断章 蛇神ノ記 ― ましろの記憶 ―
わらわは森にて生まれた、ただの蛇じゃった。
身体が白かったゆえに、人々はわらわを「神の遣い」と呼んだそうじゃが……元から特別な力があったとは思うておらぬ。
これは別の幽世の神から聞いたことじゃが、身体が白くなることを「あるびの」と呼ぶそうじゃ。自然界ではそれなりに起こることで、さほど珍しくもないとも言うておった。
そんなただの蛇であるわらわを、朱乃は慈しみ、可愛がってくれた。
最初は何を言っておるのかも分からなかったが、時を過ごすうち、だんだんと朱乃の想いが伝わるような気がしてきたのじゃ。……無論、わらわが勝手に思っていただけかもしれぬ。
それでも、間違いなく、わらわにとって朱乃は「無二の友」じゃった。
タヌキから助けてくれた。
食べ物を分け与えてくれた。
お守りの鈴をくれた。
「ましろ」と、名をつけてくれた。
朱乃は、わらわに、多くのものを与えてくれた。
多くのものを与えて――そのまま、いなくなってしまった。
「昔は……みんな、いい人達だったんだ。災禍が、みんなの心を歪めてしまった。……だから、あたしはみんなを恨まない」
最期の言葉だけは、よく覚えておる。
土の中に埋められる間際のあの瞳を、よく覚えておる。
「ましろ、お願い」
当時のわらわには意味もわからず、言葉の羅列に過ぎなんだが……それでも、畜生なりに理解しておった。
朱乃が、どれほど切なる想いで、その「契り」を口にしたのか。
「この村を、守って」
――思うに。
わらわは、その瞬間に「神」となったのじゃ。
願いを託され、人々に求められたことで、わらわは真に「蛇神」となった。
そこからは、長い日々が続いた。
村人たちの会合は税、寄進、荘園……と、よく分からぬ話ばかりであったが、後に、理解できるようになった。
人間は、生きていくために国に税を納めねばならず、されどその税が生きていく糧すら奪っていくために、村の権力者は土地を寺院に贈与して税を免除してもらおうとした。……が、その寺院も重税を課し始め、村人の生活を脅かす存在となってしまった。
だいたいこのような事情で村人たちは困り果て、口減らしのために「人柱」と称して「神」に贄を捧げ、場合によっては森に捨てる羽目になり――朱乃がいなくなってしまったのも、「人柱」のためだったのじゃと、理解した。
非道い村人と蔑むのは簡単じゃ。
じゃが、生き物は誰しも、生きるために必死になるもの。……それは何も、人に限った話ではない。
わらわは、村人たちを赦した。
「友」の犠牲を憎むのではなく、彼女の最期の願いを叶える道を選んだのじゃ。
贄に捧げられた子や、捨てられた子を拾い、できる限りの面倒を見た。村人たちがわらわに何かを乞うたびに、できることであれば力になった。……どうにもできぬことの方が多かったが、それでもじゃ。
それでも、やらぬよりは、幾分ましじゃと思うた。
やがて村は寺院の土地ではなくなり、代わりに「犬上」と呼ばれる一族がぞろぞろと現れ始めた。
何やらその一族は犬を贄にする儀式で呪いの力を得ているらしかったが……呪いの力は本物のようで、当時は人に届かぬはずの、わらわの声をも聞くことができた。
この時に、伝えたのじゃ。
人間の贄は求めておらぬゆえ、犬の首を捧げよと。
数年に一人であれば面倒も見てやれるが、毎年のように捧げられては、助けられる子らも助けられぬと。
命を奪われた犬の骸にも、慰めは必要であろうと。
「承知いたしました。『犬上』が行くは人の道にあらねど――我ら、『契約』は必ずや守りまする」
犬上の当主は存外律儀な人物で、約束を違えることはなかった。そうして、わらわの元には人の子ではなく犬の首が捧げられる運びになったのじゃ。
魂は呪いに使うゆえ、わらわの元には来させられぬとのことじゃったが、せめてもの慰めに骸だけでも手厚く葬った。
時代は巡り、わらわは少しずつ人の世を知り、人の姿を覚えた。
かつては森の賊や怪異どもに対して、どうすることもできなかったが……やがて、打ち払う術も身に付けた。
戦乱はどうにもできぬが、野盗を追い払うことはできた。
力の強い鬼を倒すことはできずとも、悪霊の類を追い払うことはできた。
わらわは名実ともに「神」となり、村を守る存在として、更に求められるようになっていった。
信仰により、力は増した。やがて、わらわは悪鬼としてさまよっていた刹鬼すら倒し、配下として従えるまでになった。
……されど、時代は変わる。
地を鉄の獣が這い、空にも大きな塊が飛び、山が次々に拓かれ――人々は、神を忘れ始めた。
当然力も弱まり、焦り始めたわらわは、山に長らく住まう怪異――髑髏を、配下として従えることにした。
髑髏が「喰う」ことができるのは亡者のみであるがゆえ、それまでは後回しにしておったのじゃが……わらわの力が衰えてしまえば、手がつけられなくなるやもしれぬゆえな。
忘れられることは、哀しくはあった。
この時期からやけに眷属を増やし始めてしもうたのは……寂しかったから、じゃろうな。
夢を、よく見るようになった。
――ねぇ、あたしはおまえの味方だよ
――だから……そんなに怯えないで
―わ! その果物……もしかして、恩返しのつもりかい?
――いい子だね、おまえ。神主さまの言う通り、神の化身なのかもしれないね
――そうだ。名前をつけてあげよう。おまえにぴったりの名前を思いついたんだ
――ましろ。……どうだい? なかなか、いい名前だと思わないか?
――持ってきてくれた果物は、二人で分けようね。……さぁ早うお食べ! おまえも腹が減っているんだろ?
かつての「友」の――朱乃の夢を、何度も、見るようになった。
巫覡の誰かが、こう言っておった。
「その想い……きっと、もう『友情』どころじゃないんだと思います」
……そうかもしれぬ。
わらわは、朱乃を想いながら独りで卵を宿し、子供らを産んでおった。……それを、人は友と呼ばぬらしい。
「恋心……かも、しれませんね」
「なんじゃ、それは」
「うーん、説明すると難しいんですけど……」
わらわには、人の心の機微はよく分からぬ。
けれど、恋という言葉は、やけにしっくり来たものじゃ。
わらわは、お前さまと再び相見えることを希っておった。朱乃の願いに応え、「神」として在り続けたことを褒めてもらいたかった。……ただただ、それだけだったのじゃ。
――そして、久方ぶりに激しい雨の降った日。
村は、呆気なく滅びた。
その時のことは、もう、ろくに覚えておらぬ。
刹鬼に崩れた家屋を持ち上げさせようが、髑髏に負傷者を運ばせようが……街に行く道が塞がり、村が完全に孤立してしまった以上はどうにもならなかった。
頭が真っ白になって、何もできぬまま、村の惨状を眺めていることしかできなかった。
便利な世の中に至りつつはあったが、その便利さを享受できるほどの地の利は、この村にはなかったのじゃ。
……もう少し後の世であれば、また違ったのやもしれぬ。いや、そうであったとしても……若い村人が出ていき、年寄りばかりが残って終いになっていたやもしれぬがな。
増えた悪霊は、髑髏が喰うことで鎮めることはできた。……それでも、地に根付いた怨嗟を見れば、嫌でもわかる。
ここはもはや、人が住める土地ではない……と。
怨嗟は、地の底に眠っていたはずの地獄をも呼び起こした。
……覚范のことじゃ。
かの寺――眩昏寺は、現実にはとうに存在しておらなんだが、根深い怨念によって地に括り付けられておった。わらわにも見えぬほどの深くに潜んでおった因業が、地表の怨嗟によって更なる力を得てしまったのじゃ。
わらわと、髑髏および刹鬼の力を持ってしても、神域内に「宮寺」として封じ込めるのがやっとじゃった。
わらわは、疲れ果ててしもうた。
神など名ばかりじゃ。
何も為せず、何も救えず、何も守れなかった。
朱乃との「契り」を果たすこともできず……ただただ神としての終わりを……真に忘れ去られ、力を失うその日を、配下と共に幽世で待つこととなった。
すべてを諦め、かりそめの平和を享受するふりをし……ただただ、虚しい日々を過ごしておった。
そこに、再びお前さまが現れた。
……秤。
お前さまは、何もできぬと言うておったが……それは、大きな間違いじゃ。
お前さまは、傷を負ってなお、耐え難き苦しみを経てなお、自らの歩むべき道を探しておった。……自らにできることを探したがゆえに、お前さまは無力を嘆いたのじゃ。
か弱き人の身でも。
何も持たぬ亡者の姿でも。
お前さまが傷つき、苦しむのは、諦めることを知らぬからじゃ。どのような窮地でも、自分にできる最善を求められるお方だからじゃ。
……その瞳が、わらわの心を奮い立たせてくれた。
わらわがもう一度「神」となることを決心できたは、お前さまのおかげじゃ。
いつか、「朱乃」であった頃に、お前さまが言うたことを覚えておる。……その時は意味も知らぬ言葉の羅列じゃったが、今ならば、わかる。
「ましろ、ごめんよ。本当なら、森で伴侶でも見つけて、家族で暮らせてただろうにね。……神なんかに、祀り上げられちまって、大変だろう。今からでも遅くないよ。逃がしてやろうか?」
あの時。
お前さまは、間違いなくわらわの幸せを望んでくれた。……お前さまだけが、「ましろ」の生を案じてくださったのじゃ。
「ましろ。あたしはね……おまえに、幸せになって欲しいんだ」
わらわは、それだけで嬉しかった。
それだけで、充分だったのじゃ。
***
指先から伝わる、ましろの想い。
熱い涙が、はらりと頬を伝い落ちるのがわかった。
私は、諦めの悪い人間だけど。それだけだ。そんなの、ただの性格でしかない。
そこに光を見出せたのは、ましろの心に、元から大きな光があるからだ。そうじゃなきゃ、朱乃に言われたからって、千年も守り神であろうとなんてしない。
でも――ありがとう、ましろ。
私、嬉しいよ。
こんなにも気高くて、美しくて、優しい神様に想ってもらえるなんて……光栄でしかないや。
「秤」
ましろの声が、近い。暗闇の中でも、すぐそばにいるのがわかる。
そっと、手を重ねる。体温の低い手のひらがぴくりと震えたのが、私の指先から伝わってくる。
「次こそは――」
その言葉に重ねるように、私も、決意を口にした。
「「次こそは、悔いのないように」」
さぁ、行こう。ましろ。
こうなったら、とことん付き合うよ。
あなたを「神」にしたのは、私なんだから。




