4話 大嫌いな牛乳をお気に召す
……え?
いづなのお母さんを、灯牙さんが殺した?
言葉の意味をすぐに受け止めきれず、頭が真っ白になる。
でも確かに彼はそう言った。耳鳴りのような静けさの中で、心臓の音だけがやけに大きく響く。
信じたくない。そんなことあるはずがない。そう思うのに、彼の表情は嘘をついているようにも、冗談を言っているようにも見えない。
それを理解した途端、背筋にぞくりと冷たい空気が流れた。同時に不安がじわじわ心に浸透していく。
しばらく沈黙が続いた後、神妙な面持ちで息を吐くと、灯牙さんはゆっくりと話しはじめる。
「いづなが生まれてからも、我は育児というものを一切しなかった。全部沙雪に任せていた。その頃、向こうの世界では派閥争いというもんがあってな。三大勢力と呼ばれる、狐、鬼、天狗。それぞれが力を持ち、三つの種族が拮抗しながら支配するのが、我々あやかしの世界だ。表向きは平穏に保たれているが、裏では権力の奪い合いが絶えない」
それはまるで小説やゲームの世界の話で、私はごくりと息を呑む。
「我も今の地位をまもらなければいけない立場。そのせいで自由はない。決して沙雪と娘を危険な目に遭わせぬよう、表に出さぬようにしてきた。今思うとそれが結果的には、沙雪を孤立させてしまったのかもしれないな」
肩を落とすその姿に、私は何も言えなかった。
灯牙さんは人とは違い、何十年もの間生きているあやかしなのかもしれない。だけどその言葉はただの父親の後悔に見えた。
「家に帰れない日々が続いたときだった。沙雪が疲労で倒れた。連絡をもらって急いで帰ったが……もう、手遅れだった。我が殺したも同然だ」
そう言い終えた灯牙さんは、悔しさに歪んだ表情で唇を噛んだ。目は伏せられ、静寂が私たちを取り囲む。
殺しただなんて。最初はその言葉の衝撃に、私は息を飲んだ。でもそれは違う。彼が自分を責めているのだ。愛する人を失った後悔と苦しみに、自分自身で罰を与え続けている。その悲しみが、痛いほど伝わってきた。
「それからなんだ。いづながご飯を食べなくなったのは。なにより食べることが大好きでよく食べる子だったのに……」
「……そうだったんですね」
「完全に我の責任だ」
私はなにも言えなかった。ただ、胸が締めつけられて、視線をそらすこともできない。
灯牙さんが背負ってきたものは「向こうの世界」の均衡を保つという、あまりに重い役割だった。
彼は誰かのために戦っていたのだと思う。家族のために戦っていたのかもしれない。だけど結果として守れなかった。沙雪さんもいづなちゃんの笑顔も。
その十字架を、灯牙さんは今も背負い続けているんだ。
「それからいづなと向き合う時間をたくさん作った。料理も紗雪の代わりに作る努力もした。だが、全然上手くいかなくて……。困り果てていた。そんなときだった。芽衣と出会ったのは……」
「わ、私?」
灯牙さんは、少しだけ口元をゆるめた。それは喜びの笑顔というより、どうしようもない安堵と戸惑いが混ざった、力の抜けたような笑みだった。
「驚いたよ。いづながパクパクと美味しそうに食べる姿を見て」
今思えば、いづなが食べている姿を見た灯牙さんは、不自然なほどに目を丸くしていた。
ただの驚きじゃなかったんだ。
あの時の目の奥には、どうしても埋まらなかった心の隙間と、こんなにも深い背景があったなんて。
「だからあんなに驚いてたんだ……」
「あぁ、こんな情けない話をしてしまって。我は父親失格なんだ」
「失格なんかじゃない!」
あまりにも自虐するように言うので、私は思わず口を挟んでいた。
だって、いづなの笑顔をたくさん見てきた。
灯牙さんがいづなを見つめる優しい瞳も。
「父親失格だなんて、そんなことは絶対にないです」
一息に言い切った。
灯牙さんは、ぽかんとしたようにこちらを見て、言葉を失っていた。
一瞬目を見開いたあと、ふっと肩の力が抜けたように小さく笑う。
「ははっ……芽衣の言葉の力はすごいな」
少しだけ張りつめていた空気がほどける。
「すごい……ですか?」
「そう言ってもらえて、胸に重くのしかかってたものが、少しだけ軽くなったような気がするよ」
そう言いながら彼は微笑んだ。でもその笑みは、どこかぎこちなくて無理をしているように見える。
きっと本当は、軽くなんかなっていない。彼の背中に積もっているものは、私のたったひと言で溶けるようなそんな軽いものじゃない気がした。
だって彼の瞳は、ずっとどこか遠くを見つめているようには悲しみの色がある。それは初めて会った時からずっと。
なにか力になりたい。
そう思いながらも、簡単でないことくらい私にだってわかる。それでも……。
「明日、私休みなんです! せっかくなのでどこか出かけませんか?」
それは単なる思いつきだった。ただ、事情を聞いてしまった以上。このまま灯牙さんを放っておくことができなかったんだ。
そうして迎えた翌朝。
けたたましいアラームの音に起こされた私は、いそいそと準備をはじめる。
休みの日に、アラームをかけるだなんていつぶりだろう。いつもは絶対に早起きなんてしてやるもんか。その勢いで休日はずっと寝ているのに。
「めいめい……おはよ」
目を擦りながらいづなが起きてきた。やはり昨日は夜更しさせてしまったのかもしれない。
ふさふさとしっぽを揺らしながら歩くいづなは、目が半分しか開いていない。
「おはよう。私今日はお休みなんだ。みんなでお出かけしない?」
「……お、おでかちぇ?」
しばらくの間があった後、ワンテンポ遅れて反応が返ってきた。
半開きだった目がくりっと開くと、金色の瞳がきらきらと輝きだす。
「おでかちぇしゅる! いっちゃん、しゅる!」
喜んでくれているのだろう。ふさふさとした尻尾が左右に揺れている。まるで犬が飼い主に向けて、尻尾を振って愛情表現をするみたいだった。
「じゃあ、ととを起こしてきてくれるかな?」
「あいっ!」
元気いっぱいの返事のあと、いづなは風のように駆け出していった。
そして次に耳に届いたのは「ぐえっ」とも「うぐっ」ともつかない、何とも苦しげな声。
たぶん、灯牙さんのお腹に跳びついたのだと思う。
姿は見えないのに、なぜかその一部始終がくっきりと頭に浮かんだ。ぴょんと跳ねて、どすんとぶつかり、へにゃっと倒れ込むいづなの姿が。
頭に浮かぶ光景に、思わずクスッと笑ってしまった。
準備が終わるとさっそく外に飛び出した。
空は雲一つなく、どこまでも青が広がっている。
まだ少し寒さの残る風が、着ている服の隙間からひゅうっと入り込んでくる。身を縮こませる私とは違って、いづなは風に負ける気配はない。
「あっるこう~。ありゅっこう~」
たどたどしい言葉で、いづなは陽気に歌をうたう。
両手を広げながら、弾むような足取りで先を歩いていく。
今日の予定は、近くの公園でひと遊びしてから、帰りにスーパーで食材の買い出し。
どちらもいづなの足でも歩いて行ける距離だ。
その小さな背中を追いながら、私もそっと息を吸い込む。普段忙しく過ごす私には、久しぶりに感じる澄んだ空気だった
「たのちみだね」
先を歩いていたいづなは、くるりと振り返ると弾んだ声で言う。
「うん! そうだね」
「へっへ〜」
いづなと灯牙さんは、狐耳を隠すために帽子を被っていた。
尻尾も服の下にすっぽりと収められている。
こうして並んで歩いていれば、誰も二人があやかしだなんて思わないだろう。少なくとも見た目だけなら、変装はバッチリだ。
しばらくすると、近所の公園にたどり着いた。
朝の早い時間だからか、まだ人影はまばらでベンチに腰掛けている老人が一人と、ゆっくり散歩する親子の姿がちらほら見てるだけ。
その静けさに、そっと胸をなでおろした。いくら変装をしているとはいえ、人混みの中ではどうしても落ち着かない。なるべくなら目立たず過ごしたい。
そんな私の心配をよそに、公園の姿を見た途端にいづなの顔がパァッと明るくなった。
ぱっと灯牙さんの手を離すと、勢いよく駆け出していく。
「いっちゃん、ありぇやりゅ!」
そういって指さしたのは、ブランコだった。
私たちが返事をする前に、すでに座っている。そこら辺にいる子供となんら変わりない姿に、思わず笑みがこぼれた。
「早いなー。じゃあ背中押してあげるね」
ブランコに座った小さな背中を押した。
キーキーと古びた音がなるたびに、いづなの弾んだ笑い声が重なる。
「きゃははっ、たのちぃ!」
そこでふいに視線を感じた。
振り返ると、ブランコから少し離れた場所に、灯牙さんが仁王立ちしている。腕を組んで、まるで見張りのように微動だにせず立っていた。
……なんだかその光景に違和感を覚える。
いづなはブランコで夢中になって遊んでいた。そのすぐそばにいるというのに、灯牙さんは遊具には一切近づこうとしない。
本当は一緒に遊んだ方が、いづなだってもっと喜ぶはず。
なのになぜだろう。あんなに距離を取って、突っ立ったままなのは。
その理由を考えたとき、昨日の会話がふと頭をよぎった。
もしかしたら、遊び方がわからないのかもしれない。
そう思って見直すと、灯牙さんの表情が少しだけぎこちなく見えた。
「いづな、ちょっと待っててね」
私のほうから灯牙さんのもとへ歩いていく。
「灯牙さん。そんなところで突っ立ってないで、一緒に遊んであげてくださいよ」
「……困った。遊び方が分からない」
弱りきった表情でそう言った。どうやら、私の勘は当たっていたらしい。
しばらく考えた末に、私は彼の腕を無理やり引っ張ってみた。
「な、なんだ……?」
「私だって、子供との遊び方の正解はわかりません。でも……いづなが笑ってるなら正解でいいんじゃないですか?」
困惑している灯牙さんの大きな背中をそっと押した。その先では、ブランコに座ったままのいづなが、嬉しそうに笑っている。
「とと! いっちょにあしょぼ!」
「……あ、あぁ」
困ったように眉をひそめたまま、灯牙さんは無理に笑ってみせた。
ぎこちないその愛想笑いに、ほんの少しだけ不安が心をかすめる。
大丈夫かな。うまく遊べるのかな?
そんな不安が膨らんでいく。けれど、それはほんの一瞬で必要のないものとなった。
「ハハっ!たのちぃね」
なぜなら数秒後にはいづなの弾けるような笑い声が、青空の下に広がったのだ。
その声につられるように、灯牙さんもようやく肩の力を抜いてかすかに微笑んだ気がした。
公園でしばらく遊んだあと、その足でスーパーへと向かった。
近所にあるスーパーで、よく使う馴染みのあるお店だ。
初めてくるお店にいづなは緊張しているのだろうか。
灯牙さんに抱っこをねだると、ひしっとしがみついているようだった。
怯えてる子猫みたいでかわいいな。
そんな風に思ったけど、口には出さずに、心の中にそっとしまった。
私はカートを押して、お店の中を回っていく。
冷蔵庫の中は空っぽだ。いづなのために作る料理の材料と、自分のための買い物も済ませてしまおう。
そう思いながら、次々と買い物かごに入れている時だった。
「あっ! そりぇはだめでし!」
灯牙さんに抱っこされていたいづなは、大きな声でいうと、するりと降りてきた。
頬を膨らませながら、かごに入ったあるものを指さす。
「え? これが苦手なの?」
聞き返すと、こくこくと何度も頷いた。
ふくれっ面でいづなが指さしているもの。
それは私が日ごろからよく飲む銘柄の牛乳パックだった。
「いっちゃん、にゅうにゅ、きらい!」
「そうなんだ……。どういうところが嫌いなの?」
いづなは頬を膨らませて、唇を尖らせたまましばらく考える。
「なんか、なんか……きらいなの!」
さっきまでの勢いが少しだけしぼんだ声で言い放つ。さらに、ふんっと分かりやすく顔をそむけた。
それから背伸びして買い物かごから牛乳を取り出すと、元の棚へと戻しにトテトテと足音を立てて歩いて行く。
わざわざ棚に戻すほどとは。
よほど牛乳が苦手らしい。
牛乳ってたしか子供の成長に必要な栄養が多いはず。
料理のことをよく知らない私でも、なんとなくだがその意識がある。
なにしろ、ズボラ飯は栄養とのバランスは悪い。
だからこそいづなの体のことは、少しでも気にかけてあげたいと思った。
牛乳飲ませてあげまたいなあ。
ひと呼吸おいて考えてみる。
そこであることを思いついた。
少しだけ昔の記憶がたぐり寄せられる。
私が子供の頃、お母さんがよく作っていたあの料理。
これはいいかもしれない。
そう考えた私は、いづなが意識を違うところに向けているうちにさっと牛乳をカゴに戻した。
そのあとも、いづなの注意がカゴの中に向かないよう、あの手この手で気を逸らし続ける。
灯牙さんもなんとなく察してくれたようで、気づけば大人二人がかりで連携プレーをしていた。
傍から見れば、なかなか必死な光景だったと思う。
なんとか買い物を終えた私たちは、家までの帰り道をゆっくりと歩いた。
そこは車の通りが少なく、歩道も広い。
3人並んで歩いても、まだ余裕があるくらい広い道だった。
いづなの小さな歩幅に合わてゆっくり歩いていく。
そういえば、いづなと初めて会った日もこうして一生懸命に歩いてたなぁ。
子供の歩くスピードってこんなに遅いんだって思ったんだっけ。
想い馳せていると――。
手のひらにぎゅっとあたたかな感触。
視線を落とすと、いづなに手を握られていた。
びっくりして、いづなと見つめると「へへっ」と小さな歯を思いきり見せて笑う。
小さな手は私の手の体温より、はるかに高い。
柔らかくて、でも強く握れば壊れてしまいそうなほど小さい手。
そんな初めてのぬくもりに、なんだか心の奥底まであたたまるようだった。
またぎゅっと握られるので、ぎゅっと握り返した。
家に帰ってくるなり、いづなと灯牙さんはまっさきに帽子を脱ぎ捨てた。
やはり、狐耳をしまっているのは窮屈だったのだろうか。
いづなは、ぱたぱたと耳を小さく震わせると、ほっとしたように目を細める。
そのフサフサした様子に、思わずこちらまで頬が緩んでしまう。
「ぐうーー」
しばらく見入って入ると、さっそくお腹の音が聞こえてきた。
いづなは公園でたっぷり体を動かしていた。その分、お腹も減っているだろう。
「おなかしゅいた……」
「ふふっ。待っててね。今から美味しいご飯作るからね!」
さっそくズボラ飯作りに取り掛かる。
すると、リビングで待っているはずのいづなが、キッチンに目を輝かせてやってきた。
「いっちゃんも、てちゅだう!」
顔を出してきたいづなは、意気揚々とした鼻息が聞こえてきそうなほど。
たどたどしく腕まくりまでしている。
いづなの気持ちは嬉しい。それに、子供の好奇心には応えたいところだ。
しかし、今からつくるズボラ飯はいづなの苦手な牛乳を使う。
決して料理するところを見られてはいけないのだ。
なんて言おうか迷っていると……。
「いづな、今回の料理はあちあちするかもしれないんだ。今回はととに任せてもらえるかな?」
灯牙さんはいつもの落ち着いた声のまま、いづなに分かりやすいように砕けた言い方で伝える。
「えー。わかっちゃよ……てれびみていい?」
しょんぼりと少しだけ肩を落としたいづなは、リビングへと戻っていく。
悲し気な背中に、ちょっとだけ罪悪感が押し寄せる。
「いづな、悲しそうですけど大丈夫ですかね?」
「あぁ、大丈夫。子どもはコロッと切り替えられるから。それに、今回は秘密ミッションなので」
そういって人差し指を口元に当てた。
その端麗な顔をぼんやりと見つめて、ついドキリとしてしまう。
動揺が広がりかけて、すぐに考えることをやめた。
今回はいづなの苦手な牛乳を克服するという重大な目標がある。
ドキドキなんてしている場合ではないのだ。
「これから作るのは、牛乳をたっぷり使ったリゾットです」
「り、ぞっと?」
もしかすると、向こうの世界にはリゾットという料理は浸透していないのかもしれない。
灯牙さんは、首を傾げているので、おそらく分かっていない。
「私も子供の頃は野菜全般大嫌いで。母がこの料理は簡単だからってよく作ってくれたんですけど、玉ねぎとか人参とか。細かく切って入れられてたのを知らなかったです」
「ほう……」
「いづなも無理して野菜を食べるというより、美味しく食べているうちに……いつの間にか野菜を克服できてたらいいですね」
そう言って、隣を見ると口角を上げて優しい笑みを浮かべていた。
不意打ちの優しい笑みに、またちょっとだけ心が揺れる。
近くで見ても、綺麗な顔をしている。あまりにも綺麗で気が動転してしまった。
浮かんだ邪念を振り払うように、顔を左右に振る。
……気合いを入れなおした私は、さっそく準備に取り掛かる。
これから作るのは、牛乳をたっぷり使ったリゾット。
リゾットというと難しく感じるけど、私が作るのはズボラ飯。
本格的なリゾットとは違って、誰にでも簡単に作れる。
まずは、玉ねぎをみじん切りにする。それから、しめじも形が分からないくらいみじん切りにしようと思う。
本来は、しめじまで細かくする必要はない。
だけど、今回はいづなに野菜を食べてもらおうキャンペーン中だ。
しめじの独特のフォルムは、子供が苦手意識を持ってしまうかもしれない。そのために、原形がわからにくらいには、小さく切っていく。
最後にベーコンを一口サイズの小ささに切る。
下準備はこのくらい。
「あとは、炒めていくだけです。灯牙さん、やってみましょう」
真剣な表情で仁王立ちしていた彼に問いかける。
すると、緊張した面持ちで神妙深く頷いた。
フライパンにバターをサッと溶かして、玉ねぎ、しめじ、ベーコンを炒めていく。
きっと炒める順番はあるのだろうけど、今回は全部みじんぎり。もう全部入れてしまって構わないだろう。
そこにいづなが苦手な牛乳を、たっぷりと加えていく。
子供の頃の私みたいに、克服してくれたいいな。そんな思いを込めながら、ひと煮たちさせる。
ふと横を見ると、灯牙さんはかじりつくようにフライパンに向かっている。
よほど真剣なのだろう。顔が強張っていた。
「後はご飯を入れて、味付けにコンソメと塩コショウを振れば終わりです」
「なんと、ここまであまり時間が掛かっていないような気がするぞ!」
驚いた様子で目を丸くさせるので、思わずくすっと笑いそうになる。
新鮮な反応がおもしろくて、私の気分はまるで料理講師だった。
煮立ってきたところにさっそくご飯とコンソメを入れて、ゆっくりと混ぜる。そこにチーズを入れると、一瞬で溶けてリゾットにとろみが増す。最後に塩コショウで味を調えれば完成だ。
「ほう、沙雪がいなくなって、料理に挑戦していたが、こんなに手際よくできたのは初めてかもしれない」
私は返答に困ってしまう。
感無量な面持ちの彼には申し訳ないが、そこまで感動するものではないからだ。
そもそも、この料理は工程が驚くほど少ない。だからこそ、ズボラ飯なのだ。
出来上がった料理をさっそく運んでいく。
「いづな、お待たせ~」
テーブルに並べたリゾットを見るなり、いづなは目を輝かせる。同時にふさふさと尻尾を上下にゆらした。
楽しみにしていることが、瞬時に伝わってくる。
「わぁ~。いいにおいしゅるね……」
鼻をクンクンと動かして、部屋中に広がる美味しい匂いを嗅ぎとっているようだった。
いづなの口元が少しゆるんで、今にもよだれが落ちてきそうだ。
「待たせてごめんね」
「ううん、いっちゃん、ひとりでもまてるの」
えっへん!と言わんばかりに、鼻高々と胸を張った。
その姿があまりにもかわいらしくて、思わず頭を撫でる。
ふわふわの狐耳をなでると、気持ちよさそうに目を細めた。
「本日の献立は、ぎゅう……」
献立を紹介しようとして、慌てて口をつぐむ。「牛乳」と言ってしまいそうだったからだ。
「ぎゅう……?」
いづなにもしっかり聞こえていたみたい。
きょとんと不思議そうな顔で私の顔を見上げる。
「ほ、本日の献立はリゾットだよ!」
「り、じょっと?」
なんとか言い直せたので「ふぅ」と一息つく。
目の前にあるリゾットからは、美味しい匂いと湯気がたちのぼっていく。
食欲が刺激されて、ごくんと唾を飲み込む音が重なる。
「それでは……」
掛け声をかけると、一斉に両手を合わせた。
「いただきます」
「いただましゅ」
勢いのある挨拶をしてから、いづなは得意げにすぐにスプーンですくってみせる。スプーンに乗ったリゾットから、湯気がのぼるのをみると、まだきっと熱々だ。
「熱いから気を付けてね」
「フーフーするんだぞ」
今にも口に運びそうないづなの手を止めて、灯牙さんは熱を冷ますように息を吹きかける。
隣で見ていたいづなは、真似をして頬を膨らませると、たどたどしくもフーフーと息を吹きかけた。
「とと、ありがちょね」
にんまりと口角を上げて、弾んだ声でいう。
この微笑ましい光景は、誰が見ても素敵な親子にしか見えない。
なんだか、見ているだけで自然と心があたたかくなる。
「めいめい! フーフーしたからたべりゅね?」
ドラマを見ているように客観的に見ていると、いづなの声に呼び戻される。
まるで、この優しい物語の住人になれたようで、心が躍るように揺れた。
「ふふっ。どうぞ召し上がれ」
小さな口をいっぱいに開けると、スプーンで口へと運んでいく。
見守っていると、途端に緊張してきた。
いづなは苦手な牛乳を使ったことに、気づくだろうか。
マズいと言われてしまうかもしれない。圧迫感にじわりじわりと心が押しつぶされるようだった。
見届けるように、息をのんでじっと見つめる。
「ん~、おいちぃ」
もぐもぐと口を動かしながら、幸せな顔をする。
どうやら、苦手な牛乳だとはバレなかったようだ。
その証拠に、どんどん口に運んでいく。
視線をずらすと、同じく見守っていた灯牙さんと目が合った。
思っていたことは同じだったようで、満足そうな表情で深く頷く。
苦手な牛乳を使ったリゾット。
食べてもらえるか、正直なところ不安があった。
目の前でパクパク食べる姿を見ると、不安が溶けていく。
「では、我もいただこうかな」
灯牙さんは低く貫禄のある声でいうと、きちんと両手を合わせて軽くお辞儀をした。
そして、綺麗な作法でスプーンによそい、そのまま口に運んでいく。
「う、うまい!」
簡潔な感想。それがまた嬉しい。
「良かった。私も食べようっと」
目の前で2人の美味しい顔を見ていたら、私の空腹が限界を迎えそうだった。
すぐに一口運ぶと、口いっぱいに美味しさが広がる。
「はぁ~」
美味しいの前に、自然とため息がこぼれる。
牛乳とコンソメは相性がいい。
細かく刻んだおかげで、野菜の存在は全くなかった。言われないと、これはいづなも気づかないだろう。
我ながら良い出来栄えに、自然と口角があがる。
「めいめいのつくりゅ、ごはんだいすち」
「これはね、ととがつくったんだよ?」
いづなは目を丸くさせる。私と灯牙さんの顔を交互に見ると、まだ信じられないといった顔をしていた。
「ととが……ちゅくったの?」
「あ、あぁ」
気恥ずかしいのか、ちょっと歯切れの悪い返事だった。
「しゅごいね! ととの料理おいちかった」
満面の笑みになったいづなは、弾むような声でいう。
すると、強張っていた灯牙さんの表情がやっと緩んだ。
しかし、笑顔が浮かんだ表情は、次の瞬間にガラリと変わる。
顔を歪ませると、涙を我慢するように唇を噛みしめた。
「は、初めてなんだ。いづなに美味しいと言ってもらうのは……」
そういって、泣き顔を隠すように大きな手で顔を覆う。
「何度作っても、試行錯誤しても『マズイ』『もう食べたくない』と言われてしまって」
声はかすかに震えていた。
心配になってそっと顔を覗き込むと、覆った指の隙間から、きらりと涙がこぼれているのが見えた。
いづなが作ったご飯を食べてくれた。そのことが嬉しかったのだと思う。それは美しい涙だった。
涙を見せたくないのか、彼はくるりと背中を向ける
「とと? どうちたの?」
「あぁ、な、なんでもないよ」
突然そっぽを向いた灯牙さんを、いづなは首をかしげながら見つめる。
きっと今までにも、相当な努力を重ねてきたのだと思う。
いづなに「美味しい」と言ってもらえるその瞬間のために。
大きな背中は、嗚咽を隠すように小さく震えていた。
「ととはね、いづなに『美味しい』って言ってもらえて嬉しいんだよ」
言葉に詰まった灯牙さんの代わりに、私はそっと説明した。
きっと、嬉しくて自然と涙が溢れてしまったんだ。その気持ちは私にも覚えがある。
私の作った料理を、いづなと灯牙さんが「美味しい」と言ってくれたときに感じた想い。
胸の奥にじんわりとあたたかな、何かが灯るようなものだった。
それは何よりも尊く、やさしい気持ちだったのを今でも思い出せる。
「しょっか。おいちぃはうれしいんだ……」
言葉が伝わったようで、いづなはこくこくと頷いた。そして、両手を手の横に持ってくると、大きく息を吸った。
「とと! おいちぃよ! ととの料理おいちぃよ」
背中は向けたままだけど、灯牙さんとの距離はすぐそばだ。
それなのにいづなは大きな声で、一生懸命に言葉を届け続けている。
その小さな体で、まっすぐに思いを伝えようとする姿に、胸の奥がじんと熱くなる。
気づけば、私まで涙がこぼれそうになっていた。
「めいめいも、ありがちょね」
「え?」
「いちゅも、おぃちぃごはんつくってくりて、ありがとござます」
くるりと私の方に体を向けて、いづなはたどたどしくも頭をぺこりと下げた。
その瞬間、胸の奥でずっとこらえていた何かが、音を立てて崩れ落ちる。
こんなの、ずるいよ。
込み上げてきたのは、悲しさでも苦しさでもない。
心をじんわりとあたためるような、優しい涙だった。それが静かに、頬を伝っていく。
「……食べてくれてありがとね、」
必死に絞り出した声は、震えていたと思う。
目の前にいるいづなの顔も、涙でぐにゃりと歪む。
「よちよち」
泣いてる私を気遣ってくれたのだろうか。
小さな手のひらで私の頭を、優しく撫でてくれた。
「ないてもね、いいんだって」
「え?」
「なくことはわるいことじゃないって、ととがよくいっちぇるよ」
おぼつかない言葉で、それでも一生懸命に想いを綴る。私は深く頷いて、いづなの言葉を受け止めた。
「そちてね、泣いたあとには、にこってわらうんだよ? かかがいつも言ってた」
「お母さんが……」
初めてだった。
いづなの口から「かか」という言葉を聞いたのは。
きっと、これまでずっと口にしないようにしていたのだろう。
無理もない。こんなにも小さな体で、最愛のお母さんがいなくなるなんて。
そんな現実、簡単に受け止められるはずがない。
「かかはね、もうあえないの。さみちぃけど……でもさみちくない。だって、いっちゃんにはととも……めいめいもいるでしょ?」
「わたし?」
いづなはこくりと頷いた。
「だからね、さみちぃくないんだ」
どんなに辛かったのだろう。
どんなに悲しかったのだろう。
こんなにも小さな体で、私の想像をはるかに超えるものを背負っている。
そう思った瞬間、胸が押しつぶされそうになるほど苦しくなった。
最初の一粒がこぼれてしまえば、もう涙は止まらない。
涙でふにゃりと歪んだ視界の中で、いづなはにこりと笑っていた。
あぁ、なんて愛くるしいのだろう。
「にぃーー」
目の前でいづなは、わざとらしくら口角をあげる。
そうだった。
泣いた後には笑うんだっけ。
服の袖で乱雑に涙を拭った。そして、ニコッと口角をあげる。
「ししっ! 次はととだよ!」
そういって、いづなは灯牙さんの正面に回り込む。
「……そうだったな。紗雪の口癖だったもんな」
しばらくの間のあと、いづなと灯牙さんはくるりと振り返る。
にこーと口角をあげて、同じ顔をしていた。
だけど灯牙さんの笑顔は、どこかぎこちない。それがまた妙におかしくて、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「たくさん泣いて笑ったところで。重大発表をしようかな。いづな、たくさん食べたな?」
「うん! おいちかった」
なにやら重大発表をするらしい。
私もなんのことだかわかっていない。
「実はこのリゾット、いづなのきらいな牛乳がたくさん入っているんだ」
「にゅうにゅ?」
牛乳を使っていたことを報告するとは思っていなかったので、私の方がきょとんとしてしまう。
いづなは、不思議そうに首を傾げている。きっと、意味がわかっていないのだと思う。
「にゅうにゅ、いっちゃん。きらいだよ?」
「このリゾットには牛乳が入ってたんだ。苦手だと思っていたものでも、調理方法によって、こんなに美味しくなる」
「……おぃちかった。でも……にゅうにゅうはきらい」
語気が弱々しく声が消え入りそうになる。いづなは、分かりやすく肩を落とした。
「今すぐ克服しなさい。なんて言わない。だけど、とともがんばるから、一緒に克服できるよう頑張っていこう?」
あらためて考えれば、リゾットを食べれるようになったからと言って、牛乳を克服したわけではない。
きっと、今牛乳をコップに注いで出せば、とんでもない勢いで拒否されることだろう。
だけど……。
「……うん! とともがむばるなら、いっちゃんもがむばる!」
それは底抜けに明るい声だった。
テーブルの上には、きれいに空っぽになったお皿が並んでいる。食べ残しは一切なく、ペロリと完食されていた。
もちろん、牛乳を完全に克服したわけじゃない。
また違う日なら、眉間にしわを寄せて「やっぱりきらい」って言うかもしれない。
それでも、今は克服できた。
この日の目標は、たしかに達成できたのだ。
たとえそれがほんの小さな一歩だったとしても、いづなの小さな歩幅で進んだ、大切な一歩。
その足取りは、少しずつかもしれない。でも確実に前へ向かっている。
なんだか不思議だけど、私の方が前向きな気持ちになれた気がする。




