雨の夜の出会い
夜の雨が、ネオンに濡れた街を滲ませていた。
バーの奥の席で、男は一人、グラスを指先で回している。黒いコートに包まれた整った顔立ち。その目は、獲物を狙う獣のように静かに光っていた。
七条龍二──いや、今夜の名前は九薙伊澄。
殺し屋としての仕事は既に終わっている。残っているのは、唯一つの厄介な問題だけだった。
カウンターの向こうで、別の男が穏やかに微笑んでいる。人当たりの良い笑顔。落ち着いた声。相手を安心させる仕草。
だが、その男もまた裏の世界の人間だった。詐欺師、三剣龍之介。そして今夜の名は、鹿島政宗。
七条はグラスを置き、低く呟いた。
「……また別の名前か」
三剣がちらりと振り向き、軽く肩を上げる。
「商売柄ね。君だって本名じゃないだろ」
「違う」
「ほらみろ」
三剣の笑みは媚びてはいない。相手の腹を読み切った者の、余裕ある表情だった。人を信用させる為の微笑でもある。その顔を見るたび、七条は思う──面白い。
普通の人間なら、とっくに逃げている。自分が何者なのか、三剣はすでに察している筈だ。それでも身を引かない。怖がるどころか平然としている。
七条は低く言った。
「……俺に近付くと、死ぬかもしれないぞ」
警告だった。
三剣は氷をグラスに落としながら応じる。
「脅し?」
「忠告だ」
「だったら余計なお世話だな」
振り返ったその目は、驚く程真っ直ぐだった。
「俺は俺の仕事をする。君は君の仕事をする。それだけだろ」
そう言って、三剣はグラスを差し出す。七条は手を伸ばさず、唯その顔を見つめる。身構えず、媚びず、利用する素振りも見せない。それでも、距離を置くこともない。
七条は小さく含み笑いをした。
「……お前、本当に詐欺師か?」
「失礼だな」
三剣は肩を軽く揺らす。
「人を見る目だけはあるつもりだ」
「俺は?」
「危険」
あまりにも即答だった。
「それでも?」
三剣はグラスを自分で煽る。
「危険な奴は嫌いじゃない」
その言葉に、七条の目が鋭くなる。最初は唯の興味だった。だが今は違う。この男が誰と話し、何処へ行き、誰に笑いかけるのか。全てが気になる。見逃したくない。
「……鹿島政宗」
七条が名を呼ぶと、三剣はふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「その名前、今夜だけな」
「じゃあ本名は?」
「教えない」
「ケチだな」
三剣は椅子から立ち、コートを羽織った。そして振り返る。
「九薙伊澄」
偽名を迷わず呼ぶ。
「もし俺を殺す気になったら──」七条はその先を待った。
三剣は静かに言った。
「その時はちゃんと来い。逃げたりしないから」
ドアが閉まり、雨音が戻る。七条は暫く黙っていた。やがて、低く笑いを漏らす。
「……面白い」
グラスを手に取り、ゆっくりと揺らす。
「本当に動じないんだな」
その目は既に決まっていた。動じないなら──逃がさない。
雨の夜、殺し屋は静かに立ち上がる。詐欺師を追う為に。その執着は、まだ始まったばかりだった。




