歪んだ選択
バーのざわめきは、どの席にも同じように降りているはずだった。
グラスの触れ合う音も、笑い声も、均一に流れている。
だが——いくつかの席だけが、明らかに質の違う空気を帯びていた。三剣の意識は、自然とそこへ引き寄せられる。
視線を向けるまでもなく、“歪み”だけが先に浮かび上がっていた。
ひとつ目。
男の手が、テーブルを叩く。乾いた音が、不自然なほど尾を引いた。
「遅いって言ってるだろ」
向かいのSubがびくりと震える。反応は速い。だが——そこに思考の痕跡はない。
条件反射に近い動きだった。
「飲め」
押し付けられたグラスを、迷いなく受け取る。
指先は震えているのに、その手は止まらない。
「……はい」
返事だけが、妙に整っている。
「遅い」
必要以上の力で肩を掴む。逃げ場を潰すように。
Subの体が、小さく揺れた。流れをなぞるように見える一連の動きの中で、肝心なものだけが、綺麗に抜け落ちている。
(思考と選択が止まっている)
ふたつ目。
少し離れた席で女が笑っている。整えられた、崩れない笑みだった。
「そんなに優しくしなくていいですよ」
「優しい?」
男は穏やかに首を傾げる。声音は柔らかい。だが、その柔らかさに逃げ場はない。
「じゃあ、何が欲しい?」
問いかけは自由に見える。だが実際には、選択肢が静かに削られている。
女の視線が落ちる。
「……傍にいてほしいです」
小さな声。
それでも確かに、“自分で選んだ”響きがあった。男は満足そうに笑う。
「いい選択だ」
その一言で、関係が固定される。
「全部、俺の言う通りにしろ」
「……はい」
今度は迷いがない。迷わないことこそが正解だと、すでに理解している動きだった。
三剣は、小さく息を吐く。
「……似てるな」
隣で、七条が短く返す。
「違う」
「何が」
「どっちも選んでない」
三剣の視線は、どちらの席からも離れない。
力で押さえつける手と、従うことに慣れきった視線。そして、安心したように笑う口元。
そのどれもが、別々の形をしているのに——。行き着く先は同じ場所に見えた。
「……選ばせてるように見える」
「見せてるだけだ」
短い沈黙。
「……気に入らない」
三剣が立ち上がる。
「理由にならない」
七条の声は変わらない。
「十分だろ」
一歩、踏み出す。ざわめきの境界を越えた瞬間、空気の質が変わる。
「壊れるぞ」
低い声が背中に落ちる。
「もう壊れてる」
三剣は止まらない。
「どっちも同じだ」
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「選んでるようで」
視線が、女へ向く。
「選ばせてない」
次に、男へ。
「選べないまま」
唇の端が、ごくわずかに歪む。
笑いと呼ぶには乾きすぎた、感情の薄い動きだった。
「……誤魔化してるのが、一番嫌いだ」
七条は、その背中を見るだけで止めようとはしない。
「やりすぎるなよ」
返事はない。三剣は真っ直ぐ進む。
(ああ)
頭の奥で、何かが繋がる。
掴む手も、笑っている声も、形は違うのに——同じ場所に落ちている。
どっちも同じだ。形だけ違って、中身は変わらない。選ばせてるようで、選ばせてない。
(こういうのじゃない)




