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8話 溶け込んだ日常の消失



 洗い物を終えてリビングに戻ると、いづなはその場ですやすやと寝息を立てていた。

 テーブルに突っ伏すようにして眠っていて、小さな手は甘い香りをまとっている。

 頬に髪がかかっていて、そっと指でよけながら、つんとほっぺをつついてみた。


 もち……。想像以上に柔らかくて、ついもう一度触れる。

 何度触っても飽きないやわらかさに、思わず口元がゆるんだ。

 だけど同時に、胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みも重なる。


 この寝顔を見られるのもあとわずかだと、その事実を思い出してしまうからだ。

 そんなことを思いながらしばらく眺めていると、そばにいた灯牙さんが静かに口を開いた。


「芽衣、いづなのために……ケーキを作ってくれて感謝する」


 その一言はやけに胸に刺さる。改まって言われると、余計に苦しい。

 まるで、最後の感謝のように聞こえてしまうから。


 おそらく灯牙さんは、全部知っているのだろう。いつになく言葉が少ない気がする。


「あの……。いろいろ聞いてます……か?」


 おそるおそる聞いてみると、彼は短く頷いた。

 

「ああ、向こうと意思疎通は取れている」

「やっぱり……そうですよね」


 御先さんから伝えられていたのだろう。

 あの神社で話したことも、きっと。

 どうやって連絡を取っているのかはわからない。こっちでいうところの、スマホのような便利な通信手段でもあるのかもしれない。いや、もしかすると、もっと不思議なやり方があるのかな?


 そんなことを考えながら、私はゆっくりと息を吸い込む。「もう会えないんですか?」そう言いかけて、唇が震えた。


 続けようとした言葉は喉の奥に引っかかって、出てこない。以前の私なら、躊躇なく聞いていたと思う。

 だけど怖かった。聞いてしまえば、きっと本当に終わりが来てしまうから。

 わかっているはずなのに、改めて現実を突きつけられるのが怖くて仕方がなかった。



「……楽しかったなあ」


 それが、今の私に言える精一杯だった。

 喉の奥にいろんな思いが詰まって、他の言葉が出てこない。だからせめて笑顔だけでも……。そう思って、無理やり口元をゆるめた。


「ああ、楽しかったな」


 灯牙さんも、ぽつりと同じ言葉を返す。たったそれだけなのに、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。


「今日は、いづなの隣で寝てもいいですか?」


 静かにそう尋ねると、灯牙さんは少し驚いたように目を見張った。そして、どこか懐かしそうな声で言う。


「前に『誰かと一緒に寝るなんて絶対にイヤだ』と言っていなかったか?」


 それは、いづなが初めて「一緒に寝たい」と甘えてきた時に、私が口にした言葉だった。

 あの時の私は自分の時間が必要で、誰かと寝るなんて落ち着かないと思っていた。

 一人のほうが気楽で、孤独も悪くないと思っていた。

 ……そのはず、だったのに。



「今日は、なんだか一緒にいたくて」


 ぽつんとこぼれたその言葉に、自分でも少し驚いた。灯牙さんはしばらく黙って私を見ていたけれど、やがて小さく頷いた。


「……ああ。いづなも喜ぶと思う」

「ありがとうございます」


 その声は優しかった。優しすぎて心に染みるくらい。

 隣にいたすやすやと眠るいづなの手を触ってみる。ぷにぷにと柔らかくて、あたたかい。

 すると反射的に、ぎゅっと強く握られる。きっと無意識で握っているのだろう。むにゃむにゃと寝息を立てていた。


 私はそのまま横になり、その愛らしい姿をしばらく見つめる。

 いづなの可愛い寝顔を、脳裏に焼き付けるように。

 






 

 カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。光をうっすら感じた瞬間、まぶたがぴくりと動いた。次の瞬間には、はっとして身体を起こした。

 息を呑むようにして、あたりを見回す。


 ……いづな。

 記憶を慌てて呼び戻す。たしか私は、いづなの隣に横になって……。

 あの子の寝息を感じながら、ほんの少しだけ目を閉じたはずだった。


 そこまでは、はっきり覚えている。だけどその後の記憶がない。

 どうやら眠ってしまったらしい。気がつかないうちに瞼が落ちていた。

 なんとなく、胸の奥がざわついて、隣に顔を向けた。

 --いない!

 寝ていたはずの場所に、いづなの姿はなかった。布団に手を当てると、まだ温もりが残っている気がするのに、そこにはもう誰もいない。

 一瞬で心臓がきゅっと縮まった。どこか心が冷えていくような感覚に、私はすぐに立ち上がった。


 

「いづな! 灯牙さん!?」


 誰もいない、シンと静まり返ったリビング。部屋中に届くほどの声を張ったけれど、返ってくるのは静寂だけ。音が吸い込まれていくような、いやな静けさだった。


 もう一度、目をこすりながら隣を見る。灯牙さんがいつも寝ていた布団は、綺麗にたたまれていた。


 その意味を理解した瞬間、肩からすっと力が抜けていく。頭ではわかっていた。御先さんにも聞かされていたし、灯牙さんの様子からも覚悟はしていた。

 それでも、いなくなる瞬間には立ち会えるものだと思っていた。ちゃんと見送れるものだと、どこかで信じていた。


 

 部屋の空気がやけに冷たく感じる。まるで昨日までと違う部屋に迷い込んだような、妙な違和感。以前の生活に戻っただけなのに、なぜか息の仕方を忘れそうになる。


 思いふけながら、部屋の中を見渡したときだった。テーブルの上に、見慣れない白い封筒が置かれているのに気づく。その瞬間、心臓がぎゅっと縮こまった。

 導かれるように近づいて、震える指先で封筒を手に取る。


 いづなと灯牙さんからの手紙かもしれない。

 きっとそうだ。きっと……。

 胸の奥にふくらんでいた期待を、そっと大切に抱えながら、びりっと封筒を開ける。


 だけど――。たった一秒で、その希望はあっけなく打ち砕かれた。

 中に入っていたのは、便せんでもメッセージカードでもない。ぺらりと一枚、やけにカラフルな紙きれ。……宝くじ、だった。


 私はまじまじとそれを見つめる。目を疑ったけど、どう見ても間違いなく宝くじ。


 ああ、そういえば。最初に出会った日のこと。「ズボラ飯を教える報酬として、宝くじの当たり券が欲しい」私がそう言ったんだっけ。

 しばらく考えた末に、すべてがつながった。

 

 静まり返った部屋のなか、私は宝くじを見つめながら、深いため息を吐いた。

 喉の奥から、乾いた笑いがこみあげてくる。


「なんでよ。どうして……ちっとも嬉しくない」


 小さな声で、ぽつりとこぼれ落ちた。

 これが報酬だというなら、おそらく高額当選しているに違いない。

 それは私がずっと望んでいた夢だったはずなのに、心が微動だに動かない。感情がぽっかりと抜け落ちてしまったみたいだった。


 そんなことより、もう二人に会えないことが寂しくて仕方がないんだ。

 私は、手の中の宝くじをぐしゃりと握りしめる。くしゃくしゃに潰れたその紙は、かつて私が夢見ていたもの。でも、今の私にとっては、欲しいものではなかった。


 どうして、今になって気づくんだろう。

 どうして、もっと早く気づけなかったのだろう。


 最初は、あやかしの親子のことを、心底迷惑だと思った。

 勝手に居座り、ズボラ飯を教えてほしいだなんて。図々しいにもほどがあると思っていた。


 だけど、いつのまにか、一緒に過ごす美味しい毎日がどうしようもなく愛おしくなってしまった。

 

 大切なものは、失ってから気づく。ってよくいうけど、本当だったんだ。

 この苦しさは、私の中に二人がいたという証のようだった。

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