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特に被害がある訳ではありませんが公害に間接的に関与する話題のためご注意ください。
今回と次回は金属系、次々回は核関係があります。
秋の重く湿った霧が、底の見えない谷から這い上がっていた。
「おい、降りな。二度と御免だね、こんな呪われた崖の上は」
御者が吐き捨てると同時に、ヘンリは粘土質の赤土へ足を下ろした。革靴がずるりと泥に沈む。背後で、財務局から持ち出した事務用トランクと、赤錆びた測量器が容赦なく泥濘へと放り投げられた。鞭の音と馬のいななきが響き、馬車は逃げるように去っていく。崖肌に反響する車輪の音が途絶えると、あとは不気味に鳴り響く谷風の音だけが残された。
廃坑「レインボー・アビス(虹の深淵)」。それが、王国がヘンリに押し付けた新しい職場であり、体裁だけの戦後処理のための「死地」だった。
周囲を見渡せば、旧大戦時に破壊されて黒く焦げた兵站倉庫の残骸が晒され、宙吊りになった鉱山鉄道のレールが赤錆びた骨組みを虚空に伸ばしている。鼻を突くのは、鉱山排水から漂う硫黄と酸性のツンとした匂いだ。
ヘンリは傾いた管理人宿舎へ入り、トランクから古い地形図と鉱山採掘図を広げた。前職の財務局で掴んでいた極秘書類を並べ、冷徹な事実を照合していく。
――この地は、大戦後の国境画定交渉において、法的にどの国にも属さない「帰属未確定地」のまま放置されている。
ヘンリは帳簿の余白に、インクで素早く計算式を書き込んだ。
次の戦争が始まれば、王国軍は間違いなくこの要衝を前線兵站基地として強行接収する。そうなれば、管理人であるヘンリは真っ先に強制徴用され、弾除けとして使い潰される。生存確率はゼロだ。
「生き残るための防壁がいる。それも、軍の暴力が一切通用しない社会的な盾が」
ヘンリはランタンに火を灯し、管理人小屋の裏手にある「第三坑道」へと足を踏み入れた。
一歩入れば、地盤沈下の激しい暗闇だ。足元には有毒な強酸性の水が溜まり、天井からはいつ崩落するかもわからない粘土質の土塊が迫っている。この場所は、魔法で浄化された楽園などではない。大戦時の遺棄物質が堆積する、触れれば死ぬ「汚染地帯」そのものだった。
しかし、ヘンリの目は爛々と輝いていた。奥深くの崩落エリアの隙間に、大戦時に放棄された「結晶火薬のドラム缶」と、その漏洩物質によって青白く光る「魔導触媒鉱石」の鉱脈を発見したからだ。
完全に綺麗にすることは不可能だ。だが、歩ける道と宿の周囲だけを最低限固め、「そこから出たら確実に死ぬ危険」を維持し続ければどうなるか。
下手に軍が駐留すれば、兵士たちは有毒ガスと地盤沈下で自滅する。そして、この危険な毒の池を「神秘の七色湖」と呼び変え、他国の有力者を「招待」して滞在させたら――軍は外交的スキャンダルを恐れて指一本動かせなくなる。軍をハメるための劇薬は、すでにここにある。
ヘンリが泥まみれになりながら坑道を出た、その瞬間だった。
背後の影から、泥に汚れた麻布を纏った小柄な影が飛び出した。冷たい鉄の感触が、ヘンリの喉元に突きつけられる。建物の解体で出た、尖った鉄筋の破片だ。
「動くな、街の小綺麗な役人。ここから出ていけ。さもなきゃ、ここで足を踏み外して谷底に落ちたことにする」
声の主はアデルだった。周囲の瓦礫の陰からも、戦災孤児たちの濁った目がヘンリを包囲している。彼らは大戦後、この険しい崖の裏道を使って他国へ密書や闇荷物を届ける「闇の配達人」として、かろうじて生存の縄張りを維持していた。
ヘンリは喉元に鉄を突きつけられたまま、両手も上げず、懐から王国の財務局の書類を取り出してアデルの足元に落とした。アデルが文字を読めないことなど、その警戒に満ちた平坦な視線で察しがついている。ヘンリは書類の末尾にある、真っ赤な王国の公印を指差した。
「俺を殺してここを无法地帯のままにしてみろ。次の戦が始まった瞬間、王国軍がこの要衝を踏み潰しに来る。お前たちの隠れ家も、配達ルートも、すべて灰になるぞ」
アデルの眉がぴくりと動いた。ヘンリの言葉に、安易な綺麗事の余地は一切なかった。
「俺は死にたくない。だからここを『他国の軍人や貴族が常時滞在する観光地』にする。あの酸性の毒池は『効能豊かな秘境の温泉』だ。客が一人でも滞在している限り、王国軍は外交問題をおそれて手を出せない。お前たちの縄張りも、観光客という目隠しの裏に隠せる」
「……アタシたちを、王国の犬の口減らしに利用する気か」
「利用し合うんだよ。お前たちには表では宿の給仕を、裏ではこの崖のルートを使った『資源の回収と輸送』を頼みたい。対価として、毎日の乾燥肉と小麦粉、そして軍から隠れるための合法的な籍を保証する」
ヘンリはトランクから別の分厚い帳簿を開き、アデルの前に置いた。すでに最初の支給分としての食料の分量が、冷徹な事実として書き込まれている。ヘンリは自身の指に泥をつけ、受領欄の横に押し付けた。
「これは共犯の記録だ。俺を通報すれば、お前たちも『国家資源の横領罪』で全員処刑される。王国はお前たち孤児を人間とは数えないが、書類に捺された指印は裏切らない。選べ」
アデルはヘンリの喉元から鉄筋をゆっくりと引き剥がした。彼女はヘンリの顔をじっと見つめた後、自身の泥だらけの親指を、ヘンリの指印のすぐ隣へと強く押し付けた。粘土質の赤土が、白無地の紙に黒赤く滲む。
「……明日、肉が届かなかったら、あんたの死体を本物の観光名所にしてやる」
「約束は帳簿の通りだ」
ヘンリは立ち上がり、汚れた衣服を払った。
夜の闇がアビスを包み込んでいく。ヘンリの頭脳はすでに、翌朝から始まる「二重帳簿」の構築へ向かっていた。
隣国の英雄であるオズワルド将軍には、「部下たちの無名慰霊碑の建立」という名目で、この地に最高の敬意とともに滞在してもらう。彼ら客人には、この地が触れれば死ぬ汚染地帯であることは一切隠し通す。
そして、王国軍のバルト少佐がこの地を奪いに来たその瞬間――ヘンリはこのスーパーファンドサイトの「爆発リスクと管理責任」という最悪の劇薬を公文書と共に突きつけ、軍のキャリアごとハメ殺すのだ。
武力はゼロ。だが、ヘンリは静かに確信していた。この毒に満ちた世界のルールと非対称な情報こそが、自分たちの命を繋ぐ最強の盾になるのだと。
という訳で解説してきましょ。
スーパーファンドサイト:モンタナ州バークレービット
1マイル×ハーフマイル×ハーフマイルちょっと下回るくらいのデカい湖で、これが赤になったりエメラルドグリーンになったりするのです。酸性雨、硫酸、カドミウムにヒ素と色んなものが混じりあったのがこの湖な訳です。ちなみに汚染地帯なのに結構観光客がいる。
イオンモールみたいな駐車場比率なことは気にしなくてもいい。




