プロローグ
「何もしなくていい」
重厚な声がシンと静まり返った室内に響き渡る。たった一言、彼が言葉を口にするだけで肌がびりびりと痺れるようで、つま先からぞわりと襲ってきたのは恐怖ではなく興奮だった。
「お前は俺に愛され、慈しまれ、ただ俺だけにその笑顔を向け、名前を呼んで、触れて、触れさせてくれたらいい。他の者の目には絶対に触れさせない」
すり、と足をすり合わせるとシーツが擦れる音が耳に響く。そんな細い足に熱い指が触れ、足の甲に唇が押し当てられた。
「……何もしない皇后なんて、聞いたことがありません。ましてやこの結婚は、純血の皆様からは不満を抱かれています。俺にできることは何でもしたいのです」
「だったら何だと言うんだ。皇帝である俺がいいと言ってるのだから、意味のない意見に耳を傾けなくていい」
「でも、陛下。俺は……あなたのオメガで、Subで、伴侶として、全員に認めていただきたいです」
一目惚れだった。
この世にこんなにも美しい人がいるのかと、出会った時には目を疑ったものだ。身分の差も種族の差もあったので結ばれることはないと諦めていたのだが、どうやらあちらも同じ気持ちを抱いてくれていたらしい。
何もしなくていいから伴侶になってほしいのだと食い気味に求婚され、返事をきちんと考える前に頷いた。それからはとんとん拍子に、このアルバディア帝国の皇帝、バルド・ストックデイル・アルバディアに見初められて皇后となった者は、結婚後は民衆の前には一度も姿を現さない皇后だった。
「お前のことは俺だけが知っていたらいい。その美しい姿を俺以外の者が見るのかと思うと……全員殺してやりたくなる」
「お戯れを……こんな“出来損ない”を、陛下のように熱のこもった目で見る者はおりません」
「それはお前が気づいていないだけだ。危なっかしい……腕の中に閉じ込めていないと、政務すら手につかないほど不安なんだ」
「閉じ込めておかずとも、俺はすでにあなたのものです」
唇同士が触れ合って、ぴちゃ、と小さな水音が静かな室内にはいやに響き渡る。
服の役割を果たしていないほど薄く透けている布の隙間から手が差し込まれ、シミひとつない白い肌を撫でられると条件反射のように体が跳ねた。
熱い吐息をもらすとグッと体を引き寄せられ、耳の中に直接流し込むように「愛してる」という言葉が囁かれる。熱くなってきた体がぴくりと反応すると小さな笑い声が聞こえ、吸い込まれそうなほど美しい宝石のような緋色の瞳がじっとこちらを見下ろした。
「〈俺のことをどう思ってる?〉」
目を合わせながらそう問われると、脳に電撃が走った。
「あ、あい、愛してます、俺も……」
「ふ、そうか。俺たちはどうやら、気が合うようだ」
「んん……っ」
顎を掴まれて深い口付けをされると、すぐに酸素が足りなくなる。ぼんやりしてきた視界の中で呼吸を求めてもがくと、ガリ、鈍い音と共に背中に爪を立てた。
「……お前は俺のものだ、エリアス。お前にとってもそうだと言ってくれ」
――でも、俺は嫌なんです、陛下。そんな名ばかりの皇后でいることが、苦痛でたまりません。
もしもあの時、そう言えていたなら、何かが変わっていたのかもしれない。




