断章 刹鬼の記 ― 犬上肆大吾景正の記憶 ―
――守護・犬上肆大吾景正の記憶
犬上。
それが、吾が生まれた一族の名だ。
「景正。犬上の術は外法の類。決して、関わってはなりませぬ」
あれは、元服の儀を終えた後のことだった。
母は常日頃から厳しい人であったが、その日は特に、厳しく言い聞かされた。
わが犬上の一族は、高名な呪術師の一族であったらしい。
天皇や上皇にも重宝され、新たな土地を賜るほどには、栄誉を与えられていた。
……だが、母はそれを良しとしなかったのだ。
「其方は武士となりなさい。猛き武士となり、正しき道を歩むのです」
犬上の術は、多くの富と栄華を一族に与えたが――母に連れられ目にしたその術式を、忘れたことはない。
狗神憑き。
集めた犬たちを殺し合わせ、最後に残った一匹を土に埋め、餌に首を伸ばしたところでその首を切り落とす。
より生に執着し、より多くを屠った者が、ようやく糧を得られる寸前にすべてを奪われるのだ。当然、激しい怨みが遺される。
その「怨み」を力として使役する――いわば、蟲毒の一種。
話によれば、斬り落とされた犬の首は、朝廷から賜った土地にて「神の贄」としても使用されるのだという。
「良いですか、景正。か弱きものを甚振るは、畜生にも劣る恥ずべき行いです。真の強き者とは、か弱きものを護るために力を振るう者。――其方は、護る者となりなさい」
「……はい。承知いたしました。母上」
時は三代将軍源右府実朝の時代。
先代、先々代より立て続けに起こった騒乱により、民は疲弊していた。
私の母は、温厚であると評判の土御門院に仕えていた。……ゆえに、何か思うところがあったのだろう。
かくして吾は、縁故から土御門院を守護する武士となり、日々鍛錬に努めた。強さを誇示するためではなく、自身の富や栄誉のためでもなく――心優しき院を、さらにはか弱き民を護るために。
武士であろうと、誓ったのだ。
***
吾が元服し、土御門院を守護して数年が経った頃。
土御門院の父君に当たる後鳥羽院が、幕府の執権である北条義時と袂を別った。
後鳥羽院は、表向きは仏事守護を目的として兵を集め、その中にはわが犬上の一族も多少なりとも含まれていた。……そして、争乱の末、後鳥羽院方は敗北した。
土御門院は乱に関与せず、したがって本来は罰を受ける謂れなどなかった。……が、かのお方は父を想う、優しき心の持ち主であった。自ら望み、土佐へ配流される運びとなったのだ。
犬上の一族は、多くが土御門院とともに土佐へと配流された。本来は後鳥羽院と同じく隠岐に流されるはずだった者もいたが、幕府は「呪術」の力を恐れ、後鳥羽院から引き離すことを選んだらしい。
土御門院と同じく乱に関与しなかった吾は、一族が去った後の、土地の守護を任された。
その土地は、かつて外法僧正と謳われし高名な僧の荘園だった。僧正の死後は朝廷に召し上げられ、その後に褒美として犬上家に与えられたという。
――其方は、護る者となりなさい
吾は、武士であると誓ったのだ。
この身がどこにあろうと、主君が変わろうと、誓いに変わりはない。
研鑽を重ね、民を護ることこそが、吾の責務だと――
誓った、はずだったのだ。
***
ある日、吾は旅の一座の中に悪鬼の姿を視た。
即座に捕らえ、問い質すと、悪鬼は黒い涙を流しながらいびつな声音で命乞いを始めた。
調べのさなか、街にて人を殺めた咎人が紛れ込んでいた……と、旅の一座は蒼白になって語った。
悪鬼を斬り捨て、吾は、民の平穏を護った。
ある日、吾は立ち寄った宿にて悪鬼の姿を視た。
胸ぐらを掴んで引き倒すと、悪鬼の胸元から、じゃらじゃらと銭が溢れ出た。
調べのさなか、街角にて追剥が多発している、その下手人と特徴が一致する……と、報告が上がった。
悪鬼を斬り捨て、吾は、街の平穏を護った。
その後も、悪鬼は次々と吾の前に現れた。
そのたびに斬り捨て、吾は、土地の守護としての役割を果たそうとした。
……が、悪鬼は日に日に増えるばかりで、民の混乱は治まらない。
こうなれば、禍根は根元から絶たねばならぬ。吾は山の奥に入り、悪鬼のねぐらを探すことにした。
吾は、民を、この土地を護らねばならぬのだ。
寝る間も惜しみ、鍛錬に明け暮れた。
悪鬼が出れば即座に斬り捨て、傷を負うのも構わずに闘った。
朝も、夜もない。吾には、護るべきものがある。護るべきもののため、悪鬼を斬らねばならぬ。
吾は、武士なのだから――
ある日、斬り捨てた悪鬼が、ひび割れた声で吾の名を呼んだ。
黒い涙を溢れさせ、悪鬼は、喘ぎ喘ぎ語った。
「申し訳ありませぬ」
歪んだ声が、ほんの刹那、聞き覚えのある女の声へと変わる。
「景正」
その声は、あまりにも、母の声に似ていた。
――まさか
胸に過ぎった思考を、即座に否定した。……否定したかった。
これは、悪鬼の罠だと。人の声を真似、吾を謀っているのだと……
「母は、過ちを犯しました。其方は……其方は、わが一族の血に呪われています。……遠ざけるべきではなかった。其方は、呪いを識るべきだったのです……」
聞くに堪えず、再び刃を振りかぶる。
悪鬼の身体から――いや、纏った女物の着物から、螺鈿細工の鏡が転がり落ちる。
母が、化粧直しの際に使う鏡であった。
「申し訳ありませぬ。けれども、すべては……景正、其方を想うてのこと――」
鏡はからからと音を立て、血濡れた床を転がり、天井を向いて止まった。……悪鬼はもはや、何も語らない。
震える手で、鏡を拾い上げる。
よく磨かれた鏡面が、吾の姿を映した。
長い黒髪は鮮血で緋く染まり、
顔の右側は返り血で緋く変色し、
黒く染まった異形の眼は、突き出た角は、まるで……
鏡に映る吾の瞳から、漆黒の涙が零れ落ちる。
吾が斬り捨てたものが「何」だったのかを、ようやく悟った。
自らの過ちを、ようやく――
吾はためらうことなく、自らの首に刃を押し当て、ひと思いに掻き切った。
***
悪鬼と化した吾には、もはや死すらも許されなかった。
喉を裂いた。胸を突いた。腹を捌いた。……それでも、吾は、この世に在り続けた。
あの「悪鬼」は本当に、母であったのか?
……本当は、母の声を以って、吾を謀ったのではないのか?
次第に、自らを庇う邪な想いも芽生え始め、吾を蝕み始めた。
悪鬼は、何としても斬らねばならぬ。
斬らねばならぬのだ。
……なんのために?
分からぬ。もう、何も分からぬ。
吾の視界には、もう、悪鬼しか存在せぬのだ。
あの木の上から吾を見下ろしている。
泉の畔で、吾を手招いている。
土の下から、手を突き出している。
嗚呼、空の上にさえ……今にも襲い掛かろうと、身構えている……!
斬らねばならぬ。
斬らねばならぬ。
護るために、斬らねばならぬ……!
……何を。何を、護るというのだ。いったい、何を護ったというのだ!
答えよ景正。おのれに、何が護れたというのだ……!
……嗚呼……
だからこそ、斬らねばならぬのだ。
悪鬼を……
悪鬼を、斬らねばならぬのだ――
「……哀れなものじゃ」
ある日、悪鬼の一人が、ひび割れた声で語った。
「ふむ……少し手荒じゃが、相手してやる他にあるまい。……そうでなければ、誰も報われぬ」
視界が白く染まり、男か、女かもわからぬ声が響く。
「己を救うには、時間がかかりそうじゃな……」
「それ」は、自らを、蛇神と語った。
吾の眼は、とうに正しき世界を映さぬ。
吾の心は、とうに邪念に食い潰され、正しき道を見失った。
吾の魂は、遠き誓いを忘れられぬまま、なおも血を流し続けている――
***
意識に流れ込む、永く苦しい鬼哭の物語。
哀しく凄絶な、呪いと狂気に蝕まれた武者の想いが、私の魂を貫いて離さない。
――お前さま
再び、凛とした声が、脳裏に響く。
――次こそは、お前さまの望むように……




