しばらくして、燭台を取り上げた。


「塔へ行く」


 刻の塔は、王城の東にある。地上からは三階建ての鐘楼にしか見えないが、階段は下へ伸びている。石段を78段下りたところで、空気の匂いが変わった。土でも水でもない、乾いた紙のような匂い。


 塔守のヘルフリート老が、燭台の光にぬっと浮かび上がった。90に近い。刻守の分家の出で、この塔から60年出ていないと聞いている。


「アーレンスマイアのご当主。それに――お嬢様ですか」


 老人は、わたくしを見て、目を細めた。その細め方が、妙に長かった。


「環輪を見せてくれ」


「かしこまりました」


 部屋の中央に、石の環がある。


 直径はわたくしの背丈ほど。黒く、つやのない石で、床から生えるように立っている。表面には縦の刻みが並んでいた。一本一本が、指の幅ほどの深さで、縁から中心に向かって彫られている。


 父が息を呑むのが、背中越しに聞こえた。


 わたくしは、数えはじめた。


 十本。二十本。三十本。


 手が止まらない。刻みは環の三分の一を埋め、まだ続いていた。


 四十本。


 四十五、四十六――


「47」


 声が、自分のものに聞こえなかった。


「47本、ございます。お父様」


 父は環に手をついて、黒い石を撫でている。それから、震える声で言う。


「わしが最後にこれを見たのは、三年前だ。そのときは、3本だった」


   ◇


 塔から戻る階段で、父はひとことも喋らなかった。


 わたくしの頭の中では、別のことが回っている。


 44回。三年のあいだに、殿下は44回、時を巻き戻している。


 いや、違う。


 三年ではない。わたくしの体がおかしくなったのは、この半年だ。徴される対価が一度につき一年なら、44年は取れていない。ということは、44回の大半は、もっと最近――


「ここ半年ですわ」


 わたくしは足を止めた。


「お父様。44回のほとんどは、この半年の出来事です。わたくしの体が、そう申しております」


「半年で44回だと」


「逆鍵は三日を超えて戻せません。半年で44回ということは、殿下は同じ数日を、何度も何度も繰り返していらっしゃる」


 言いながら、あの大広間の光景が戻ってきた。


 殿下の、疲れきった目。


 まだ言っていない反論への先回り。


 庭師の死を、屋敷の者より先に知っていたこと。


 ――同じ話を何度もさせられている人間の、あの苛立ち。


「お父様。殿下は、あの断罪の場を、何度もやり直していらっしゃるのですわ」


 声が震えた。恐怖ではなく、理解が追いついたことへの震えだ。


「初めは、うまくいかなかったのでしょう。わたくしが反論したか、証人が立ったか、陛下が止められたか。だから殿下は巻き戻して、わたくしの言い分を潰す材料を集めて、また巻き戻して、証人を先に殺して――」


 庭師の老人。流行り病。


 わたくしは口を押さえた。


「……いえ。それは、考えすぎですわね」


 考えすぎであってほしい、とだけ思った。


「殿下は、脚本を書いていらっしゃるのです。何度も上演して、失敗するたびに書き直して。今のわたくしは、47回書き直された脚本の、48回目の舞台に立っているのです」


 父は、階段の途中で立ち尽くしていた。


「ティナ」


「はい」


「お前は、47回分の記憶を持っておるのか」


「いいえ」


 わたくしは、正直に答えた。


「ただ、知っている気が、いたします。次に何が起こるか、うっすらと。刻守の血は、時の外に片足を置いていると、お父様が教えてくださいました」


「……あれは、ただの言い伝えだ」


「言い伝えでけっこうですわ。おかげで、気づけましたので」


   ◇


 屋敷に戻って、わたくしは自分の余命を計算した。


 紙に、数字を並べる。刻みは47本。うち3本は三年前より古い記録として除外する。残り44本。一度につき一年、と律にはある。「一年を下らず」とあるから、下限が一年だ。実際にはもっと取られている可能性もある。


 44年。


 わたくしは、19歳だ。


 この国の女の平均的な寿命は、およそ60。貴族ならもう少し延びる。仮に65として、19からの残りは46年。


 そこから44年が抜かれているなら。


 残っているのは、2年。


 ――いや。


 わたくしは、割れた爪を見る。息切れ。医師の言った「70の老婆のように」。


 2年もない。


 ペンを置く。


 不思議と、涙は出てこない。代わりに、腹の底へ石のようなものが据わっていく。


 殿下は、ミリアム嬢を守りたかったのだと思う。あの娘を正妃に迎えるために、婚約者を完璧な形で断罪したかった。そのために、47回のやり直し。


 その47回のたびに、殿下はわたくしの命を削っている。


 問題は、殿下がそれを知っているかどうかだ。


 知っていてやったのなら、殺人未遂を47回。


 知らずにやったのなら――もっと悪い。


 自分が何を燃やしているかも見ずに、47回、火にくべたということだから。


 どちらにせよ、逃げられない話だった。断罪の場から二日、まだ婚約破棄は正式には成立していない。この国では、破棄の宣言から七日以内に王の裁可が要る。裁可が下りれば、わたくしは終わり。下りる前に殿下が不都合を見つければ、たぶん、48回目も巻き戻される。


 巻き戻されれば、わたくしはまた何も知らないところから始める。


 既視感だけを頼りに、また同じ道を、たぶんもっと遅く歩く。


 ――間に合わない。


 そう気づいたとき、わたくしは筆を取った。


   ◇


 律の第九条に、こうある。


 ――環輪の刻みは、いかなる時の流れによっても消えぬ。


 環輪は、時の外にある。だから巻き戻しても刻みは残る。47本の刻みが証明している。


 ならば。


 環輪そのものに関わる手続きも、時の外にあるのではないか。


 わたくしは塔の律の巻を引き出して、開封の項を探した。あった。刻守の血を引く者は、環輪の開封を請求できる。請求が受理されると、塔守は七日後に環輪の写しを王国法廷へ送る。請求の撤回は、請求者本人にもできない。


 撤回できない。


 その一行を、わたくしは三度読んだ。


 撤回できないということは、巻き戻されても止まらないということだ。手続きは塔の中で進む。塔は時の外にある。殿下が時を戻しても、わたくしの記憶が消えても、七日目に環輪は法廷へ出る。


 わたくしは、その夜のうちに刻の塔へ戻った。


 ヘルフリート老は、起きていた。60年この塔にいる老人は、たぶん眠らないのだと思う。


「開封を請求いたします」


「お嬢様。理由をうかがっても」


「禁鍵律違反の疑い。無断使用、47回」


 老人の目が、光を受けて動いた。


「――47回」


「はい」


「わしは、この60年で三度しか刻みを見ておりません。三度とも、封を解く許しが出ておりました」


 老人は、羊皮紙と鉄のペンを取り出した。


「お嬢様。開封請求は、撤回できませぬ。請求者本人が望んでも、王が望んでも、七日目に環輪は法廷へ出ます。よろしいか」


「それを望んでおります」


「……ひとつ、申し上げても」


「どうぞ」


「お嬢様は、この塔へ来られるのが、四度目でございます」


 息が、止まった。


「わしは、この部屋で起きたことを忘れませぬ。塔は時の外にありますゆえ、わしの記憶も、たぶん半分は外にございます。お嬢様は三度、ここへ来られた。三度とも環輪を数え、三度とも顔色を変えて帰られました」


「……わたくしは、開封を請求いたしましたか」


「いいえ。一度も」


 老人は、静かに言った。


「三度とも、何かを言いかけて、やめて、お帰りになりました。たぶん、殿下の名を出すのを恐れられたのでしょう」


 わたくしは、羊皮紙の上に手を置いた。


 三度の自分が、この石の部屋で何を考えたのか、わたくしは知らない。ただ、たぶん同じところで止まったのだと思う。証拠が足りない、確信が持てない、相手は王太子だ。そういう、ごく真っ当な理由で。


 ペンを取った。


 エルネスティーネ・フォン・アーレンスマイア。


 名前を書き終えると、羊皮紙が、ひとりでに乾いた。


「受理いたしました」老人が頭を下げる。「七日後、環輪は法廷へ」


 塔の階段を上がりながら、わたくしは数えていた。


 七日。裁可の期限も七日。


 ――間に合うかしら。


 その夜、屋敷に戻る馬車の中で、世界が一度、白く途切れた。


   ◇


 目が覚めると、断罪の二日前だった。


 わたくしは自室の寝台にいて、侍女のヨハンナが朝の支度を整えている。窓の外は晴れ。カレンダーの日付は、確かに二日戻っている。


 頭の中は、空だ。


 塔のことも、環輪のことも、47という数も、何ひとつ覚えていない。


 ただ、妙な感じがする。


 朝食の席で、父が「よく眠れたか」と聞いてくる。その問いに、わたくしは「いいえ」と答えようとして、言葉に詰まった。理由がわからないまま、胸のあたりが重い。


 午後、屋敷の書庫の前を通ったとき、足が勝手に止まった。


 なぜ止まったのか、自分でもわからない。


 二日後、大広間に呼ばれた。


「エルネスティーネ・フォン・アーレンスマイア。貴様との婚約を、破棄する」


 殿下の声を聞いた瞬間、わたくしの背筋に氷が走った。


 知っている。この場面を、知っている。


「罪状は三つ」


 三つ。そう、三つだ。


 わたくしは、口を開いた。


「殿下。恐れながら、その罪状は三つでございますね」


 殿下の言葉が、途中で止まった。


 大広間が、ざわめく。


「……何だと」


「そして三つ目は、階段の件でございましょう。東の回廊の証人については、庭師が先月亡くなりましたので、立たぬと仰る」


 言いながら、自分でも驚いていた。なぜ言えるのか、わからない。口が、勝手に動いている。


 殿下の顔から、血の気が引いた。


 その表情を、わたくしは一生忘れないと思う。


 怒りではなかった。恐怖でもない。


 ――絶望だった。


 49回目にして、脚本が初めて、最初の一行で崩れた男の顔だ。


「……なぜだ」


 殿下の声が、掠れる。


「なぜ、お前は毎回、毎回」


 毎回。


 大広間が、しんとした。


 200人の貴族が、今の一語を聞いた。


「殿下」


 わたくしは、はっきりと言った。


「毎回、と仰いましたか」


   ◇


 殿下が答える前に、大広間の扉が開いた。


 入ってきたのは、二人の衛兵と、その間に浮かぶ黒い石の環。


 環輪だ。人の手では運べぬはずの石が、床から指四本ほど浮いたまま、音もなく滑ってくる。後ろから、ヘルフリート老が杖をついて歩いてきた。90に近い老人が、60年ぶりに地上へ出た姿を、貴族たちは呆然と見ていた。


「刻の塔より、王国法廷へ提出の儀。七日前、開封の請求がございました」


 老人の声は、しゃがれていながら、よく通った。


「請求者、アーレンスマイア家息女エルネスティーネ。案件、禁鍵律違反の疑い」


 わたくしは、自分の名を聞いて、初めて事態を理解する。


 七日前の自分が、何かをしている。


 何をしたのかは思い出せない。けれど、あの書庫の前で足が止まった理由が、今わかった。


「陛下」老人は、上座の国王オットマール陛下に向き直った。「環輪をご覧くださいませ」


 陛下が、玉座を立った。


 黒い環に近づき、表面の刻みに手を触れる。そのまま、動かなくなった。


「……これは」


「刻みにございます」


「何本ある」


「49本」


 49。


 大広間が、波のようにざわめいた。


「刻みは、逆鍵が使われた回数でございます」老人は淡々と続ける。「うち3本は40年より前の記録。残る46本は、この三年。さらに申せば、そのうち43本が、ここ半年に集中しております」


 貴族の誰かが、悲鳴に近い声を上げた。


 陛下が振り返る。息子を見た。


「ジークベルト」


「……父上」


「封を解く許しを、朕は出しておらぬ。刻守も出しておらぬ。誰が解いた」


 殿下は、答えなかった。


 代わりに、後ろに控えていたホルベック男爵令嬢が、小さく声を漏らした。


 ミリアム嬢。栗色の髪の、17か18の娘。彼女は両手で口を押さえて、震えている。


「あの……申し上げてもよろしいでしょうか」


 消え入りそうな声だった。


「申せ」陛下が言う。


「殿下は――」


 娘は、一度言葉を切った。それから、泣き出しそうな顔で続けた。


「殿下は、同じことを、何度も仰います」


 大広間が、静まった。


「同じ言葉で、同じ場所で、同じ時間に、わたくしに愛を告げられます。初めて仰るようなお顔で。何度も。わたくし、何度も同じお返事をしているような気がして、恐ろしくて。……わたくしがおかしいのだと思っておりました」


 娘は、そこで泣き出した。


 わたくしは、彼女を憎めなくなっている。


 この娘も、47回、同じ告白を受けてきたのだ。覚えのないまま。同じ言葉を、同じ顔で、繰り返し浴びせられていた。


 愛されていたのではない。上演されていたのだ。


   ◇


「殿下」


 わたくしは、進み出た。


「逆鍵の律を、お読みになりましたか」


 殿下の目が、わたくしを捉えた。


「第三条にございます。――逆鍵は、対価を要す。対価は、術者に最も近き者の時より徴す」


「……対価は」


 殿下は、喉を鳴らした。


「対価は、術者の寿命だ。わたしは、そう聞いた」


「どなたから」


「――封を解いた者から」


「どなたですの」


 殿下は、答えなかった。答えられなかったのだと思う。


「よろしゅうございます。ではお答えいたします。対価は、術者ご自身からは徴されません。術者に最も近き者から徴されます」


 わたくしは、手袋を外した。


 割れた爪を、大広間に晒す。


 それから、結い上げた髪をほどく。栗色の中に混じる白いものが、光晶石の下ではっきりと浮かび上がる。


「19でございます」


 声は、震えなかった。


「医師は、わたくしの体を70の老婆のようだと申しました。臓腑はどこも健やかでいらっしゃる、とも。健やかなまま、老いております」


 殿下の口が、開いたまま止まっている。


「殿下に最も近き者。三年前より、この国で殿下に最も近い立場にあった人間は、婚約者でございます。46回分の対価は、わたくしの時から徴されました。一度につき一年を下らず、と律にございますから――少なくとも、46年」


 わたくしは、一歩、前に出た。


「殿下は、わたくしを完璧に断罪なさりたかった。そのために46回、時をお戻しになった。そのたびに、わたくしの命が一年ずつ削られておりました」


「知らぬ」


 殿下が、叫んだ。


「知らなかった! わたしは、そんなことは!」


「存じております」


 わたくしは、頷いた。


「ご存じなかったのでしょう。律をお読みになっていないのですから」


 大広間が、しんとした。


「殿下。あなたさまは、46回、わたくしを殺しにかかりました。しかも、自分が何をしているかもご存じないまま。憎しみで殺すより、よほど悪うございます。憎しみなら、少なくとも相手を見ておりますから」


「わたしは――」


「もうひとつ、申し上げます」


 わたくしは、庭師の老人の顔を思い出していた。あの人は、わたくしが子どもの頃から東の回廊の薔薇を世話していた。


「三つ目の罪状の証人は、先月亡くなりました。流行り病と聞いております。――殿下。46回の上演の中で、あの老人が証言に立った回は、ございましたか」


 殿下は、答えなかった。


 その沈黙が、答えになった。


 国王陛下が、玉座の肘掛けを強く打つ。


「衛兵。王太子ジークベルトを拘束せよ」


「父上!」


「禁鍵律違反46件。王家の秘宝の無断使用。加えて――」


 陛下は、一度目を閉じた。


「加えて、その一件については、これより調べる」


   ◇


 三日後、わたくしは刻の塔にいた。


 逆鍵は、封から取り出されて、石の台の上に載っている。細い、黒い鉄の鍵。飾りひとつない。これが46年を吸ったのかと思うと、あまりに素っ気ない見た目だった。


 律の最後の条に、こうある。


 ――鍵を折れば、徴されし時は持ち主に還る。ただし、鍵は二度と鋳られぬ。


 父が、隣で言った。


「刻守の家は、この鍵を見張るために900年続いてきた。折れば、我が家の役目は終わる」


「はい」


「それでも折るか」


「折ります」


 わたくしは、鍵を取った。


 軽い。枯れ枝ほどの重さしかない。


「お父様。900年、我が家はこの鍵を見張ってまいりました。見張った結果が、46回でございます。見張るという役目は、失敗いたしました」


 父は、何も言わなかった。


「それに」


 わたくしは、鍵を両手で持った。


「わたくしは、来年の春を見たいのです」


 折れる音は、思ったより小さい。乾いた小枝を折るときの音に似ている。


 その瞬間、体の中へ、熱いものが流れ込んできた。


 膝をつく。息ができない。目の奥が焼けるように熱くて、耳の中で誰かが早口で喋っているような音がする。46年分の時が、逆流して戻ってくる音だと、わたくしは思った。


 どれくらいそうしていたか、わからない。


 顔を上げたとき、塔の窓から朝の光が差していた。


 自分の手を見る。


 爪は、割れていない。


   ◇


 王太子ジークベルトは、廃嫡された。


 禁鍵律違反46件。王家の秘宝の無断使用。封を解いたのは、先代刻守の弟にあたる分家の男で、王太子から領地と爵位を約束されていた。男は逮捕され、王太子は北の離宮へ送られた。生涯、王都に戻ることは許されない。


 庭師の一件は、証拠が足りず立件されなかった。わたくしは、それでいいと思っている。あの老人の名が「王太子の殺した人間」として記録に残るより、「東の回廊の薔薇を50年世話した人間」として残るほうがいい。わたくしは自分の記憶のほうを選んだ。


 ミリアム・ホルベック嬢は、領地へ帰っていった。出立の前に、一度だけ屋敷を訪ねてきている。


「わたくし、あの方を好きだったのかどうか、もうわかりませんの」


 そう言って泣いた。


「初めて言われたと思っていた言葉が、47回目だったのだと知ってしまうと。……何が本当だったのか、わからなくて」


 わたくしは、何も言えなかった。ただ、茶を注いだ。


 この娘も、わたくしと同じものを取られたのだと思う。取られたものの名前が違うだけで。


 王位は第二王子アロイス殿下に移った。まだ15。わたくしとの縁組の話が一度出たが、陛下ご自身が止めてくださった。「この娘は、もう十分に王家に貸しがある」というのが理由だったと聞いている。


 刻守の家は、役目を失った。


 鍵がないのだから、見張るものがない。爵位は残ったが、王城の中に我が家の席はもうない。父は少し寂しそうにしているけれど、夜はよく眠っているらしい。


 わたくしは、今年20になった。


 髪の白いものは消えた。階段は三階まで一息で上がれる。ヨハンナが詰めたドレスを、また元の丈に戻している。


 先日、刻の塔へ行った。


 環輪は、法廷から塔へ戻されていた。49本の刻みは、そのまま残っている。消えない、と律にある通りに。


 ヘルフリート老が、杖をついて出迎えてくれた。


「お嬢様。五度目でございますな」


「……ええ。五度目ですわ」


 四度は、覚えていない。


 覚えていない四度の自分が、この部屋で何を思ったのかを、わたくしは時々考える。たぶん怖かったのだろうと思う。相手は王太子で、証拠は石の刻みだけで、味方は誰もいなくて。三度、言いかけてやめた。


 四度目のわたくしが、なぜ書けたのかは、わからない。


 ただひとつ言えるのは、あの四度目のわたくしは、自分が勝つところを見ていないということだ。書いて、塔を出て、その夜に記憶ごと巻き戻された。彼女は結末を知らないまま、何も知らない朝を迎えている。


 それでも、手続きだけが残った。


 記憶は消える。人は忘れる。時は戻る。


 けれど、あの日、環輪の前で書いた名前は、時の外に残っていた。


 わたくしは黒い石に手を触れて、49本の刻みを、指で順に辿った。


 49本目の刻みは、他のどれよりも深い。


 この一本が、わたくしの最後の一年を持っていった刻みだ。そして、この一本のおかげで、わたくしは49回目の今日を、初めて明日に繋げた。


 塔の階段を上がる。78段。息は切れない。


 外へ出ると、東の回廊に薔薇が咲いていた。庭師のいない薔薇は、去年より少しだけ形が崩れている。


 わたくしは、その前でしばらく立っていた。


 ――来年は、自分で剪定しよう。


 そう思えることが、今のわたくしには、どんな爵位よりも贅沢だった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!

ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に応援していただけますと励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。