一人の騎士
夕方前、三剣は路地裏を通り、姫川零──神崎隼人が経営する煙草屋に向かっていた。
「龍二の煙草も買って帰ろうかな」
三剣はコートのポケットをまさぐる。ポケットにはナイフが入っているが、今は必要ない──それよりも、直感が警告を鳴らしていた。
店の奥で煙草を並べる神崎が、ちらりと三剣を見る。
「また外出?」
「煙草が切れてさ」
神崎は眉を寄せ、机の上の煙草に手を伸ばす。
「気を付けなよ」
「何を?」
神崎は煙草の箱を置き、口に出したくもない名前を挙げた。
「血の錬金術師・伊月修二」
三剣の肩が跳ねる。
「裏の連中の間で噂になってる」神崎はそのまま続ける。「あの男、有能な奴を壊すのが趣味らしい」
三剣は視線だけで受け流す。
「物騒な趣味だな」
神崎は真顔で言う。
「笑えないな。壊れた奴は二度と戻らない」
煙草屋を後にし、来た道を戻ろうとした直後、背後から口を押さえられ、両腕を取られる。そのまま男二人に押し込まれる。
抵抗する間もなくドアが閉まり、車は走り出す。
──まずい。
連れて行かれた先は、湿ったコンクリートの匂いが立ち込める殺し屋の事務所。
三剣は布で視界を奪われたまま、床に無造作に転がされる。腹に冷たいコンクリートの感触が伝わり、手首と足首に荒い縄が食い込む。うつ伏せのまま、両手を背に回され拘束されている。身じろぐだけで繊維が皮膚を擦った。
逃げられないことは直感で理解できた。古い鉄の錆びた臭気が鼻を突き、心拍が早まる。
この場所が人間をまともに扱う場所ではないことは、目を開く前から理解できた。
結び目を解かれないまま、雑に布が外される。
「はじめまして」
場違いなほど穏やかな顔で、そう言った。
男──伊月修二は椅子に深く腰掛け脚を組み、楽しげに三剣を見下ろす。
「人間ってのは面白いよな。壊し方で、別物になる。安心しろ。壊すのはお前じゃない。“今のお前”だ」
三剣は視線を逸らさず、内心で冷静に計算する。
ナイフには触れられない。今は拘束されている──それでも、指先に自然と力がこもる。
反抗の意思を、身体の隅々に宿らせる。伊月は三剣の様子を観察する。
「お前さ、自分で思ってるほど反抗的じゃねぇよ。唯──従い方を知らないだけだ」
三剣の眉間に皺が寄る。
「テメェに定義される筋合いねぇよ」
伊月は三剣の片方の肩を掴み、そのまま一気に床へ押し倒した。背中に強い衝撃が走る。
「ぐッ……!」
「こういうのは慣れてるだろ?」試すように呟く。
「でもな、“意味のない暴力”はどうだ?」
三剣は荒く呼吸を整えながらも、視線を逸らさない。
伊月は、指先で顎を持ち上げる。
そして、躊躇なく頬を殴る。一発。もう一発。
鋭い音が空気を切り裂く。だがすぐに手を止める。
「お前は耐える顔が似合わねぇ」
伊月はまるで汚れでも払うように、手を軽く振った。
静かに、愉悦が形を持つ。
「鹿島、お前は誰のSubだ?」
時間が、ひと拍止まる。
「九薙伊澄は——俺より上か?」
「……勝手に決めんな。俺の騎士は一人だ」
伊月の口元が歪む。
「いい顔だな。壊し甲斐がある」
そのまま三剣の肩に手が触れる。瞬間、三剣の体が反射的に硬直する。
「ほらな。口じゃ強がってるくせに、反応は正直だ。肩、逃げてるぞ」
三剣の呼吸が乱れる。
「それ、恐怖か?それとも——期待か?」
「……気持ち悪いんだよ、お前の声」声を無理に絞り出す。「それでも従うと思ったら——大間違いだ」
伊月は楽しげに観察するように視線を落とす。
「……選べ」声だけで、逃げ場が消える。「今ここで従うか、それとも──後で壊されるか」
三剣の喉が引きつる。
伊月は一歩、距離を詰める。声を落とし、静かに告げる。
「安心しろよ。折るのは骨だけにしといてやる」 伊月は三剣から視線を外さない。その目は獲物ではなく、“壊れ方”を測るように、じっと見ていた。
「中身まで壊したら、使えなくなるからな」
その言葉は、逃げ道のない現実を突きつけるものだった。
三剣の呼吸が、一瞬止まる。
「答えは、ひとつじゃねぇだろ?」
伊月は満足げに笑い、あえてそれ以上は踏み込まない。
中々家に帰って来ない三剣。電話に出られない状況から、七条は仕事中だろうと思い、その日は待った。
だが朝になっても三剣は帰らない。
「おかしい…」
七条の胸に嫌な記憶がよぎる──伊月修二。以前、煙草屋で神崎から聞いた名前だった。
──気をつけろよ、龍二。あの男は人を壊す。
裏社会の噂は半分冗談半分事実で、だが七条の感覚は鋭い。三剣は帰って来ない。
焦燥感と苛立ちが胸を締め上げ、君下に連絡を取る。
『政宗なら来てないけど。零は見た?』
『鹿島クンなら昨日来たよ。だけど──』
「早く教えろ」
外から倒れる音が何度もする。鈍い破壊音がドアに響く。七条龍二──九薙伊澄は血が滴るナイフを片手にドアを蹴破った。
伊月はゆっくり振り返り、七条に目をやる。
「おっと、早い到着だな。九薙サマ」
そして楽しげに三剣を見つめる。
「さて、どうする?従うか、それとも……」
咳き込む三剣は体を強張らせながら、目線だけで七条に合図を送る。
伊月は肩に触れ、指で叩いた。その瞬間、三剣の息が引っ掛かる。
「お前はな……反抗的だが、素直に面白い」
三剣は震える声で発する。
「伊月、……サマ……」
その瞬間、伊月は縄を断ち切る。拘束が外れ、三剣の腕に遅れて力が戻る。伊月は立ち上がりざまナイフを放り投げる。
「九薙を殺れ」
三剣はゆらりと立ち上がる。指先は震えているが、その震えは次第におさまっていく。
一歩踏み出すと、体が揺れた。七条を一度見た。ナイフに伸びる手が止まる。だが掴み取り一歩、二歩と七条へ向かう。
「……。」
「殺れよ」
七条は静かに告げる。
そして踏み出し、三剣はナイフを振りかざし──一瞬の迷いが生まれた。
次の瞬間、振り返り伊月の腹部へナイフを突き立てる。
「…骨までは折らせねぇ…ッ」
「……ッ、てめ…!」
ナイフを引き抜き、血を払う。
「……俺だって黙って壊されるわけじゃない」
伊月は壁にもたれ、苦しげなはずなのに、口元だけが笑っている。
「面白ぇ……。九薙伊澄、ソイツ手放すなよ」七条へ視線を移す。「壊すのは——次の楽しみに取っといてやる」
「お前は壊れる顔してねぇ。だから面白い」
三剣は一瞬、視線を伊月に固定した。
「……楽しみにしとけよ」次の瞬間、拳が窓ガラスを叩き割った。「また遊ぼうぜ」
そのまま闇へ飛び降りる。
部屋に静寂が戻る。割れた窓から夜の風が吹き込み、空気がひんやりと漂う。
「……龍二、キスして」
七条のDomとしての存在感が三剣の心拍に影響し、呼吸が少し乱れる。七条は手を後ろ髪に添え、ゆっくり引き寄せる。
唇が重なる瞬間、圧とそれに応じる意思が静かに重なり合う。
短い口づけ。やがて離れると、七条は小さく息を吐く。
「……無事でよかった」
三剣は軽く息を吐き、呼吸を整える。
「俺が簡単に壊れると思ったか?」
「思ってない。でも迎えには行く」




