断章 僧正ノ記 ― 行暁山眩昏寺覚范の記憶 ―
――僧正・行暁山昡昏寺覚范の記憶
愚僧は、寺で生まれた。
わが父は高名な僧であり、わが母はその愛人であった。
幼き頃より世の穢れを知っていた愚僧に、仏法の教えはとんと胸に響かなかった。
説法も、修行も、経典も――虚しい偽りに塗り固められたものにしか見えなんだゆえな。
だが、愚僧に、僧として生きる以外の道はなかった。
父たる僧正に、愚僧を寺から出すつもりがなかったがゆえだ。
愚かしいことに、僧も、民も、父を慕っていた。父は自らの行いを恥ずべき過ちとしながら、罪が暴かれることを恐れた。
母は既に病にて世を去っていたが、どうやら白拍子の類であったらしい。
望まぬ仏法の道であったが、父はその後ろめたさゆえに、愚僧に密かに甘露を与え続けた。甘露は最初、小さな干菓子程度であったが……次第に、それは財貨へと変わっていった。
愚僧も人目に付くところでは教えに忠実な仏徒を演じ、人目に付かぬところの過ちは父に拭わせた。
僧階は順調に上がり、父の入滅後、愚僧には晴れて「僧正」の位が与えられた。
厳しく、果てのない修行。腫れ物に触るが如く扱った周りの僧侶。無意味にしか思えぬ仏法の教え。そして――甘い菓子や財貨によって、己が罪過を流し去らんとした愚かな父。
そうして手に入れた「僧正」の地位に、どれほどの意味があったであろうか。
愚僧が貪欲の道に転がり落ちるは、必定であった。
どれほど無体を働こうが、地位と財貨があれば、罪は罪にならぬのだ。
父が、偉大な僧と称えられながら世を去ったように。
富を、栄誉を貪れば、至上の歓びに血が沸いた。
美酒を、肉欲を貪れば、絶頂の悦びに肉が躍った。
嗚呼、この世は歓楽に満ちている。
仏法に――見せかけの規範に、どのような意味があろう。
金が尽きれば差し出させれば良い。そのために栄誉がある。
栄誉が足りねば誇示すれば良い。そのために金がある。
どちらもあれば、酒も女も決して尽きることはない。
外法? ……好いではないか。
地獄も、極楽も、所詮は人が創り出したもの。
瞋恚の怒りも、つまらん愚痴も、わが外法の前では有象無象の羽虫と同じ。踏み潰せば、それもまたわが享楽となる。
甘露が欲しくば、愚僧に縋れば良いものを。ぶんぶんと煩く集るから踏み潰されるのだ。
ある日。女が愚僧の元に現れた。
旅の者で、盗人に夫も財産もすべて奪われたのだと、女は涙ながらに愚僧に縋った。
美い女であったので、愚僧は快く保護し、その晩は閨を共にさせた。
「……ねぇ、入道さま。観音像を見とう存じます。この寺の観音像は、輝くほどに美しいのでしょう?」
わが観音像は、どうやら広く噂となっていたらしい。
貴族はその輝きを誉めそやしたが、荘園の民は確か、そのために重税を課されたと激しく憤っておったか。
「おお、構わんぞ。案内してやろう」
白い腿を撫で、愚僧はその願いを快諾した。
美い女が、わが栄誉の象徴たる像を誉めそやすのは、気分が良かった。
素肌に愚僧は湯帷子、女は小袿を身につけ、寝床を出た。
板張りの廊下を進めば、月光が導くようにして行く手を指し示す。
「かような夜であれば、蝋燭も必要ありませぬね。……ねぇ、せっかくの月夜が勿体ありませぬ。消してくださりませ」
「おお、そうさな。風雅な頼みではないか、叶えてやろう」
ふっと蝋燭を吹き消せば、月明かりのみが金色の観音像を照らし出す。
その姿のなんと、麗しいことか。……わが栄華のごとき、輝きであることか……!
凄まじい悦楽が、頭から背筋を伝い、爪先まで奔る。……だからこそ、背中に迸った痛みに、すぐには気付けなんだ。
ぬるりとした液体が手に触れる。かと思えば、気の触れたような女の声が、耳元で響く。
「ハァ……ハァッ……仇だ……母ちゃんの……妹の……夫の仇だよ……!!!」
続いて、何度も、何度も、背中に痛みと熱が迸る。
「誰ぞ……誰ぞ、おらぬのか……」
呆然と言の葉が溢れ、観音像に血濡れた手型が増えていく。
廊下の方から見習いの僧侶が二人ほど走って来……愚僧の姿を見たところで、目配せをしあって何もせずに去っていった。
重い身体を支えきれず、どうと床に倒れ伏す。口からも止めどなく血が溢れ、床に、池のごとき血溜まりを造り出す。
女がどこに行ったのか、もはや分からない。
観音は、何も語らずに愚僧を見下ろしていた。
***
愚僧は死してなお、寺の中にいた。
床に湧いた血の池に、突き出た針の山、そして、絶えず燃え滾る炎熱が、次々に愚僧を責め、苛んだ。
響く怨嗟と愚僧に向けて伸びる手は、おそらく、愚僧を呪うた者たちの末路であろう。
彼らは愚僧を地獄に堕とす代わりに、自ら望んで地獄に参ったのだ。……愚僧を刺した、あの女のように。
ならば。
愚僧もそれに応えてやろう。
地獄の責め苦を耐え抜き、再び極楽浄土に返り咲き――呪うことしかできぬお主らを嗤うてやろう。
この覚范、元より外法の者だ。
外法にて生まれ、外法に生きた、「外法僧正」の名こそ、わが宿業にして、わが誉である。
金が尽きれば差し出させれば良い。
栄誉が足りねば誇示すれば良い。
生を喪えば、また奪い返せば良い。
神や仏が奪いに来るのであらば――それすら堕としてみせようぞ……!
やがて、「神」は本当に愚僧の元へと現れた。
「……恐ろしい男よ」
愚僧を睨みつけながら、「蛇神」は満身創痍の肉体を引きずり、立ち上がった。
寺は既に結界に覆われ、愚僧は蛇神の配下に潰されて身動きひとつ取れずにいた。
「餓者髑髏」……といったか。なかなかに面白い力だが、その程度で、愚僧を斃し切ることなどできぬ。
「蛇神よ。いずれ、愚僧の力はお主を凌駕する」
「そうはさせぬ。どうあっても、己にだけは敗れるわけにはいかぬ」
威勢のいいことを言う蛇神は、どこからどう見ても美い男であった。……ああ、いや、できれば女の姿の方が好みではあるが、男でも愚僧は一向に構わん。
いずれ、堕としてみせよう。
「神」すら手中に収めた時。愚僧は再び、極楽浄土を得るのだ。
哀れな神よ。せいぜい足掻け。
愚僧はこの地獄で、いつまでも待っておるゆえな――
***
沈みゆく意識の中、高笑いが聞こえる。
地獄ですら欲を貪り、外法の道を行く凄まじさは、もはや物の怪の類にも見えた。
――お前さま
……ああ、また、来てくれたんだね。
ごめんね。私……いつもいつも、迷惑ばっかりかけてるね……
――良いのじゃ、お前さま。わらわは……
優しげな声が、私を包み込む。
意識が白ずみ、柔らかな温もりに導かれる。
――お前さまに、幸せになって欲しい。……ただ、それだけなのじゃ……




