不可逆
ホテルの部屋で三剣は窓を開け、煙草に火を点けた。
夜の空気が流れ込み、街の灯りが揺れる。
「……遅いな」
その瞬間、背後でドアが音もなく閉まる。振り向かずとも分かる。七条龍二がそこに立っているのだ。
「鍵、かけた筈だけど」
煙を吐きながら言う三剣に、七条は答えず、ゆっくりと近付いてくる。靴音が床に静かに響く。
「龍二」三剣は振り向き、眉をわずかに上げる。「……怖い顔してるな」
七条の目は冷たい。怒りではない。
静かで濃密な執着、相手を守りたいという衝動が、瞳の奥でうごめく。
「消えたな」
「仕事だよ」
「連絡断った」
「わざと」
七条の目が細くなる。
「試したのか」
「まあな」
三剣は煙草を灰皿に押しつける。
七条は一歩近付き、距離を縮める。その動きは支配ではなく、心理の接近戦だった。
相手の反応を確かめ、信頼と反抗の境界線を測る為の、精密な距離の調整。
「龍之介」
七条が呼ぶ。
「何?」
「もう一度消えたら」静かな声だった。「足を折る」
三剣は思わず吹き出す。
「物騒だな」
七条はポケットからナイフを取り出す。
細く鋭い刃が光を反射する。三剣の眉がわずかに動く。
「……おい……冗談だろ」
七条は近付き、三剣の顎を掴む。逃げようともせず、静かに目を閉じた。
刃が動き、眉の中央から頬へ浅く、だが確実に赤い線が走る。
三剣は息を吸う。痛みが遅れてやって来る。だが声は上げず、唯七条を睨んだ。
七条はその顔を近くで見つめる。
狂気染みた静かな目。
指で血をなぞり、低く言った。
「これで……消えない」
三剣は聞き返す。
「……何が」
七条は答える。
「俺のモノ」
部屋の空気が止まった。
三剣は数秒黙る。
そして、ふっと笑った。
「……最悪だな」
七条の目が細くなる。
「嫌か」
三剣は服の袖で血を拭いながら答えた。
「嫌に決まってる」
七条は頬の血を指で拭う。
「誰が見ても分かる。お前は俺のものだ」
三剣はため息をつく。
「重い……狂ってる」
七条は言う。
「お前のせいだ」
空気が変わる。
三剣は七条の胸を軽く押す。
「でもさ……これ、消えないんだろ?」
「消えない」
三剣は頷き、七条を見やる。「じゃあ仕方ない。責任取れよ」
七条の目が暗く光る。
「どう取る?」
三剣は窓の外を指す。ネオンの街。危険な世界。
「最後まで付き合え」
七条は低く笑った。
「最初からそのつもりだ」
三剣はコートを羽織り、ドアへ向かい振り返る。
頬の傷がネオンに光る。
「龍二、次やるなら……もっと綺麗に切れ」
七条は笑った。
「注文多いな」
三剣はドアを開ける。夜の空気が流れ込む。
肩越しに言った。
「だって……君のモノなんだろ?」
その言葉に、七条の目が静かに狂った。
血の温もり、頬の赤い線。
それは二人の関係が、戻れない場所まで来た証であり、
支配でも従属でもない、互いを認め合う狂おしい瞬間の証でもあった。
二人の間には、力や主導権を押し付ける関係ではなく、自由と執着の均衡、そして互いを受け入れる強さが生まれていた。
夜の街に、二人だけの鼓動が重なり響く。
静かな狂気の中で、二人は互いに“刻印”を残したのだった。




