7話 失敗のないズボラケーキをお気に召す
家に帰る道のりを一人で歩いていた。街灯の明かりが、足元に影を落とす。ずんと重くなった足でなんとか地面を蹴っていく。
頭の中には、楽しかった記憶ばかりが浮かんでいた。
それは何気ない会話や、笑い声や、あたたかい食卓の光景。まるで走馬灯のように、次々と映像が流れていく。
御先さんは全て言い終えると、深々と頭を下げた。それからすっと姿を消した。
ばたきしたその間に音もなく、ほんの一瞬の出来事。まるで風のように余韻も残さず消えていった。
ああ、あの人もやっぱりあやかしなんだ。
そう思ったら、現実感がどっと押し寄せてきた。
明日の朝、いづなと灯牙さんは向こうに帰ってしまう。
次にまた会える保証なんてない。
そもそも私たちは住む世界が違う。そう考えると、会えなくなるのはきっと当然のこと。
そう頭で理解しようとしても、足取りはどんどん重くなっていく。
玄関ドアの前で立ち止まり、ノブに手をかけたときだった。
ふいにその手が止まる。
御先さんとの会話が脳裏に浮かんだ。彼と別れ際に交わした、たったひとつの約束。それは……。『いづなには、さよならと言わないこと』
もちろんきちんとお別れを伝えたい。伝えたいに決まってる。
だけど、別れを知るといづながひどく落ち込んでしまうらしい。いづなのことを考えて、何も言わずにそっと去るのだと。
思い出したら、また胸がずきんと痛む。なんて辛い約束だろうか。
別れも感謝も伝えられないなんて、そんなのあまりにも寂しすぎる。
「どんな顔をして会えばいいんだろう……」
玄関の前に立ったまま、私はそっと呟いた。胸の奥に溜まっていた悲しみが、今にも溢れそうになっている。きっとこのままでは、顔に全部出てしまう。泣きそうな顔で会ったら、いづなにも気づかれてしまうかもしれない。
それは絶対にダメだ。
私は両手の人差し指を、そっと口元に添えた。ぎこちなく引きつる頬にあてて、ぐいっと無理やり口角を持ち上げる。
「……笑わないとね」
作り物の笑顔でもいい。せめて最後の時間だけは、いづなの記憶と同じ普段通りの私で。
そう自分に言い聞かせて、パシンと頬を叩く。
「ただいま!」
ドアを開けると同時に、空回るほどの明るく言い放った。だけど返答はない。
あれ……?
いつもなら、いづながすぐに出てきてくれるのに。玄関に飛び出してきて「めいめいー!」って呼んでくれるのに。
まさか、もういなくなった……?
胸がひやりと冷たくなった。
嫌な予感に突き動かされるように、私は慌ててリビングへ駆け込む。
どきりと心臓がイヤな音を立てる中、私は目を見張った。
いづなは、リビングにちょこんと座っている。
姿が見えた途端、安堵が胸いっぱいに広がって私は大きく息を吐いた。
「あっ! めいめいだっ! おかえりー」
私が帰ってきたことに気づいたいづなは、にこりと顔をあげた。
弾んだ声にまた心が安らぐ。
良かった。一瞬だったけど、もう会えないかと思った。
愛おしさが込み上げて、思わずいづなをぎゅっと抱きしめた。
ふわふわした狐耳が頬に振れて、くすぐったい。
子供の体温ってどうしてこんなに高いんだろう。
いづなのあたたかさが伝染して、心までほっこりする。
「めいめい?」
「あ、いきなりぎゅってしてごめんね。いづながかわいくてさ」
不思議そうにするいづなに、慌てて言い訳をする。
「ししっ、いっちゃん、かあいーんだ」
可愛いと言われたことが嬉しかったらしい。
少し照れたような笑みを浮かべると、その場でぴょんと体を浮かせる。
「……ししっ」
「どうしたの?」
何も言わず、なにか企んでいるような顔をして、歯を見せて笑う。
「じゃーん」
陽気な声をあげると、なにやら絵が描かれた紙を掲げてみせた。
目の前に差し出された紙には、色とりどりのクレヨンで絵が描かれている。
「いづなが描いたの!?」
「えっへん! これはなんでしょーか」
突如はじまったクイズタイム。
その間もニマニマと、微笑みを我慢しきれない様子だ。
できるだけ、その笑顔の期待に応えたいと思った。ここはなんとしても当てたいところだ。
じいっと目を凝らして見つめてみる。白の画用紙には、黄色とピンクのクレヨンで描かれている。
……いったいこれはなんだろう。
誰かの似顔絵かと思ったが、人には見えない。人という選択肢は消そう。
おそらく猫かな。それとも恐竜?
しばらく頭の中で推理をした末に、当たり障りのない答えに辿り着いた。
「えっと……猫かな? かわいい猫!」
「ぶっぶー!」
頬を膨らませて唇を尖らせると、顔の前に両手を大きくクロスさせる。
どうやら、外れてしまったらしい。
だけど、その姿があまりにも可愛くて「外れてよかったかもしれない」そんなことを心の中で思う。
「しぇーかいはね……めいめいをかきまちた」
「わ、わたし……?」
思いがけない申し出に聞き返してしまう。少し遅れて頭が理解した途端、ハッと気づく。
まさか私の絵を描いてくれるなんて、考えも浮かばなかった。
外れたどころか、大失態をしてしまった。
改めて、もう一度まじまじと見つめてみる。
なるほど。この黄色い丸が人間の目に見えなくもない。
言われてみれば、完全に私である。大きめの相槌を打つ。
それは私の贔屓目だけではないはず。
これはきっと、かなりの天才かもしれない。
「大事にするね。宝物にする」
そう言った私を、いづなはにこりと満面の笑みで見上げた。その笑顔がまぶしくて、ほんの一瞬、さよならのことを忘れてしまいそうになる。
あと少ししかないのに。
こんなにも幸せをくれるなんて、ずるいよ。
初めて描いてもらえた似顔絵を、惚れ惚れと見つめていると。
「芽衣、少し話せるか?」
背後から聞こえたその声に、思わず身体がぴくりと反応した。振り返ると、そこには灯牙さんが立っていた。
静かなまなざしで、こちらを見つめている。
その瞳が、わずかに揺れているように見えたのは、私の気のせいじゃないと思う。
さっきまで笑っていた心が、すうっと静まって現実がゆっくりと戻ってきた。
ああ、きっと彼もわかっている。
今日が、最後になることを。
言葉にされなくてもそう確信に近いものがあった。
「例のことですか?」
「ああ」
また悲しい目をするので、私までつられてしまいそうだ。
なんだか重苦しい空気が辺りを包み込む。
そのときだった。「ぐぅ~~」と情けない音が鳴り響いた。
音のした方を見ると、いづながお腹を押さえている。
「……おなかしゅきました」
お腹の音の犯人はいづなだった。
思わず灯牙さんと顔を見合わせる。さっきまで張りつめた空気が、するりとほどけていくのがわかった。
「そうだな……」
「ふふっ、話の前に何か作りましょうか」
わざと軽く言ってみせると灯牙さんの口元にも、うっすらと笑みが浮かんだ。
その変化がどこか嬉しくて、胸があたたかくなった。私はくるりとキッチンに向き直る。
「私、作りたいものがあるんです」
「ほう」
灯牙さんが、少しだけ首を傾げるようにしてこちらを見た。
その視線を受け止めながら、私は小さく息を吸う。
ズボラ飯を一緒に作ることは、きっと今日で最後だ。
簡単だけど2人の笑顔が見れるようなご飯。
最後に相応しく、絶対に作りたいと思っていたもの。
「失敗しないズボラケーキ作ろうと思います」
そういった瞬間、いづなが私にぎゅっと抱き着いてきた。金色の瞳がキラキラと輝きだす。
「け、け、ケーチ!? ケーチって、あのけーち? いっちゃんがたびたいっていってたやちゅ!」
まぶしいほどの笑顔を浮かべると、はしゃいだ声で弾けるように紡ぎ出す。
「そう! いづなが食べたいって言ってたケーキだよ」
「やたー!」
いづなの顔がぱっと明るくなって、ぱちぱちと小さな手を打ち鳴らす。
あまりにも嬉しそうで、見ているだけでこっちまで笑顔になってしまう。
……この顔が見たかったんだ。
私がケーキを作ろうと思ったのには、ちゃんと理由がある。
数日前のこと。ちょうどテレビで、スイーツ特集の番組が流れていた。
ふわふわのスポンジケーキに、たっぷりのクリームと果物が乗っていて……。
いづなはその画面を食い入るように見入っていた。
どうやらいづなたちの世界に、こちらでいうケーキはまだ浸透していないらしい。
そんな姿を見たら、作ってあげたくなってしまう。その時から私はケーキを作ってあげたい。と心に決めていた。
「ケーキとやらは、むずかしいのではないか?」
「そうですね。私にケーキは難しいです」
私は清々しいほどに言い切った。
灯牙さんがわずかに目を見開くのがわかる。
でも私は、それに続けるようにきっぱりと頷いた。
オーブンで焼きすぎて焦げたり。反対に中が半生状態になってしまったり。実際、ケーキを一から作るのは、それなりに難しい。
でも今日作るケーキは違う。
「だから、私でも失敗しないケーキを作ります!」
ぱんっと手を打って、鼻高々と胸を張る。ズボラ飯の名にふさわしく、簡単で美味しくて。そしていづなが喜んでくれるもの。
灯牙さんは、ほんの少しだけ眉を下げて、それから静かに笑った。
そのやわらかな表情に、背中を押された気がして、私はさっそく調理に取り掛かろうと思う。
キッチンに立つと、踏み台を持っていづなもやってきた。
「よちっ、がむばるぞ」
ふんと鼻息を鳴らして、いづなは気合たっぷりだ。
踏み台があれば、いづなの身長でもカウンターに手が届くようになる。
「お手伝いしてくれるの?」
「うんっ! けーちでしょ? いっちゃんもつくりちゃい」
目を輝かせるいづなを見て、断る選択肢はなかった。今回はいづなにも手伝ってもらおう。
まずは買っておいたリンゴを薄切りに切っていく。
包丁を灯牙さんに任せるのは、まだ不安なので私が慎重に。
もちろん、私だって上手ではない。
丁寧に時間をかけて、なんとか皮をむき終える。
そのリンゴを今度は薄切りに切る。包丁を通すたびに、しゃりっと新鮮な音が響いた。
「りんご……おいちちょうね」
最初に「危ないから手を出さないでね?」そう念を押したので、いづなはきちんと守っているようだった。
薄切りに切られていくりんごに手は出さず、ただ食い入るように見つめるだけ。つまみ食いを我慢しているようだ。
見かねた私は、薄く切ったりんごを差し出した。
「いづな、あーん」
「あーん」
ひな鳥のように、ぱかりと小さな口を開けた。
薄切りに切ったばかりのりんごを、そっと放り込む。
「ん~~、おいちい」
切ったリンゴを一口かじったいづなが、ぱあっと顔を輝かせた。
耳に心地いい咀嚼音が、キッチンの静けさに溶け込む。料理中の味見って、私的に1番楽しい時間かもしれない。
「切ったリンゴを少しだけに煮詰めます。灯牙さん、出番ですよ」
「よしきた」
そばで見ていた灯牙さんも、気合いが入ったのか腕をまくった。
先ほど切ったリンゴを、バターを溶かしたフライパンに敷き詰める。
そこに砂糖と水を加えて、少しの間煮立たせていく。しばらく放置すれば、りんごのコンポートの完成だ。
「おいちそう……」
「そのままのりんごも美味しいけど、こうするともっと甘くなるんだよ」
「もっと、あまぁーいの?」
さっきのりんごを思い出したのか、ぷっくりした手で頬を包み込んだ。
反応が可愛くて、思わず笑ってしまう。
次にケーキの生地を作っていこうと思う。
牛乳と卵を混ぜ合わせて、そこにホットケーキミックスを加える。
「いづなにも手伝ってもらおうかなー」
「うん、おてちゅだいちゅる!」
「こうやって、ゆっくりまぜまぜできる?」
まずは私が実際にへら使って混ぜてみせる。お手本を見せると、いづなはこくこくと頷いた。
「まぜまぜ……できりゅよ」
小さな手にヘラを持たせると、緊張した面持ちで、ゆっくりと動かしていく。
少し危なっかしさはあるけれど、初めてにしてはとても上手。
何度か混ぜ終えると、満足そうに口角を上げた。
念のため、最後の仕上げに私がさっくり混ぜる。
これで下準備は完成だ。
ケーキの生地を最初から作るなんて、無謀な挑戦はしない。
ホットケーキミックスは簡単で、そして美味しい。私にとって救世主なのだ。
あとは焼くだけなのだけど……。
「では、これを使います」
調理器具を指さすと、灯牙さんといづなは目をぱちくりさせて同じ顔をする。
「え、それはご飯を炊くものではないのか?」
「いちゅも、おいちいごはんにしてくれるやちゅ!」
二人に見せたのは、普段も使っている炊飯器。
私たち人間にとって、炊飯器料理はお手軽だと浸透していると思う。
しかし、あやかしの親子にとって、炊飯器とは「ご飯を炊く道具」という認識だったのだと思う。その証拠に、驚いた様子できょとんとしている。
「今まではお米を炊く時しか使ってなかったけど、炊飯器って実はお米を炊くだけじゃなくて有能なんですよ?」
「ほう……」
手を口元に当てると、感心したように吐息を洩らした。
納得してもらえたところで、作業を進めていく。
まずは、くっつかないように炊飯器窯にバターを薄く塗る。りんごがくっつかないようにするための、ちょっとしたひと手間だ。
「ぬりぬり〜だね!」
横でいづなの楽しそうな声がして、つい笑ってしまう。それからスライスしたりんごを一枚ずつ、円を描くように並べていく。
きれいに敷き詰められていく様子を見ていると、なんだかちょっとしたアートみたいだ。
準備しておいたホットケーキミックスの生地を、そっと流し込む。とろりとした生地が、りんごのすき間をやさしく包み込んでいくのを見届けたら……。
あとは、炊飯ボタンをぽちっと押すだけ。
「よし、あとはおまかせ!」
ピッと音が鳴って炊飯器が仕事を始める。
炊飯器で作る料理のいいところは、やっぱり失敗が少ないところだ。
材料を入れて、スイッチを押せば、あとは勝手に調理してくれる。
シンプルだけど頼れる存在。ある意味、ズボラ飯の最強パートナー。
「けーち、でちた!?」
時計の針は、こくこくと過ぎていく。
炊飯器の中では、ケーキがゆっくりと確実に焼きあがっている。
とはいえ、炊飯器料理には待ち時間がつきものだ。
いづなはというと、早くも限界に近いようで、さっきから何度もキッチンを覗き込んでは、私の顔を見上げてくる。
「ん〜、あともう少しかなあ」
「しょっか……おえかちして、まってようか」
「そうだね。今度はととの似顔絵描いてみる?」
「うん、いっちゃん、がむばる!」
ぱっと顔を輝かせたいづなが、小さな手でクレヨンをぎゅっと握る。
その姿があまりに張り切っているので、自然と笑みがこぼれた。
いづなは色とりどりのクレヨンが、紙の上に散らばるのをじっと見つめている。
どれにしようかと、真剣な顔で迷いながらやがて青を選んだようだ。
炊飯器が調理をはじめて、じりじりと時間を刻む中、テーブルの上ではいづながお絵描きに夢中だ。紙をこするクレヨンの音だけが静かに響く。
時計を見ると、出来上がりまで、まだもう少しかかりそう。
だからこそ、こうしていづなが何かに夢中になっていてくれると、こちらとしてもありがたい。
それにこの何でもない時間こそが、今は一番愛おしかった。
「ねー? めいめい……」
「どうしたの?」
神妙な面持ちで、じっと見つめられた。あまりにも真っすぐな瞳に、どきりとして思わず待ち構えてしまう。
「けーち、でちたかな?」
……ケーキの話だった。
拍子抜けしたのと同時に、なんとも言えない愛しさが込み上げてくる。
このやり取りさっきもしたよね。と笑いそうになるけど、口には出さない。
それだけ、いづなにとってこのケーキが特別だということだ。
きょろきょろとキッチンの方に視線を向けて、今にも駆け出しそうな勢いで、そわそわしている。そんな姿がいとおしくて、つい口角がゆるんだ。
「ちょっと、見に行ってみようか?」
「いいの!?」
ぱあっと表情が明るくなった。いづなは喜怒哀楽がすぐ顔に出る。
「ふふっ、あとどのくらいかな?」
キッチンに向かおうと、腰を上げたときだった。
耳に届いたのは、炊きあがりを知らせる音。いづなが待ち望んだ時間がやってきた。
「でちた!」
その瞬間、いづなはがばっと立ち上がる。
ぴょんと跳ねるように椅子を飛び出し、そのままキッチンへ向かって駆けだした。
「ほら、とともだよ!」
「……うむ」
そう言って、いづなは勢いよく部屋の端へ向かう。
灯牙さんは同じリビングの少し離れた端っこで、静かに本を読んでいた。物音を立てることもなく、ページをめくる仕草も妙に落ち着きを放っていた。
お絵描きしているいづなに気を遣って距離をとってくれていたのか。それとも単に、端っこにいることが好きなのか。どちらにせよ、彼らしい立ち位置だった。
いづなは迷いなく、その袖をぎゅっとつかむ。灯牙さんは抵抗もせず、静かに立ち上がると小さくうなずいてキッチンへとついてくる。
リビングを出ると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。炊飯器からケーキの香りが漏れ出している。
いよいよご対面のときだ。私の胸も自然と高鳴ってくる。
「失敗していませんように」そう心の中で神様にそっとお願いしてから、炊飯器のふたを開けた。
パカっ。ふたを開けた瞬間、ふわあっと白い湯気が立ちのぼった。顔にあたるとほんのり熱くて、思わず目を細める。
その中から甘い香りが漂ってきた。焼けたりんごの香ばしさに、バターの深い香り。そしてミックス粉の香りが混ざって、まるでケーキ屋さんに迷い込んだような、あたたかな匂い。
キッチンの空気が一変して、暖かな雰囲気に包まれた。
いづなが「わあっ」と小さく声を上げて、炊飯器の中をのぞき込む。
「おいちちょう!」
嬉しそうに顔をくしゃっとさせるいづなを見て、私はほっと息をついた。
よかった。焦げてないし、ちゃんと膨らんでる。表面はしっとりときつね色で、見た感じはとてもいいと思った。失敗……してない!
胸の奥に安堵と小さな達成感が広がっていく。
いづなは、鼻をクンクンと動かして、満面の笑みを浮かべた。ケーキの甘い香りを、全身で味わっているみたいだ。
「今から取り出すよー! 熱いから気をつけてね?」
私はひとつ深呼吸をして、気を引き締める。
これからすることは、炊飯器窯からケーキを取り出すという、重大なミッション。
すぐそばで目を輝かせて待っているいづなの期待に、全力で応えたい。責任重大任務だ。
両手にミトンをつけて、炊飯器の釜の大きさに合わせたお皿をそっとかぶせる。
そのまま……えいっと、ひっくり返す。
ごつん、と重みのある音。そのまま慎重に、そろりそろりと内釜を持ち上げていくと――。
「わあ~!」
「おお……」
「けーちっ!!」
歓声が同時に上がった。
湯気の中から姿を現したのは、りんごがぎっしり並んだ美しいケーキ。つやつやとした焼き色に、飴色に近いりんごの表面が、まるで宝石のように見える。
崩れることなく、ふっくらと丸みを帯びたそのフォルムに、思わず私も感嘆の息をもらす。
「よかった……崩れなかった」
ほっと肩の力が抜けると同時に、誇らしい気持ちがじんわり湧いてくる。
「けーち! こりぇがけーち!」
いづなはというと、目をらんらんと輝かせて飛び跳ねている。
ぱちぱちと小さな手を打ちながら、半開きの口からは今にもよだれが垂れそうだ。
「食べようか」
「うんっ、たびたいー!」
包丁でふっくらしたケーキをカットして、まだあたたかいうちにお皿に取り分けていく。
断面にはりんごの層とふんわりとした生地が、交互に並んでとても綺麗。
そして、それぞれのお皿を持ってリビングへと運んでいく。
香ばしい匂いをほのかに漂わせながら、そっと運ぶのはたった数メートルの距離。なのに、なぜだか背筋が伸びた。
テーブルに並べ終えて、もう一度見直してみる。私が作ったものとは思えない。まるでケーキ屋さんに並んでいるみたいな仕上がりだった。我ながら素晴らしい出来だと思う。
「こ、こりぇがケーチ!」
いづなが、目をキラキラさせながらケーキをじっと見つめる。
いつもなら、食卓に着いた瞬間にがぶりといくのに、今日ばかりは特別みたいだった。
その様子に、胸の奥がじんわりあたたかくなる。この一瞬のために作ったんだと、心から思えた。
「食べよっか。出来立てのケーキを食べられるのは、手作りの醍醐味だよ!」
「だい、じょみ……いいね!」
きっと……というか絶対に意味はわかっていない。
だけど私の言葉をまるっと真似て、ドヤ顔を浮かべているいづなが可愛くて、つい頬がゆるむ。
「では……」
私が小さく合図を出すと、それぞれが静かに手を合わせた。
「いただきます」
「いただましゅ!」
「いただきます」
三人の声がぴたりと重なる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がほんのりあたたかくなる。
いづなは待ちきれない様子で、フォークを持つとすぐさまケーキに突撃。口に運ぶとすぐにぱあっと顔が輝いた。
「んっ! おいち! けーち、おいち!」
頬いっぱいに詰め込むと、もぐもぐと頬がハムスターみたいに動いた。ルンルンと身体を揺らすいづなの様子に、思わず私までニコニコしてしまう。
「ほう、ケーキというのはあたたかいのか……」
隣でフォークを手にした灯牙さんが、まじまじとケーキを見つめながら、ぽつりと漏らす。
……あ、これはちょっとまずいかもしれない。
たしかに、目の前のこのケーキは焼きたてであたたかい。そのあたたかさが、美味しさを引き立てていると思う。
しかし、平均的に認識されてるケーキはきっと違う。冷蔵庫で冷やされている方だと思う。そう思ったけれど……。口を開きかけて、私はあっさりとその思考を手放した。
「美味しければ、それが正義です!」
無理やり丸く収めようとする。
適当な理屈で押し通す私を、灯牙さんはしばらく見つて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。異論はない」
どうやら納得してもらえたらしい。
私は満足して、ついに自分のケーキにフォークを入れる。
すっと通る感触は、しっとりとしていて、ちょうどいいやわらかさ。一口食べた瞬間、口いっぱいに美味しいが広がる。
「おいしい~~」
口の中いっぱいに、バターの香りと焼きりんごの甘さが広がる。ホットケーキミックスのやさしい風味が全体を包み込んでいて、りんごとの相性もいい。思わずうっとりするほどおいしくて、反則級の美味しさだ。
「うまい!!」
すぐ隣では同じタイミングで食べた灯牙さんが、轟くような声をあげる。よほど美味しかったのか、そのあとじっとケーキを見つめている。
「ケーキというのは、素晴らしいな。世の中にこんなにうまいものがあったのかと。あまりの旨さに時が止まったぞ」
灯牙さんは、じっとケーキを見つめたまま、真顔でそんなことを言った。
それはまるで威厳を感じるトーンだった。
私はつい笑いそうになったけれど、心の中では激しくうなずいていた。
「このまえみたけーちは、まっしろでふわふわしてたね」
ケーキをぺろりと平らげたいづなが、ふと首をかしげてつぶやく。
いづなが言っているのは、テレビに映ったショートケーキのことだと思う。生クリームのことを真っ白でふわふわ、と表現しているのだろう。
その横顔は、どこか不思議そうで、でもちゃんと覚えているようだった。
痛いところをつかれた気がして、私は一瞬だけ視線を泳がせる。たしかに、この焼きりんごケーキとは、だいぶ見た目が違う。
こんがり焼いたこのケーキを、堂々と「ケーキです」と出してよかったのかな……。
そんな疑惑が一瞬、胸の奥に浮かんだそのとき――
「我にとっては、このケーキが一番だな」
不意に、灯牙さんが口をはさんだ。
私ははっとして彼を見た。彼はフォークを持ったまま、ケーキの断面を静かに見つめていた。
表情はいつもの通り落ち着いているのに、その一言には、まっすぐな重みがあった。
「甘さもちょうどよくて、あたたかい。……それに、焼きたてというのは、悪くないな」
どこかぶっきらぼうだけれど、確かな言葉。その響きに、胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じた。
私のケーキを受け取ってくれている。その気持ちが嬉しくて、ちょっとだけ目頭が熱くなった。
「……ありがとう、ございます」
目の前のふたりが「美味しい」と言ってくれたこと。
笑顔になってくれたこと。
それが、すべてだ。
これは私にとって、世界で一番美味しいケーキだから。
そのあと、灯牙さんといづなは、パクパクと嬉しそうにケーキを頬張っていた。
二人とも無言になって、夢中で食べている。その様子がなんだか可笑しくて、私はそっと笑った。
こんなにも喜んでもらえるなら、また作ってみようかな。
なにせ、手間もかからず簡単で、私でも失敗しないのだから。
「また、作ろうか……な」
ふと口からこぼれた言葉。その途中で、声が自然と萎んでいくのがわかった。
ああ、そうだ。またなんて、ないんだった。
いづなと灯牙さんがここにいるのは、今日が最後。それは自分が一番よく知っていたはずなのに。
楽しい時間と、美味しいケーキ。二人の笑顔を見ていたら、その現実をすっかり忘れてしまっていた。
「めいめい? どちたの?」
いづなが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。小さな眉をひそめて、のぞき込むその目が、真っすぐで余計に胸が苦しくなった。
子どもにこんな顔をさせるなんて私は大人失格だ。ぎゅっと胸の奥が痛んで、慌てて笑顔を作る。
「んーん、なんでもないよ。ちょっと、ケーキが美味しすぎてびっくりしちゃっただけ」
ほんの少し無理をして、口元だけで笑ってみせた。冗談っぽく言えば、きっと隠せると思ったから。
いづなはじっと私の顔を見てから、それ以上は聞かずに笑って「おいちかったね」と返してくれた。




