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蛇神譚 犬首村六道繪巻 ― 誰そ彼の契り ―  作者: 譚月遊生季
第三巡 業ノ章 ― 地獄道 ―

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断章 僧正ノ記 ― 行暁山眩昏寺覚范の記憶 ―

 ――僧正・行暁山(ごうぎょうさん)昡昏寺(げんこんじ)覚范(かくはん)の記憶


 愚僧は、寺で生まれた。

 わが父は高名な僧であり、わが母はその愛人(いろ)であった。


 幼き頃より世の(けが)れを知っていた愚僧に、仏法の教えはとんと胸に響かなかった。

 説法も、修行も、経典(きょうてん)も――虚しい偽りに塗り固められたものにしか見えなんだゆえな。


 だが、愚僧に、僧として生きる以外の道はなかった。

 父たる僧正に、愚僧を寺から出すつもりがなかったがゆえだ。


 愚かしいことに、僧も、民も、父を慕っていた。父は自らの行いを恥ずべき(あやま)ちとしながら、罪が暴かれることを恐れた。

 母は既に病にて世を去っていたが、どうやら白拍子(しらびょうし)(たぐい)であったらしい。


 望まぬ仏法(ぶっぽう)の道であったが、父はその後ろめたさゆえに、愚僧に密かに甘露(かんろ)を与え続けた。甘露は最初、小さな干菓子(ひがし)程度であったが……次第に、それは財貨へと変わっていった。

 愚僧も人目に付くところでは教えに忠実な仏徒(ぶっと)を演じ、人目に付かぬところの過ちは父に(ぬぐ)わせた。

 僧階(そうかい)は順調に上がり、父の入滅(にゅうめつ)後、愚僧には晴れて「僧正」の(くらい)が与えられた。


 厳しく、果てのない修行。腫れ物に触るが(ごと)く扱った周りの僧侶。無意味にしか思えぬ仏法の教え。そして――甘い菓子や財貨によって、(おの)が罪過を流し去らんとした愚かな父。


 そうして手に入れた「僧正」の地位に、どれほどの意味があったであろうか。

 愚僧が貪欲(とんよく)の道に転がり落ちるは、必定(ひつじょう)であった。


 どれほど無体(むたい)を働こうが、地位と財貨があれば、罪は罪にならぬのだ。

 父が、偉大な僧と称えられながら世を去ったように。


 富を、栄誉を(むさぼ)れば、至上の歓びに血が沸いた。

 美酒を、肉欲を貪れば、絶頂の悦びに肉が躍った。


 嗚呼、この世は歓楽に満ちている。

 仏法に――見せかけの規範に、どのような意味があろう。

 金が尽きれば差し出させれば良い。そのために栄誉がある。

 栄誉が足りねば誇示(こじ)すれば良い。そのために金がある。

 どちらもあれば、酒も女も決して尽きることはない。


 外法? ……()いではないか。

 地獄も、極楽も、所詮は人が創り出したもの。

 瞋恚(しんに)の怒りも、つまらん愚痴も、わが外法の前では有象無象の羽虫と同じ。踏み潰せば、それもまたわが享楽となる。

 甘露が欲しくば、愚僧に縋れば良いものを。ぶんぶんと(うるさ)(たか)るから踏み潰されるのだ。


 ある日。女が愚僧の元に現れた。

 旅の者で、盗人(ぬすっと)に夫も財産もすべて奪われたのだと、女は涙ながらに愚僧に縋った。

 ()い女であったので、愚僧は快く保護し、その晩は(ねや)を共にさせた。


「……ねぇ、入道さま。観音像を見とう存じます。この寺の観音像は、輝くほどに美しいのでしょう?」


 わが観音像は、どうやら広く噂となっていたらしい。

 貴族はその輝きを誉めそやしたが、荘園の民は確か、そのために重税を課されたと激しく憤っておったか。


「おお、構わんぞ。案内してやろう」


 白い(もも)を撫で、愚僧はその願いを快諾した。

 美い女が、わが栄誉の象徴たる像を誉めそやすのは、気分が良かった。


 素肌に愚僧は湯帷子(ゆかたびら)、女は小袿(こうちき)を身につけ、寝床を出た。

 板張りの廊下を進めば、月光が導くようにして行く手を指し示す。


「かような夜であれば、蝋燭も必要ありませぬね。……ねぇ、せっかくの月夜が勿体(もったい)ありませぬ。消してくださりませ」

「おお、そうさな。風雅な頼みではないか、叶えてやろう」


 ふっと蝋燭を吹き消せば、月明かりのみが金色の観音像を照らし出す。

 その姿のなんと、麗しいことか。……わが栄華のごとき、輝きであることか……!


 凄まじい悦楽が、頭から背筋を伝い、爪先まで(はし)る。……だからこそ、背中に(ほとばし)った痛みに、すぐには気付けなんだ。

 ぬるりとした液体が手に触れる。かと思えば、気の触れたような女の声が、耳元で響く。


「ハァ……ハァッ……仇だ……母ちゃんの……妹の……夫の仇だよ……!!!」


 続いて、何度も、何度も、背中に痛みと熱が迸る。


「誰ぞ……誰ぞ、おらぬのか……」


 呆然と言の葉が溢れ、観音像に血濡れた手型が増えていく。

 廊下の方から見習いの僧侶が二人ほど走って来……愚僧の姿を見たところで、目配(めくば)せをしあって何もせずに去っていった。

 重い身体を支えきれず、どうと床に倒れ伏す。口からも止めどなく血が溢れ、床に、池のごとき血溜まりを造り出す。


 女がどこに行ったのか、もはや分からない。

 観音は、何も語らずに愚僧を見下ろしていた。



 

 ***



 

 愚僧は死してなお、寺の中にいた。

 床に湧いた血の池に、突き出た針の山、そして、絶えず燃え(たぎ)る炎熱が、次々に愚僧を責め、苛んだ。

 響く怨嗟(えんさ)と愚僧に向けて伸びる手は、おそらく、愚僧を呪うた者たちの末路であろう。


 彼らは愚僧を地獄に堕とす代わりに、自ら望んで地獄に参ったのだ。……愚僧を刺した、あの女のように。


 ならば。

 愚僧もそれに応えてやろう。

 地獄の責め苦を耐え抜き、再び極楽浄土に返り咲き――呪うことしかできぬお主らを(わろ)うてやろう。

 

 この覚范、元より外法の者だ。

 外法にて生まれ、外法に生きた、「外法僧正」の名こそ、わが宿業(しゅくごう)にして、わが(ほまれ)である。


 金が尽きれば差し出させれば良い。

 栄誉が足りねば誇示すれば良い。

 生を(うしな)えば、また奪い返せば良い。

 神や仏が奪いに来るのであらば――それすら堕としてみせようぞ……!


 やがて、「神」は本当に愚僧の元へと現れた。


「……恐ろしい男よ」


 愚僧を睨みつけながら、「蛇神」は満身創痍(そうい)の肉体を引きずり、立ち上がった。

 寺は既に結界に覆われ、愚僧は蛇神の配下に潰されて身動きひとつ取れずにいた。

餓者髑髏(がしゃどくろ)」……といったか。なかなかに面白い力だが、その程度で、愚僧を(たお)し切ることなどできぬ。


「蛇神よ。いずれ、愚僧の力はお主を凌駕(りょうが)する」

「そうはさせぬ。どうあっても、(うぬ)にだけは敗れるわけにはいかぬ」


 威勢のいいことを言う蛇神は、どこからどう見ても()い男であった。……ああ、いや、できれば女の姿の方が好みではあるが、男でも愚僧は一向に構わん。

 いずれ、堕としてみせよう。

「神」すら手中に収めた時。愚僧は再び、極楽浄土を得るのだ。


 哀れな神よ。せいぜい足掻け。

 愚僧はこの地獄で、いつまでも待っておるゆえな――



 

 ***


 


 沈みゆく意識の中、高笑いが聞こえる。

 地獄ですら欲を貪り、外法の道を行く凄まじさは、もはや(もの)()の類にも見えた。


 ――お前さま


 ……ああ、また、来てくれたんだね。

 ごめんね。私……いつもいつも、迷惑ばっかりかけてるね……


 ――良いのじゃ、お前さま。わらわは……


 優しげな声が、私を包み込む。

 意識が白ずみ、柔らかな温もりに導かれる。


 ――お前さまに、幸せになって欲しい。……ただ、それだけなのじゃ……

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