第二話 邂逅
引き返せ。
本能が叫ぶ。
すくんだ足を無理やり奮い立たせて、踵を返した。
「……あれ」
通ったはずのトンネルが、そこにはない。
反り立つ岩壁が、何人たりとも通すまいと行く手を阻んでいた。
「う、そ……」
思わず息を飲む。
立ち尽くす暇もなく、私の耳に、何かを引きずるような音が聞こえ始めた。
「お前さま」
続いて、声。
不思議な声だった。
男かも、女かもよく分からない。
……それなのに。
それはそれは美しい、心を揺さぶるような声だった。
ずるずる、ずるずると、「それ」は近付いてくる。
……人間の足音じゃない。
恐怖で動けない私の耳に、再び、声が届く。
「恐れるでないぞ。儂はお前さまの味方じゃ」
この声は……男性?
先程の声と同じなのは分かる。……けれど、もっと中性的な……女性のような声だった気も……
おそるおそる、背後を振り返る。
可能な限り細めた瞳に、「彼」の姿が映った途端。私は、思わず目を見開いてしまった。
美しい人だった。
長い白髪に、黄昏の空のように朱い瞳。
青白い顔と着流しから覗く肌には、ところどころ鱗のようなひび割れが見えている。
絹のような白い着流しには、細かな金色の刺繍が見て取れる。こんな廃村に似つかわしくない衣装だと、見ればわかった。
「早う共に参れ。丁重にもてなしてやろうぞ」
饒舌に話す口元から、二つに割れた舌先がちろちろと覗く。
……聞いたことがある。
「犬首村」の土地神は、「蛇の神」だ、と……
「……ふむ。年頃の女子はこの姿を好むと聞いたが、そうでもないようじゃの」
私が固まっている間に、男は勝手にぶつぶつと話を続ける。
「お前さまが望むなら、こちらの姿でも構わぬのじゃが」
途端に筋張った体躯が丸みを帯び、着流しの胸元からたわわな乳房が覗く。
思わず、ごくりと唾を飲んだ。存在自体の「美」も、中性的で謎めいた雰囲気も何も変わらないままに、肉体の構造だけがするりと置き変わってしまったようで……
言葉が出ない。目の前の存在が「彼」であろうが「彼女」であろうが……間違いなく、人ではない。
「ええい。何か話さぬか。妾とて、暇なわけでは……」
頭の中がぐちゃぐちゃになり、目の前がぐにゃぐにゃと歪む。
意識が遠くなり、目の前の「彼女」が何を言っているのかすらよく聞こえない。
視界が白ずみ、思わず膝をつく。
意識が途切れる間際、柔らかい腕に抱き上げられたのがわかった。
――秤。アナタには力があるの
母の声が、呪いのように蘇る。
幼い頃から、私には霊感があった。
この世ならざる者を感知する力を「霊媒師の才」というのであれば、私には間違いなく才能があったのだろう。
……それこそ、人ならざる化生に目をつけられてしまうくらいには。




