降ろされた膝
夜は静かに街を包んでいた。
三剣龍之介はホテルの窓を少しだけ開け、外の通りを見下ろしながら煙草を吸っていた。街灯の影の中に、黒いコートの男がじっと立っている。
三週間。最初は偶然の一致に過ぎなかった。次第に、追いかけられる感覚は監視に変わり、そして今──。
三剣は苦笑を浮かべる。「完全にストーカーだな」
だが恐怖はなかった。彼の目に映る七条の執着は、単なる暴力や支配ではなく、対象を守り抜く力として現れていた。危険を予感させるのに、同時に守られているという安心感もあった。
三剣はコートを羽織り、静かに部屋を出た。外に出ると、七条はすぐ隣に現れ、無言で歩みを合わせる。
「帰るのか」
当たり前のように、並んで歩く七条に、三剣は前を向いたまま問いかける。
「いつまで続けるつもりだ」
「何を?」
「それ」
七条は答えず、唯三剣の隣を歩き続けた。その沈黙には、命令も強制もない。だが存在だけで相手の心を揺さぶる、絶妙な力のやり取りがあった。
やがて三剣は立ち止まり、はっきりと向き合った。
「龍二」
七条は顔を下げてこちらを見る。
「重い」言葉にわずかな疲れを含ませながら、三剣は続けた。「重すぎる」
七条は低く笑った。
「そうか」
「うん」
「でも、やめない」
即答だった。
三剣はため息をつき、静かに尋ねる。
「理由は?」
七条は迷いなく答える。
「お前が他の男と話すと……気に入らない」少し間を置く。「触られると……殺したくなる」
三剣は眉を上げる。
「それ、病気だぞ」
「知ってる」
「治す気は?」
「ない」
暫く沈黙が続く。互いの立場を主張する言葉も、強制もない。心の奥では、二人の間にある力のやり取りが静かに燃えていた。
三剣は思案の末、慎重に口を開く。
「龍二」
七条は目を向ける。
「もし俺が……消えたら、どうする?」
七条の足が止まり、その目が一瞬で冷たく光る。
「探す」
「見付からなかったら?」
「世界中探す」
「それでも無理なら?」
沈黙。数秒後、七条は低くつぶやいた。
「壊れる」
冗談ではなかった。対象を想う心が、極限まで暴走している。
三剣は小さく息を吐いた。
「……やばいな」
七条が一歩近づく。
「逃げるのか」
「逃げるつもりはない」
「何故だ」
三剣は少し笑った。
「面倒だから」
七条は眉を寄せた。だが次の言葉で完全に足を止める。
「でもさ」三剣は静かに言う。「このままだと、俺……君の手から先に離れる」
空気が変わった。七条の目が鋭くなる。
「どういう意味だ」
「監禁される前に、自分から逃げる」
七条は黙る。図星だった。
三剣は更に続けた。
「龍二、今……、俺を閉じ込めようとしてる」
七条は否定せず、代わりに低く問いかける。
「嫌か」
「嫌だね」
沈黙。街の音だけが流れる。七条の拳がわずかに握られる。そして──膝をついた。
アスファルトの上で、三剣の前に跪いたのだ。通りすがりの人が振り向く程、異様な光景だった。
──Domが跪く光景は、この街でも滅多にない。
(普通ならありえない)三剣は目を見開いた。「……龍二?」
七条は顔を上げず、低くつぶやいた。
「逃げるな」
三剣は黙したまま見つめ返す。
命令でも強制でもなく、相手の意思で膝をつく。その瞬間に現れる信頼と執着の純度は、二人の関係を一層特別なものにしていた。
「閉じ込めない。だから──俺から離れるな」
三剣は暫く何も言わなかった。この男はDomでも殺し屋でもある。誰にも屈しない男が、今──自分の前で跪くのだ。
やがて三剣はそっとしゃがみ込み、七条の顎を持ち上げた。目が合う。
七条の瞳には、狂気にも似た執着が宿っていた。
三剣は小さく笑う。
「……本当に重いな」
額に軽く指を当てる。
「跪けるなら、まだ大丈夫」
七条は目を細める。
「逃げるつもりはないのか」
三剣は立ち上がりながら言った。
「当然だ」
七条は低く呟いた。
「普通なら逃げる」
三剣は歩き出す。振り返らずに、淡々と言った。
「跪いた男を、捨てる程冷たくはない」
七条はゆっくり立ち上がり、その顔には危険な程満足そうな笑みが浮かんでいた。
「……龍之介」
初めて本名で呼ぶ。
三剣は肩越しに言った。「後悔するな」そして続ける。「狂わせたのは、君だろう」
夜の街で、殺し屋は再び歩き出す。今度は──跪いた相手の隣を。




