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契約結婚のはずですが、冷血旦那様が毎日『本日のご褒美』を要求してきます

作者: キュラス
掲載日:2026/06/15

私、エルサ・ヴァン・ドレン伯爵令嬢は、本日をもって『氷の公爵』と呼ばれるクロード・フォン・ルーフェン公爵の妻となった。

……あくまで、契約上の、だが。


王都の中心から少し離れた、静寂に包まれた広大な敷地に建つルーフェン公爵邸。その一室で、私は鏡に映る自分の姿をぼんやりと見つめていた。

豪奢なレースがあしらわれた純白のナイトガウンは、最高級のシルクで設えられており、肌に触れるたびに滑らかな感触を伝えてくる。しかし、私の心はシルクのようには滑らかではなく、むしろザラザラとした不安でいっぱいだった。


事の始まりは一ヶ月前。

父であるヴァン・ドレン伯爵が手を出した新規事業が頓挫し、我が家は莫大な借金を抱えることになった。由緒正しき血統だけが取り柄の我が家は、屋敷を手放し、路頭に迷う一歩手前まで追い詰められていた。

そんな時、救いの手を差し伸べてきたのが、王国の筆頭公爵であり、若くして莫大な富と権力を握るクロード様だった。


『あなたの借金を全て肩代わりしましょう。その代わり、ご令嬢を私の妻として迎え入れたい』


使者を通じて突きつけられたのは、あまりにも唐突で、そして現実離れした提案だった。

社交界の華と持て囃されるような令嬢ならいざ知らず、私は目立つことが苦手で、図書室で本を読んでいる方が好きな地味な女だ。なぜ私なのか。疑問は尽きなかったが、父の青ざめた顔を見れば、私に拒否権がないことなど明白だった。


顔合わせの日、クロード様は噂通りの恐ろしく整った、そして恐ろしく冷たい顔つきで私に一枚の羊皮紙を差し出した。


『これは契約結婚です。期間は三年。あなたには公爵夫人として社交界で完璧に振る舞い、私の妻としての体裁を保ってもらう。三年後には離縁し、十分な慰謝料と一生遊んで暮らせるだけの年金を約束しましょう。もちろん、互いのプライベートには干渉しない。……私からあなたを愛することはありません。あなたも、私に愛を求めないでいただきたい』


氷のように冷たい声音で告げられたその言葉に、私は安堵した。

愛のない政略結婚など、貴族の間では珍しくもない。むしろ、最初から「愛さない」と明言してくれた方が、余計な期待を抱かずに済むし、気が楽だったからだ。

私はその場で契約書にサインをした。


そして今日、教会で神父様と数人の証人だけを前にした簡素な誓いの儀式を終え、私はこの屋敷にやってきたのである。


「愛さない、か……。まあ、当然よね」


鏡に向かって小さく呟き、私はふうっと息を吐き出した。

クロード様は完璧な美丈夫だ。銀糸のような美しい髪に、氷河を思わせる鋭くも透明なアイスブルーの瞳。高身長で鍛え上げられた体躯を持ち、おまけに王国の財政を牛耳る辣腕の持ち主。彼がその気になれば、国中の令嬢が足元にひれ伏すだろう。私のような没落寸前の伯爵令嬢など、単なる『飾り』として手頃だったに違いない。


契約書には「寝室は別とする」という条項があった。

だから私は今、公爵邸の東翼にある広々とした客室(今日から私の私室となる部屋だ)で、一人静かに初夜を過ごしているのだ。

明日の朝食で彼に会うまでに、公爵夫人としての心構えを作っておかなければ。そう思いながらベッドに入ろうとした、その時だった。


コンコン、コン。


静まり返った部屋に、控えめだが規則正しいノックの音が響いた。


「……はい?」

「私だ。クロードだ」


ドア越しに聞こえた低く冷たい声に、私はビクッと肩を震わせた。

なぜ、彼がここに? 寝室は別のはずでは? 何か契約違反をしてしまっただろうか。それとも、やっぱりこの結婚は白紙にすると言いに来たのだろうか。


「ど、どうぞ。鍵は開いております」


慌ててガウンの襟元を掻き合わせながら答えると、静かにドアが開いた。

そこには、昼間の隙のない礼服姿ではなく、少し着崩したシャツとスラックスという、ラフな出で立ちのクロード様が立っていた。銀色の髪は少し乱れ、その冷たい美貌には、隠しきれない疲労の色が滲んでいるように見えた。


「夜分遅くにすまない。少し、いいだろうか」

「はい。もちろんでございます」


私は緊張のあまり直立不動で彼を迎え入れた。

クロード様は部屋の中央まで歩み寄ると、私の目の前で立ち止まった。見上げると、アイスブルーの瞳が私をじっと見下ろしている。やはり恐ろしいほどに整った顔だ。


「実は、契約内容について、一つ追加したい条項がある」

「追加、ですか?」


私は身構えた。やはり、何か厳しい条件を突きつけられるのだろうか。例えば、毎朝五時に起きて屋敷の掃除をしろとか、あるいは、さらに過酷な労働を要求されるとか。


クロード様は一つ小さく咳払いをした後、真剣な、しかしどこか固い表情のまま口を開いた。


「私は多忙だ。王国の財政管理に加え、領地の経営、さらには無能な貴族たちの相手など、日々莫大なストレスに晒されている。この激務を効率よくこなし、健康な精神状態を保つためには、適度な癒し……すなわち『報酬』が必要だと結論付けた」

「はあ……」

「そこで、妻である君には、毎日私に『本日のご褒美』を与える義務を課すことにした。これが追加条項だ」


ご褒美?

私は目を白黒させた。氷の公爵様が、私からご褒美をもらう?

一体何を要求されるのだろう。高価な品物など、借金まみれの私には買えない。珍しい料理を作れと言われても、私の料理の腕は人並み程度だ。まさか、その、そういう身体的な……いや、彼に限ってそれはないはずだ。愛さないと言っていたのだから。


「あの……私にできることでしょうか?」

「君にしかできないことだ。というより、君がやらなければ意味がない」


クロード様はそう言うと、ふっと息を吐き、無造作に両腕を広げた。


「本日のご褒美だ。私を、抱きしめなさい」

「…………はい?」

「聞こえなかったのか? 私を抱きしめて、背中をポンポンと叩くんだ。時間は六十秒。それが今日のご褒美だ」


冗談を言っているような顔ではなかった。相変わらずの無表情、声のトーンも書類を読み上げている時のように平坦だ。しかし、広げられた両腕はどう見てもハグを要求している。


「あ、あの、クロード様? 契約では、互いのプライベートには干渉しないと……」

「これは契約に基づく義務だと言っている。さあ、早く。私の貴重な睡眠時間が削られていく」


急かされ、私は恐る恐る彼に近づいた。

本当にいいのだろうか。こんなに背が高く、威圧感のある男性を抱きしめるなど、生まれて初めての経験だ。私はそっと腕を伸ばし、彼の大きな背中に腕を回した。

シルクのシャツ越しに、彼のがっしりとした筋肉と、驚くほど高い体温が伝わってくる。


「……背中を、叩くんだ」

「あ、はいっ」


耳元で低く囁かれ、私は慌てて彼の手引き通りに、大きな背中を一定のリズムでポンポンと叩き始めた。


(な、なんなのこの状況……!)


私は彼の胸元にすっぽりと収まる形になっており、顔のすぐ横には彼の首筋があった。ほのかに香る、爽やかなミントと男性らしい香水の匂い。心臓が早鐘のように鳴り始める。

対するクロード様はというと、私の肩にコツンと顎を乗せ、大きく深呼吸をしているようだった。なんだか、大きな大型犬が甘えているように見えなくもない。いや、相手はあの『氷の公爵』だ。そんなわけがない。


「……三十、三十一、三十二……」


私が律儀に秒数を数えていると、不意に耳元でくぐもった声が聞こえた。


「数えなくていい。私がいいと言うまで、そのままにしておけ」

「えっ、でも六十秒と……」

「うるさい。少し黙っていろ」


冷たい言葉とは裏腹に、私を包み込む彼の腕の力が、ぎゅっと強くなった。

逃げ出すこともできず、私はただひたすらに彼の背中をポンポンと叩き続けた。緊張で体がガチガチになっていたが、しばらくすると、クロード様の張り詰めていた空気が少しずつ柔らかく解けていくのがわかった。

規則正しい寝息のようなものが聞こえ始めた頃、ようやく彼は私から体を離した。


「……悪くない」


クロード様は相変わらずの無表情だったが、部屋に入ってきた時の疲労感はどこかへ消え去り、少しだけ目元がスッキリしているように見えた。


「本日のご褒美、確かに受け取った。明日の分は、また明日の夜に要求しに来る。覚悟しておくように」

「あ、明日もですか!?」

「毎日だと言ったはずだ。では、おやすみ、エルサ」


私が何か言い返す前に、クロード様は身を翻し、足早に私の部屋を出て行ってしまった。

パタン、とドアが閉まる音が部屋に響く。


「……一体、何が起きたの?」


残された私は、彼から移った体温で熱くなった自分の頬を両手で押さえながら、その場にへたり込んでしまった。

愛のない契約結婚。氷のように冷たい旦那様。

そう思っていたのに、初日から予想外の展開すぎる。


*****


翌朝。

私が食堂に向かうと、すでにクロード様は長いダイニングテーブルの長座に座り、優雅にコーヒーを飲みながら朝刊に目を通していた。

完璧にセットされた銀髪。隙のない仕立ての良いスーツ。漂う近寄りがたいオーラ。昨日私を抱きしめてきた男と同一人物とは到底思えない。


「おはようございます、旦那様」


私が緊張気味に挨拶をすると、彼は新聞から冷たいアイスブルーの瞳を向けた。


「おはよう、エルサ。昨夜はよく眠れたか?」

「は、はい。おかげさまで……」

「それは良かった。今日から君には屋敷の女主人としての業務を引き継いでもらう。執事のセバスチャンに指示を出してあるから、彼から説明を受けてくれ。私は夕方まで執務室に籠もる。昼食は不要だ」

「承知いたしました」


まるで部下に仕事の指示を出すような事務的な口調。

やはり昨日のアレは夢だったのではないか。いや、もしかしたら本当にただの『効率化のための手段』で、彼にとってはマッサージか何かを受けるのと同じ感覚なのかもしれない。そう思い直すことで、私はどうにか自分を納得させた。


その日一日、私はセバスチャンから屋敷の管理に関する膨大な資料を引き継ぎ、使用人たちとの顔合わせを行った。幸い、実家でも似たようなことはやっていたため、業務自体はそこまで苦にならなかった。

ただ、使用人たちが私に向ける視線は、どこか同情的だった。


『可哀想に。あの氷の公爵様に嫁がされるなんて』

『三年後には捨てられるんでしょ?』


そんな声なき声が聞こえてくるようだったが、私は気にしないように努めた。私には私の役割がある。三年間、この屋敷をしっかり守り抜いて、無事に慰謝料をもらって円満離婚するのだ。


そして、夜。

私が寝室で読書をしていると、再びあの時間がやってきた。


コンコン、コン。


「……開いています」


私が答えると、ドアが開き、昨日と同じように少し着崩したラフな格好のクロード様が入ってきた。手にはなぜか、厚手のクッションが一つ握られている。


「今日も一日ご苦労だった、エルサ」

「旦那様も、お疲れ様でございました。あの、そのクッションは……?」


私が恐る恐る尋ねると、クロード様は無表情のままスタスタと私のベッドの縁に腰掛け、自分の膝の上にそのクッションを置いた。


「本日のご褒美の時間だ。ここへ来なさい」

「はい……今日は、何をすれば?」

「昨日は私が君を抱きしめた。今日は、君が私に膝枕をしなさい」

「……はい?」


私は自分の耳を疑った。

膝枕? 氷の公爵様が? 私に?


「早くしろ。私の首と肩は限界を突破している。良質な睡眠を得るためには、このガチガチに凝り固まった筋肉を癒す必要があるんだ」

「は、はあ……でも、それなら専門のマッサージ師を呼んだ方が……」

「他人に無防備な姿を晒す気はない。君は妻だろう。契約上の義務を果たせ」


論理的(?)に詰め寄られ、私は反論を諦めた。

彼の指示に従い、私はベッドに浅く腰掛けた。クロード様は立ち上がり、私が座ったすぐ横に体を横たえると、全くためらうことなく私の膝の上にコロンと頭を乗せたのだ。


「ひっ……」


あまりの無防備さと、重厚な大人の男性の頭が自分の太ももに乗っているという事実に、私は変な声を出してしまった。


「……少し、硬いな。まあいい。私の髪を撫でろ」

「か、髪を、ですか?」

「そうだ。優しく、ゆっくりとな。それから、本でも読んで聞かせてくれ。声のトーンは低めで、ゆっくりとしたテンポがいい」


要求が多い!

心の中でツッコミを入れつつも、私は震える手を伸ばし、彼の美しい銀髪にそっと触れた。

見た目通り、いや見た目以上にサラサラとしていて、指通りが良い。絹糸を撫でているような感覚だった。


「……ん」


私が何度か頭を撫でると、クロード様は気持ちよさそうに目を閉じ、小さく喉を鳴らした。

(あれ? もしかして、本当にただ疲れているだけなのかな……)


私は彼のリクエスト通り、手元にあった恋愛小説を、できるだけ静かな声で朗読し始めた。

膝の上から伝わってくる彼の体温。私の手から彼の髪へと伝わる感触。静かな部屋に響く私の声と、彼の規則正しい呼吸音。

昼間の冷酷無比な公爵様からは想像もつかないほど、今の彼は穏やかで、そしてどこか幼い子供のように見えた。


十分ほど朗読を続けた頃だろうか。

完全に眠ってしまったのかと思い、そっと本を閉じようとした時、不意に彼の手が伸びてきて、私の空いている方の手をぎゅっと握った。


「……クロード、様?」

「…………どこにも、行くな」


寝言のように呟かれたその声は、昼間の冷たい声とは全く違う、ひどく切なげで、か細い声だった。


私は驚いて彼を見下ろしたが、クロード様は目を閉じたまま、私の手をしっかりと握りしめている。

その手の力強さと、言葉に込められた熱に、私はどうしていいかわからず、ただ呆然とするしかなかった。


契約結婚のはずだ。愛さないと言われたのだ。

なのに、どうしてこんなにも、心が揺さぶられてしまうのだろう。

私は小さくため息をつきながら、彼が満足するまで、その美しい銀髪を撫で続けた。


こうして、氷の旦那様による、予測不能な毎日の『ご褒美』要求生活が幕を開けたのである。


*****


それから一ヶ月。

私とクロード様の奇妙な結婚生活は、予想外の形で日常化しつつあった。


『本日のご褒美』。

それは文字通り、毎日欠かさず実行されている。

ある日は「十分間のハグ」、ある日は「膝枕での耳かき」、またある日は「私が淹れたホットミルクを、私がフーフーと冷ましてから彼に飲ませる」といった具合だ。

最初は氷の公爵様のあまりの変貌ぶりに心臓が止まるかと思ったが、人間の適応能力というものは恐ろしい。今では、夜になると「今日はどんな要求が来るのだろう」と、少しだけ楽しみにしている自分がいることに気づいてしまった。


「……ん。もう少し右だ、エルサ」

「はい、旦那様。この辺りですか?」

「あぁ、そこだ。……悪くない」


今日の『ご褒美』は、執務室のソファでのヘッドスパ(素人)である。

私の太ももに頭を乗せ、目を閉じているクロード様の顔は、すっかり無防備なものになっていた。私が指の腹でゆっくりと彼の頭皮を揉みほぐすと、彼は喉の奥で猫のように満足げな音を鳴らす。


「最近、旦那様はお顔の色がとても良くなられましたね」


私がふとそうこぼすと、クロード様は目を閉じたままフッと薄く笑った。


「有能な『専属セラピスト』のおかげだ。以前は不眠に悩まされていたが、最近は泥のように眠れる。おかげで執務の効率が三割増しだ。無能な大臣どもの尻拭いも、幾分か寛大な心で処理できている」

「それは……王国のためにも重畳でございますね」


(つまり、私は王国の平和に貢献しているということよね……?)

なんだかスケールの大きな話になってきた。

しかし、彼がリラックスしてくれているのは事実のようだ。屋敷の使用人たちも、最近のクロード様が以前ほどピリピリしていないことに気づき始めている。その証拠に、私に対する使用人たちの視線が、同情から『猛獣使いを見るような尊敬の眼差し』へと変化しつつあった。


「そういえば、エルサ」

「はい」

「明後日、王城で開かれる王妃主催の茶会に、君の招待状が届いていたな」


ピタリと、私の手が止まる。

王妃様主催の茶会。それは、王国中の高位貴族の夫人や令嬢が集う、社交界の中心とも言える場所だ。もちろん、私も公爵夫人として参加の義務があるのだが、正直なところ気が重かった。


「……はい。準備は進めております。公爵夫人としての名折れにならぬよう、粗相のないように努めます」

「君は完璧だ、何も心配はいらない。……ただ、あの場は魑魅魍魎の巣窟だ。暇を持て余した貴族の女どもが、あることないこと噂話に花を咲かせる下劣な場でもある」


クロード様はゆっくりと目を開け、下から私を見上げた。そのアイスブルーの瞳には、かつての冷たさではなく、どこか気遣うような色が混じっているように見えた。


「もし、心無い言葉を投げかけられるようなことがあっても、決して一人で抱え込むな。君は私の妻だ。ルーフェン公爵家の名において、君を傷つける者は私が地の果てまで追い詰めて社会的に抹殺する」

「ま、抹殺!? 穏やかではありませんよ、旦那様!」

「私は本気だ」


冗談抜きで真顔だったため、私は慌てて彼の頭を撫でて落ち着かせた。

(愛のない契約結婚だと思っていたけれど、クロード様は本当に責任感が強くて、私のことも『身内』として大切に扱ってくださるのね……)

胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は明後日の茶会を何とか無事に乗り切ろうと固く決意したのだった。


*****


そして迎えた、茶会当日。

王城の美しく手入れされた薔薇園には、色とりどりのドレスに身を包んだ貴婦人たちが集い、優雅な音楽と甘い香水、そしてそれ以上に甘く毒々しい笑い声が渦巻いていた。


「まぁ、あの方が……」

「ヴァン・ドレン家の? 没落寸前だったと聞いておりますけれど」

「公爵様も物好きですわね。あのような地味な方を……きっと、哀れみで拾って差し上げたのよ」


扇の陰からチラチラと向けられる視線と、わざと聞こえるように囁かれる陰口。

想定内とはいえ、やはり気分の良いものではない。私は背筋を伸ばし、なるべく表情を崩さずに、用意された席で紅茶を啜っていた。愛想笑いを振りまく必要はない。クロード様から「公爵夫人として堂々としていろ」と言われているのだから。


「ごきげんよう、ルーフェン公爵夫人」


不意に、ひときわ華やかな声が頭上から降ってきた。

見上げると、燃えるような赤いドレスを着た、派手な顔立ちの令嬢が立っていた。彼女の周りには、取り巻きらしき令嬢たちが数人控えている。


「ごきげんよう。……ええと」

「申し遅れましたわ。私、マグノリア侯爵家の長女、カミラと申します」


カミラ様。その名には聞き覚えがあった。クロード様が結婚する前、最も有力な公爵夫人候補として名前が挙がっていたご令嬢だ。

彼女の目は、はっきりと私を値踏みし、そして見下していた。


「本日は公爵様はお見えではないのですね。お可哀想に。新婚の妻を一人でこのような場に放り出すなんて」

「旦那様は王国のために粉骨砕身しておられますから。私のような者の相手をしている暇などないのですわ」


私は当たり障りのない返事を返したが、カミラ様はふふっと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「ええ、存じておりますわ。公爵様が『愛のために』ご結婚されたわけではないということも。……噂では、三年で離縁する契約だとか?」

「……!」


なぜ、そのことを。契約の内容は、クロード様と私、そして証人しか知らないはず。いや、貴族社会の情報網を甘く見ていたのかもしれない。どこからか漏れたのだろう。

周囲の貴婦人たちも、カミラ様の言葉に耳をそばだて、好奇の目を私に向けている。


「公爵夫人という座は、あなたのような方が一時的に座っていいものではありませんわ。クロード様には、もっと相応しい、彼を支えることのできる家柄と美貌を持った女性が必要ですのよ。例えば……」

「例えば、君のような女だとでも言いたいのか?」


――その時。

凍りつくような、低く冷たい声が薔薇園に響き渡った。


その声に、カミラ様をはじめとする令嬢たちがビクッと肩を震わせ、一斉に声のした方へ振り返る。

私も驚いて目を丸くした。


「ク、クロード、様……?」


そこには、王宮騎士団の正装である漆黒の軍服に身を包み、銀色の髪を風に揺らすクロード様の姿があった。

本来なら今日は一日、王城の奥深くにある財務省の執務室から出てこないはずだったのに。

彼の放つ圧倒的な覇気と、氷河のように冷徹なアイスブルーの瞳に射抜かれ、カミラ様は顔からサッと血の気を引かせた。


「こ、公爵様! なぜこちらに……!?」

「私の妻が、どこぞの羽虫どもにたかられていると耳にしてな。駆除しに来た」

「は、羽虫……っ!?」


クロード様はカミラ様たちを一瞥すらせず、まっすぐに私のもとへと歩み寄ってきた。そして、誰もが息を呑んで見守る中、私の前に片膝をつき、私の右手を取ったのだ。


「遅くなってすまない、エルサ」

「だ、旦那様……お仕事は……」

「君が虐められているかもしれないと思ったら、仕事など手につかなかった。それに……君の顔を見ないと、私の精神が不安定になる」


堂々と、しかも大勢の貴族たちの前で、なんということを言い出すのだろう。

彼は私の手の甲に、恭しく、そして情熱的なキスを落とした。チュッ、という微かな音が静まり返った茶会に響き、私の顔は一気に沸騰したように熱くなった。


「ひゃっ……!」

「君はどうしてこんなにも愛らしいのだろうな。このような有象無象の女どもなど、君の足元にも及ばないというのに」

「く、クロード様っ、皆様の前で……!」


私が小さな声で抗議するが、クロード様は全く意に介さず、立ち上がって私の腰をグッと強く抱き寄せた。

そして、ようやくカミラ様たちの方へ鋭い視線を向けた。その目は、先ほど私に向けていた甘いものとは打って変わり、絶対零度の殺気を孕んでいた。


「マグノリア侯爵令嬢と言ったか。我が愛する妻を『一時的な座』と愚弄したこと、ルーフェン公爵家に対する明確な敵対行為と受け取って相違ないな?」

「ち、違いますわ! 私はただ、噂を……っ!」

「噂? 私がエルサを愛していないなどという、質の悪いデマを信じたのか? 愚かしい。私は彼女に一目惚れし、何としても手に入れたくて、彼女の家の借金を口実に無理やり嫁いでもらったのだ。手放すわけがないだろう」


……え?

今、なんとおっしゃいました?

一目惚れ? 無理やり?

契約結婚で、愛さないと言ったのは彼の方だったはずなのに。

私は混乱の極みに達したが、周囲の貴婦人たちはそれ以上に驚愕していた。あの『氷の公爵』が、一人の女性に溺れるあまり、職権を濫用してまで手に入れたと公言したのだから。


「マグノリア侯爵には、後で私から直々に『ご挨拶』に伺おう。首を洗って待っているよう伝えろ」

「ひっ……!」


カミラ様は恐怖のあまりへたり込み、取り巻きの令嬢たちも青ざめて震え上がっている。

クロード様はそれ以上彼女たちに構うことなく、私を抱き寄せたまま踵を返した。


「行くぞ、エルサ。こんな空気の悪い場所に長居することはない。王妃殿下には私から話をつけておく」

「あ、はい……っ」


私は為す術もなく、彼にエスコートされるまま薔薇園を後にした。

背後からは、ざわめきと共に「氷の公爵様が、あそこまで……」「なんて情熱的なの……」という、先ほどまでとは全く違う種類の囁き声が聞こえてきた。


*****


帰りの馬車の中。

ガタゴトと揺れる車内で、私は向かいの席に座るクロード様をじっと見つめていた。

彼はいつものように無表情で、窓の外を流れる景色を眺めている。


「……あの、クロード様」

「なんだ」

「先ほどは、助けていただきありがとうございました。ですが……その、あの嘘は、少しやりすぎでは……?」

「嘘?」


クロード様がピクリと眉を動かし、私を見た。


「ですから、一目惚れだとか、手放すわけがないだとか……。契約結婚であることを誤魔化すためとはいえ、あそこまで大げさに演じていただかなくても……」


私がそう言うと、クロード様は深くため息をつき、ドサリと私の隣の席に移動してきた。


「ひゃっ、だ、旦那様!?」

「エルサ。君は私が、あのような公衆の面前で、わざわざ事実無根の作り話をするような非合理的な男に見えるか?」

「え……?」


彼の顔が、すぐ近くまで迫る。

いつもは冷たいアイスブルーの瞳が、今は信じられないくらい熱っぽい色を帯びて、私を逃さぬように見つめていた。


「言ったはずだ。私は無駄が嫌いだと。……契約の時に『愛さない』と言ったのは、君が怯えて逃げ出さないようにするための、ただの方便だ。三年という期間を設けたのも、とりあえずの猶予期間を持たせるため。初めから、君を手放す気など毛頭ない」

「そ、そんな……どうして、私なんですか?」

「数年前の夜会で、壁の花になっていた君が、私の亡き母が好きだった本を愛おしそうに読んでいたのを見た時からだ。……君のその穏やかな空気に、どれだけ救われたか」


クロード様は私の頬にそっと手を添え、親指で優しく撫でた。

彼の耳の先が、微かに赤く染まっていることに気がついて、私の心臓はまたしても狂ったように跳ね始めた。


「さあ、エルサ。馬車の中だが、今日の『本日のご褒美』を要求する」

「きょ、今日は……何を……っ」


私が震える声で尋ねると、クロード様は極上の、本当に美しい微笑みを浮かべた。


「今日は特別だ。……君から、私にキスをしてくれ」


「き、キス、ですか……?」


ガタゴトと揺れる馬車の中で、私は真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。

これまで、ハグや膝枕、マッサージなど、様々な『ご褒美』を要求されてきたが、キスは初めてだ。いくらなんでも、ハードルが一気に上がりすぎではないだろうか。


「そうだ。嫌か?」


クロード様は私の反応を楽しむかのように、薄く笑みを浮かべている。そのアイスブルーの瞳は、私から一瞬たりとも逸らされない。逃げ場など、最初からどこにもなかったのだ。


「い、嫌というわけでは、ありませんが……その、恥ずかしいというか、心の準備が……」

「三年後の離縁を前提とした契約結婚の相手になら、キスはできない。そう言いたいのか?」

「っ、違います! 私は……」


私はギュッと目を閉じた。

そうだ。私はもう、この人をただの『契約上の夫』だなんて思っていない。

無表情の裏に隠された不器用な優しさも、毎日私に甘えてくる可愛らしい一面も、そして今日、大勢の前で私を守ってくれた底知れぬ愛情も。全てを知ってしまった今、私の胸の奥には、彼に対する確かな『熱』が宿っていた。


「……わかり、ました」


私は覆っていた手をゆっくりと下ろし、覚悟を決めて彼を見つめ返した。

クロード様の端正な顔が、すぐ目の前にある。私は震える両手を彼の肩にそっと乗せ、そっと目を閉じて、少し背伸びをした。

馬車が小さく揺れたタイミングで、私の唇が、彼の薄い唇に微かに触れた。


チュッ、という可愛らしい音が鳴る。

ほんの一瞬の、小鳥がついばむような触れ合い。


「……これで、よろしいでしょうか……?」


恐る恐る目を開けて上目遣いに尋ねると、クロード様は一瞬だけ呆けたような顔をした後、低く、甘い声で喉を鳴らして笑った。


「ふっ……くくっ。君という人は、本当に……」

「だ、旦那様?」

「足りないな。全くもって足りない。そんな子供の遊びのようなもので、私が満足するとでも?」


次の瞬間、私の腰に回されていた腕にグッと力が込められ、私の体は彼の広い胸の中に完全に閉じ込められた。


「ひゃっ……んっ!?」


重なる唇。先ほどの私の触れるだけのキスとは違う、大人の、そして圧倒的な熱量を持った口づけだった。

有無を言わさぬ強引さがありながらも、私を壊さないように慈しむような優しさも孕んでいる。息継ぎの隙すら与えられないほどの深い口づけに、私の頭はあっという間に真っ白になり、思考回路が完全にショートしてしまった。

馬車の揺れなのか、自分の心臓の音なのか、それすらも曖昧になっていく。ただ、彼から香る爽やかなミントの香りと、唇から伝わる熱だけが、私の世界を支配していた。


どれくらいそうしていただろうか。

ようやく彼が唇を離した時、私は酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、彼の胸に寄りかかることしかできなかった。


「はぁっ、はぁっ……く、クロード、様……」

「……愛している、エルサ。この命に代えても、君を愛し抜くと誓う」


熱を帯びた瞳で見つめられ、甘く囁かれる愛の言葉。

もう、契約だの、期限だのといった言い訳は通用しない。私はすっかり溶かされてしまった心で、彼に身を委ねるしかなかった。


*****


公爵邸に到着すると、クロード様は足元がおぼつかない私をひょいっと横抱きにし、そのまま屋敷の中へと足を踏み入れた。


「だ、旦那様! 歩けます、自分で歩けますから!」

「駄目だ。今の君の艶やかな顔を、使用人どもに見せるわけにはいかない」


出迎えてくれたセバスチャンやメイドたちが、驚きつつも生温かい笑みを浮かべて頭を下げる中、私は恥ずかしさのあまり彼の胸に顔を埋めることしかできなかった。


クロード様が向かったのは、私の部屋ではなく、彼自身の私室だった。

重厚なマホガニーの扉を開け、私をふかふかのソファに優しく降ろすと、彼はそのまま自身のデスクへと向かい、引き出しの中から一枚の羊皮紙を取り出した。

それは、一ヶ月前に私たちがサインを交わした、あの『契約書』だった。


「エルサ。見ていなさい」


クロード様は私の目の前で、その羊皮紙をビリビリと真っ二つに引き裂いた。

さらに細かく破き、最後は暖炉の火の中へと無造作に放り投げた。パチパチと音を立てて、私たちの契約結婚の証が燃え上がっていく。


「あ……」

「これで、三年という期限はなくなった。慰謝料も年金も支払わない。寝室を別にするという条項も、互いのプライベートに干渉しないという約束も、すべて白紙だ」


炎の光に照らされた彼の横顔は、かつての『氷の公爵』などではなく、ただ一人の女性を愛し、渇望する一人の男の顔だった。

彼は再び私のもとへ歩み寄ると、ソファに座る私の前に片膝をつき、私の両手をしっかりと握りしめた。


「改めて、申し込ませてくれ。エルサ・ヴァン・ドレン」

「はい……」

「どうか、私の本当の妻になってほしい。期限などない、生涯を共にする唯一の伴侶として、私と共に生きてはくれないか」


その言葉は、王国の筆頭公爵としての威厳に満ちたものではなく、ただ純粋に、私の答えを乞うような、少しだけ震えた声だった。

こんなにも完璧で、美しくて、権力を持っている人が、私のような平凡な娘に本気で恋い焦がれている。その事実が、たまらなく嬉しくて、胸がいっぱいになった。


「……私のような、地味で、取り柄のない女でもよろしいのですか?」

「君以外はあり得ない。君がいいのだ。私の冷え切った世界に、温かな光と、柔らかな時間を与えてくれたのは、他の誰でもない、君なのだから」

「クロード様……」


私は込み上げてくる涙を堪えきれず、ポロポロとこぼしながら、彼の手を強く握り返した。


「私でよければ……喜んで。クロード様と共に、生きていきたいです」


その瞬間、クロード様の顔に、今まで見たこともないような、パッと花が咲いたような眩しい笑顔が浮かんだ。氷が溶け、春が訪れたかのような、とびきり甘く、美しい笑顔。


「あぁ……ありがとう、私の愛しいエルサ」


彼は立ち上がり、私を力強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。

私も彼の背中に腕を回し、その広い背中を、トントンと優しく叩いた。

一番最初の『ご褒美』の日のように。でも、あの時とは全く違う、深い愛情と安らぎを込めて。


*****


それから、半年後。

王都には、冬の訪れを告げる冷たい風が吹き始めていたが、ルーフェン公爵邸の中は、常に春のような温かな空気に包まれていた。


「……ん。エルサ、どこへ行く」

「おはようございます、クロード様。そろそろ起きる時間ですよ。朝食の準備を……」

「駄目だ。まだ私の腕の中にいろ」


朝の陽光が差し込む広いベッドルーム。

私は、後ろからクロード様の逞しい腕にがっちりとホールドされ、身動きが取れずにいた。

契約書を燃やしたあの日から、私の部屋は完全に物置と化し、私はクロード様の寝室で毎晩を共にしている。


「クロード様、今日は午前中から財務省での会議があるのでは?」

「そんなもの、無能な副官に任せておけばいい。私にとって、君の温もりを摂取することの方が、国家の予算より重要だ」

「またそんな無茶苦茶なことをおっしゃって……」


私が苦笑しながら彼の腕を解こうとすると、クロード様は私の首筋に顔を埋め、すりすりと猫のようにすり寄ってきた。


「さあ、エルサ。『朝のご褒美』の時間だ。私にキスをしてくれ」


そう。

彼のご褒美要求は、あの夜を境になくなるどころか、激化の一途を辿っていた。

今では『本日のご褒美』ではなく、『朝のご褒美』『昼のご褒美』『夜のご褒美』、さらには『おやつの時間のご褒美』まで要求してくる始末だ。

すっかり甘えん坊(しかも独占欲強め)と化した旦那様に、私は毎日振り回されっぱなしである。


「もう……一度だけですよ」


私が諦めて振り返り、彼の唇に軽くキスを落とすと、クロード様は満足そうに目を細め、私のおでこ、鼻先、そして再び唇へと、何度も何度も雨を降らせるようにキスのお返しをしてきた。


「んっ……クロード様、くすぐったい……」

「君が可愛すぎるのがいけない。ああ、本当に、仕事など行きたくないな。君をこのままベッドに縛り付けて、一日中愛でていたい」

「公爵様がそんなだらしないことでどうするのですか! ほら、起きてください!」


私が頬を膨らませて抗議すると、クロード様は「ははっ」と声を上げて笑い、ようやく体を起こした。


冷酷無比な『氷の公爵』と呼ばれた旦那様。

愛のない契約結婚から始まった私たちの関係は、今や王国一の『おしどり夫婦(旦那様の溺愛強め)』として社交界に名を轟かせている。

あの茶会での騒動以来、私を見下すような貴族は一人もいなくなり、誰もが私にすり寄ってくるようになったのは、少しばかり面倒ではあるけれど。


「エルサ。今日も一日、愛しているよ」


朝日を浴びてキラキラと輝く銀髪と、私への愛に満ちたアイスブルーの瞳。

私を真っ直ぐに見つめて微笑むこの最愛の人と、私はこれからもずっと、甘く、騒がしく、そして幸せな日々を重ねていくのだろう。


「私も、愛しています。旦那様」


私は極上の笑顔でそう返し、彼と共に新しい一日を歩み始めた。

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