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初めてテーブルいっぱいに敷き詰められた豪勢な食事を食べ、一度に何人入れるのかと思うほど広い風呂に入ったあとこれまた広すぎるベッドでシャロンを寝かしつけたエリアスは、このまま自分も寝たフリをしようかと企んでいるところだった。
「……おいで」
シャロンが完全に夢の中に旅立ったのが分かったのか、ベッドに横になっていたエリアスの耳元で低く囁かれる。その言葉はコマンドではなかったので従わなくてもいいのだが、優しくて甘い言葉にまんまと体が反応してしまった。
皇帝の寝室内にある小さなドアをくぐると、隣の皇后の部屋に繋がっているらしい。その部屋は乾いた古い匂いがして、バルドの部屋とは違って時間が止まっているように思えた。
「定期的に掃除はさせているが、随分と人が使っていなかったから古びた匂いがするな」
「……以前は俺が?」
「ああ。お前は大体、夜になると窓辺にあるあの椅子に座って、月明かりを頼りに本を読んでいた。その大体は医学書だったから、俺にはさっぱりだったけどな」
「へぇ……」
今も窓辺に置かれてある椅子の上には分厚い医学書が置かれてあり、その本には月明かりが注がれている。きっと太陽の光もずっと浴び続けていたのか、本の表紙はこの部屋のようにすっかり色褪せていた。
「なかなか、手をつけられなくてな」
「え?」
「お前が出て行った時のまま、この部屋の何も動かせなかった」
バルドが切なそうな目をして窓辺の椅子を見つめる。そんな彼の横顔を見て、なぜだかエリアスの胸はちくりと痛んだ。
きっと今のバルドは昔のエリアスを見つめているのだろう。きっとそれは『エリアス』のことなのに、バルドが自分を見つめていないことに少し切なさを覚えた。
「すみませんと謝るべきか、ありがとうございますと言うべきか……」
「俺は、お前が戻ってくると信じて疑わなかった。だからここをそのままにしていたんだ」
「……殺そうとしてたくせに?」
「愛していたから、そうしたかった。愛とは恐ろしいな。人の気持ちまで変えてしまうのだから」
「今は?」
「今は……」
ぐいっと腰を引き寄せられ、ぐりぐりと額を押し付けられた。エリアスが見つめるとバルドは青い瞳を細め「お前に、コマンドを出したい」と言葉が降ってくる。その甘さにとろけてしまいそうな、腰が砕けそうな感覚を覚えた。
「〈こっちに来い〉」
久しぶりのコマンドに、エリアスの体には衝撃が走った。びりびりと体中が痺れるような感覚に襲われ、バルドの手が腰から離れるとフラついてしまったほど。
ベッドに座るバルドの元まで何とか辿り着き、彼の足の間にぺたりと座り込んだ。
「〈いい子だ〉」
「んんっ」
すり、と顎の下を撫でられるとエリアスの口からはつい甘い声が漏れる。上から小さな笑い声が降ってきて、顔に熱が集中するのが分かった。
「〈こっちへ〉」
バルドに促されたのは彼の膝の上。エリアスが素直にコマンドに従うと、頬に柔らかい唇が押し付けられた。
「……そういえば、セーフワードを聞いていなかったな」
「あ……じゃあ“ブラック”で」
「なぜ?」
「なぜって……俺が黒だから、なんとなく?」
「ふ、はっ」
「えっ、何で笑うの?」
「いや、すまない……分かった。お前がブラックと言ったらすぐにやめよう」
「うん、お願いします……?」
DomとSubのプレイ中、Subが何か恐怖を感じたらセーフワードを言って行為をやめてもらう、いわばルールや約束のようなものだ。
すぐに言えるような短い言葉が理想的らしく、エイデンとのセーフワードは『レッド』を使っていた。ただ、何となくバルドとのセーフワードは『ブラック』かなと頭に浮かんだのでそう言っただけだが、バルドが何やら嬉しそうに笑っているのでエリアスは首を捻った。
「記憶を失くす前のエリアスも、同じことを言っていた」
「そうなの?」
「ああ。ただ、一度もセーフワードを言ったことはなかったが」
「へぇ……」
「言えなかったのかもしれないがな――っと、こう言うとまたお前に怒られるな」
バルドはエリアスが記憶を失ったのは自分との結婚生活のせいではないか、と考えているらしい。実際にエリアスがそう思っていたのか自分でも分からないのだが、気持ちを勝手に決めつけないでくれと話をしたばかりなのだ。
記憶を失くす前のエリアスがセーフワードを言わなかったのはきっと、バルドのことを信頼していたからだろう。そうでなければ、いくら皇帝陛下が相手でもうなじを噛ませないだろうし、プレイもしない。今のエリアスはそう考えた。
「……アベルさんは、俺と同じようにSubでもある?」
「いや。アベルに第三性はなく、第二性のオメガだけだ」
「そう……」
「安心したか?」
「は!? 別に不安とか思ってないですけど」
「分かったからそんなに膨れるな。俺の運命の相手はお前しかいない、エリアス」
「あ……っ」
エリアスの白い首筋にバルドが噛み付くと、細い体がぶるりと震える。軽く噛んだ後に熱い舌で舐められ、じゅっと音がするほど強く吸われた。
「俺の皇后……」
――前の俺? それとも、今の俺?
そんなことを聞く勇気は、エリアスには出なかった。




