9話 最終話
「はぁ……」
会社のデスクに座るなり、自然とため息がこぼれた。目の前には作業画面が映っているけれど、内容はまったく頭に入ってこない。
指先はキーボードの上に置かれたまま、ぴくりとも動かない。背筋を伸ばそうとしても、身体が重い。なにもかもが鉛のようだった。
あれから私は、どうにか立ち上がって出社した。
正直、通勤の日でよかったと思う。もし休日だったら、私はあのまま廃人になっていたかもしれない。
「芽衣さん! 死んだような顔してどうしたんですか?」
突然かけられた声に、びくりと肩が跳ねる。驚いて振り返ると、そこには呆れ顔をする笹山さんが立っていた。腕を組み、軽く眉をひそめながら、私をじっと見下ろしている。
彼女の顔を見た途端、なぜか泣きそうになる。
「笹山さん……」
「最近、いつ有給使いました?」
「いつだっけ? 覚えてないかも……」
「そんなんだから、自ら社畜になっちゃうんですよ?」
いつになく彼女の言葉が厳しい。
ただでさえ気持ちが弱っているというのに、心の傷口に沁みていく。
「そんな顔で仕事するくらいなら、有給使ってください」
「いや……有給使うなんて、申し訳ないし」
「申し訳ないって誰に対してですかー? もうー!」
彼女の言う通りかもしれない。こんな状態では、仕事もろくに手につきそうにない。
だけど、またあの部屋に一人で帰るのが怖い。
「ちょっと来てください」
淡々とした声でそう言うと、笹山さんはためらいもなく私の腕をグイッと引っ張った。
驚く暇もなく立ち上がらされて、そのまま無言で歩かされる。
連れてこられたのは、同じ階にある給湯室。
「……ここなら、ちょっと落ち着けますよ」
そう言うと笹山さんは慣れた手つきでコーヒーマシンを操作し、紙コップに淹れたてのコーヒーを注いでくれた。湯気とともに立ちのぼる香ばしい香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「いい匂い……」
差し出された紙コップを両手でそっと受け取った。あたたかい。それだけでなんだか涙が出そうになった
「で? どうしてそんな廃人みたいな顔なんですか?」
口調はきついけれど、笹山さんなりの心配だと分かる。だから私も嘘でごまかすのはやめようと思った。
「この間話してた二人が、実はいなくなっちゃって……」
そう言った瞬間、間髪入れずに言葉が飛んできた。
「フラれちゃったんですか!?」
食い気味すぎて少し驚く。前に何度か否定したはずなのに、やっぱり笹山さんは私たちの関係を完全に誤解している。そのせいで検討違いなことを言われてしまう。
「えっと、なんて言えばいいんだろう。まずフラれてはない。付き合ってないし。ただ……いなくなっちゃって」
「それでその顔ですか……」
そういうと、露骨にため息をついた。わかりやすく呆れているのが見て取れる。
そして少し声のトーンを落とすと、眉をひそめながら言った。
「私は正直、芽衣さんの恋を応援できませんよ。話を聞くと、勝手に家に居候して、子持ちなのにずっと家にいて。完全ヒモじゃないですか」
ああ、やっぱり完全に誤解している。言い返したい。誤解だって言いたい。
だけど……。灯牙さんはこっちでは仕事をしていないし、ずっと家にいる。いづなだってまだ子供だ。
笹山さんの言っていることは、だいたい事実だ。こっちの常識に当てはめると、反論の余地がない。
「……まあ、そういう見え方になっちゃうよね」
「運悪く目をつけられたんだなーって、正直、哀れな目で見てましたよ」
それは知らなかった。まさか哀れな目で見られていたなんて。そこまで言われて、さすがに苦笑いもできない。けれど、笹山さんは急に神妙な表情になる。
「でも……芽衣さんから幸せオーラが出てたんですよ。前までは毎日どんよりして、周りの空気まで悪くなるような。それだったら、いいのかな。見守ろうって思ってたのに……」
「そうだったんだ」
「このまま終わりでいいのか。また会いたいのか。芽衣さんの気持ちですよ……」
その問いにすぐに答えられなくて、目の奥がまた熱くなった。
笹山さんの前で泣くわけにはいかない。だから私は、ぐっと唇を噛みしめた。
「芽衣さんはどうしたいんですか?」
「え?」
その問いかけが、胸の奥に刺さる。どうしたいのかなんて、自分で自分の気持ちが分からないわけじゃない。
本当は、ずっと答えは出ていた。それでも、言葉にするのがやっぱり怖い。
「あ、いたい……戻ってきてほしい」
自分でも驚くほど、か細い声だった。心の奥底に隠していた気持ちが、ぽろりとこぼれてしまった。
笹山さんは一瞬目を見開いたが、すぐに肩をすくめてわざとらしくため息をついた。
「だったら、やることは決まってますよね? たまには有給消化してください。何度も連絡してみるとか。その人がいそうなところにいってみるとか。後悔しないように足掻いてきてくださいね。どうにもならなければ、神頼みでもしてください」
呆れたように言い捨てた笹山さんの声が、いつまでも耳に残る。
きっと彼女の何気なく言ったのだと思う。だけどその一言が妙に心に刺さた。
「……神頼み! いいね」
思わずぽろりと口からこぼれた言葉に、笹山さんが思いきり眉をひそめる。
「え? 選択肢の中で、よりにもよって、それが響いちゃったんですか?」
笹山さんは、訳が分からないと言った顔で、ぽかんと固まる。
でも私の中では、もう決まっていた。彼女の一言で、張り詰めた糸がぷつんと切れた。
……よし、行こう
私はデスクに戻るなり速攻で有給申請を出した。出社してまだ二時間も経っていない。あまりにも早すぎる退勤に、さすがに咎められるかと思った。
「お大事に……」
まさかの、即承諾。
上司の顔が妙に優しかったのが少し気になる。きっと、かなりやつれた顔をしていたに違いない。
会社を出ると、ある場所に駆け出した。計画性も、勝算性もない。ただ感情のまま地面を蹴り上げる。思考よりも先に身体が動いたんだ。私の心が「行け」と叫んでいるようだった。
しばらく走って、たどり着いたのは白狐神社。
見慣れたはずの鳥居が、今日は違って見えた。
走って来たせいで、息は荒く心臓はドクドクと痛いほどに脈打っている。
あたりを見渡すと、境内には誰もいない。背中を押すように吹いた風が、木々を揺らして葉が擦れた音が静かに響く。
灯牙さんは、ここの主と言っていた。こちらの世界とあやかしの世界が、いったいどうつながっているのかは分からない。
だけど、どこかで繋がれるかもしれない。
それがごくわずかな可能性だとしても、手繰り寄せたいと思った。
たとえ、それがほんのひとかけらの奇跡だとしても。
私は、信じていたいと思った。
鳥居をくぐり、ゆっくりと拝殿の前に立つ。
ここは記憶にも残っている場所だ。その時は「宝くじ2億円当選して、一生働かずに過ごせますように」私はそう願いごとを伝えた。
あの時の私は、それが一番の幸せだと思っていたから。日々の疲れと、生きる苦しさに心の病みは常に満タンだった。そのうえ、不満は一滴ずつ追加されていく毎日。表面張力のように、ギリギリをたもっているだけ。
そんな途方もない人生を変えてくれるのは、お金だけだと思っていた。
だけど、それは間違いだった。
迷路のような人生から、救い出してくれたのはお金ではなかった。
だからあの日の願いは、今の私には必要ない。
拝殿の前に立つと、ぐっと息をのみ心を決める。私はポケットから、ぐしゃりと潰れた宝くじを取り出した。以前の私が、何よりも欲しいと願っていたもの。それが今、手の中にある。
これは当たりくじだと思う。おそらく、高額当選している。
灯牙さんが「運を授けよう」と言ったその言葉は、確かに現実になった。
でも……。
私は、それをじっと見つめると、ゆっくりと掲げた。
まるで神さまに見せつけるように。
――ビリッ。
一気に真ん中から破く。
迷いはなかった。
震える手を止めることなく、さらに細かく、何度も破っていく。
ビリ、ビリ、ビリ……。紙片が風に乗って、拝殿の前をふわりと舞う。
「この運、お返しします!!」
力を込めて言い切ると、胸の奥がすっと軽くなった。
欲しくてたまらなかったはずの幸運を、自分の意思で手放した。
なのに、ちっとも悔いはない。それよりもこれから願うものの方が、私にとっては大切だったから。
スッと背筋を伸ばして、二拝、二拍手をした。
今、私が一番願っていること……。
その気持ちを、一度認めてしまったら、もうだめだった。
そんな縋るような思いで、ここにきた。
こんなことをしても、無駄なことかもしれない。
もっと、虚しくなるだけかもしれない。
そんなこと、私だってわかってる。
だけど、なにもせず諦めたくなかった。
今私の心にある願い事。
それは……。
「また、いづなと灯牙さんに会いたいです」
口にした途端、瞼の裏が熱くなる。
ずっと押し殺していた気持ちが、とめどなくあふれてしまう。
「私の人生を変えてくれた二人に、どうしても会いたい。あのままもう会えないだなんて、そんなの……」
喉の奥がつまって、これ以上声が出せなくなってしまう。視界は滲み、手を合わせる指先も震えてくる。倒れそうな体を支えるように、ぐっと唇を噛みしめた。
不意に境内の空気が、ふわりと揺らめいたように感じた。
心なしか、周囲が淡く、にじむように明るくなる。さっきまで肌寒く感じていた空気が、少しだけあたたかい。
「……めいめい?」
背後から声がした。聞き覚えのある、かわいらしい声。
まさか――。
驚いて振り向いたその瞬間、胸が大きく跳ねた。
そこには会いたいと願ったいづながいた。
信じられない光景。けれど、間違いなく目の前にいづながいる。すぐ後ろには、灯牙さんと御先さんの姿も見えた。
これは夢ではないだろうか。
疑うように、涙で濡れた目を擦る。
何度もまばたきをして、それでも彼らはそこに立っていた。
「めいめいっ!」
弾んだ声と共に、飛びつくように抱きついてきたいづなの体温。そのぬくもりが、冷え切った私の身体にじんわりと染みていく。
幻覚ではなかった。目の前でいづなは、無邪気に笑っている。
「ほんとに……ほんとに会えた……!」
言葉がうまく出てこない。
ただ、涙が止まらない。
いづなの笑顔が、目の前にある。それだけでこんなにも嬉しいなんて。
「めいめい、ないてる、の?」
私の反応を見て、いづなが心配そうな顔をする。
大きな瞳を覗き込ませて、小さな声で問いかけてきた。
「……ううん、なんでもない。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
そう言って、私は慌てて笑顔を作る。だけど、涙が止まらなくて、うまく笑えなかった。
そんな私の涙をじっと見つめると、小さな手でそっと頬をなでてくれた。そのぬくもりに、一瞬で冷え切った心に光が灯った。
「……慰めてくれるの? ありがとう」
「えへへー」
いづなもと小さく笑うので、自然と微笑みあった。
「驚いた。向こうに芽衣の声が聞こえたから……何事かと思ったぞ。どうしてここにいるんだ?」
拍子抜けしたような顔で、灯牙さんは言う。
その声には、どこか呆れと安堵が混ざっていた。
「……え? 聞こえてたんですか?」
「はっきりとな。『この運お返しします』と言っていただろう」
――聞かれてた!?
心臓が一気に跳ね上がる。まさかまるっと聞かれていたなんて。
「う、うそ……聞こえてたんですか……?」
情けない声が漏れた。願いを込めた一言のはずなのに、途端に恥ずかしくなって、顔が熱くなる
「こっちの世界とは、特定の場所でだけ繋がっているんだ。ここもその一つだ」
そう言いながら灯牙さんは、静かに境内を見回す。まるで、この場に満ちた目に見えない力を感じ取っているようだった。
この神社は、あやかしの世界と人間の世界をつなぐ「境界」のような場所なのかもしれない。
「芽衣の声が届いたとき……正直、我も驚いた。なんだか強く呼ばれたような気がしてな」
そう言いながら、私の顔をじっと見つめてくる。
「それで、ずいぶんと勇ましい捨て台詞を聞いたものだ。それによかったのか? あの紙切れを芽衣はあんなに欲していたではないか……」
「もう会えないと思ったら、必死だったんですよ……!」
「もう会えない? それはなぜだ?」
灯牙さんが不思議そうに眉を寄せ、軽く首をかしげた。
その何気ない問いかけに、私は固まってしまった。
……どうして? どうして、そんな顔をするの?
空気感ががらりと変わって、私の方が理解できない。
「え? だって、帰らなきゃいけないって……」
ぽつりとつぶやいて、私は助けを求めるように御先さんの方を向いた。
「はい。芽衣様のご協力のおかげで、無事に生誕祭に間に合いました」
「せい、たん、さい……?」
聞き慣れない言葉に、思わず繰り返す。頭の中に、疑問符がいくつも浮かんだ。
「私、お伝えしましたよね? いづな様の生誕祭があるので帰らねばなりません。と……」
「生誕祭……いづなの誕生日ってこと?」
そんなこと言ってたっけ?
いや、絶対に言ってない。私はぽかんと口を開けたまま、灯牙さんと御先さんを交互に見つめた。
「え、あの、すみません……生誕祭って、なんですか?」
おそるおそる尋ねると、御先さんはほんの少しだけ表情を緩めた。
「はい。いづな様の、年に一度の大切な日。それはもうお祝いせねばいけない掟があるのです。ですが――」
「ですが?」
「無事、楽しく終えました」
そこまで言って、御先さんはぺこりと頭を下げる。
「つまり、もう急いで戻る必要はないということです」
ぽかんとした私の脳内で、ひとつの重大な真実がゆっくりと広がっていく。
つまり、別れはなかったってこと?
もう会えなくなる。と焦った気持ちは、完全なる、私の勘違い……!?
「ちょ、ちょっと待ってください! それって、私だけが勝手に……!?」
耳まで真っ赤になるのが自分でも分かる。灯牙さんは、ちょっと困ったように眉を下げて笑った。
「我らは、また会えるものと当然のように思っていたが……」
「……聞いてないよ、そんなの……!」
恥ずかしさと安心とで、心の中がごちゃごちゃになる。私は両手で顔を覆って、情けない声を漏らす。すると、覆っていた隙間からわずかに視線を感じた。
そっと指の隙間からのぞくと、いづなが首をかしげて、まん丸の目でこちらをじっと見つめていた。
「いっちゃんのたんじょうびパーティーちたの」
その声にハッと我に返る。いづなにまだおめでとうと言えていないことに気づく。
「……誕生日おめでとう!」
「へへっ、ありがちょ」
にこりと笑って、でもどこか照れくさそうにモジモジと足元でつま先を合わせた。
「もう、会えなくなるなんていうことは、決してありませんよ?」
一通り話し終えたあと、御先さんが丁寧に補足を加えてくれた。
どうやら、私のほうが勝手に勘違いしていたらしい。
思い返してみれば、たしかに灯牙さんにも御先さんにも、「もう二度と会えない」なんて、一言も言われていなかった。
……だけど、あんなにも深刻な顔をして、まるでお別れのような空気を出されたら、勘違いだってするよ。
反論したい気持ちは山ほどあった。いざ目の前にいづなたちがいて、無事な姿を見てしまったら……。もう、いいや。そんな気持ちが胸の奥でふわりと湧き上がる。
「よかった……」
口からこぼれたのは、怒りではなく私の本音。間抜けな声が飛び出した。
それ以上の感情は、全て溶けていく。
「それでな、今後のことも話してきたんだ。我も向こうでの役割がある。いづなもこちらばかりにいるわけにはいかない」
眉根を寄せて真剣な顔をするので、私も息をのむ。
その通りだと思う。元々住む場所も世界も違うのだから。
私がいくら願ったところで、今まで通りなんて無理に決まってる。
そう思ったら、またずしんと心が重くなった。
「それで、いづなとも話したんだが……」
灯牙さんが言い終える前に、いづながひょこりと顔を出す。
「あのね……いっちゃんと、ととはかよいじゅまになるっ!」
弾むように軽い声。
その言葉の意味が理解できず、うまく返事ができない。
固まる私に向かって、灯牙さんは簡潔に言いなおす。
「芽衣が以前に言ってた『通い妻』それになろうかと」
途端に記憶が蘇る。
そういえば「最初に出会った頃、通い妻みたいに通いにしてください」と私が言ったんだっけ。
だけど、まさかその言葉を、二人が覚えているだなんて思わなかった。
「かよいじゅまになって、まためいめいとおいしーするの!」
「それって……」
私はいづなと灯牙さんの顔を交互に見つめた。
「また、お世話になります」
深々と頭をさげられたものが意味すること。
それは、また二人と一緒にいられるってことだ。
「いづなね、めいめいのごはんだいしゅき!」
「ありがとう」
「あとね、あとね、めいめいもだいしゅき」
「私もね、いづなのこと思ってたより好きになってみたい」
「いっちょだー」
あんなにも、息苦しいほどに寂しさで胸が押しつぶされそうだったのに。
二人に会った途端、こんなにも嬉しさで満ちていくなんて。
毎日生きることに嫌気がさしていた私の前に、突如あらわれたあやかしの親子。
数週間前の私は、社畜のように働く毎日に疲れ果てて、神様に「宝くじが当たりますように」なんてお願いをしていた。今思えば、それはちょっと罰当たりだったかもしれない。
でも、今の私は違う。お金とか、宝くじとか、そんなものはどうでもよくなった。
それよりも、このなんでもない日常が、ただ続けばいい。と心から願っている。
もちろん、生活するうえでお金は大切だ。だけど、私はそれ以上に、大切なものを見つけてしまった。
いや、今なら胸を張ってそう言いきれる。
これからの人生、またきっと迷うこともあるだろう。
そんな時は美味しいご飯を、大好きな人たちと一緒に囲めば……。どんなに暗い夜だって、きっと、乗り越えていける。かつての私が、そうだったように。
私にとって、本当に欲しかったもの。
あやかしの親子との美味しい日常は、もうしばらく続きそうです。




