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3話 ズボラトーストをお気に召す

 

 毎日、けたたましいアラームの音にたたき起こされるのが私の日常だ。

 窓から差し込む朝の光で目覚めるなんて、そんな優雅なことは自分には無縁。

 ……のはずだった。

 けれど今朝は、アラームが鳴る前に自然と目が覚めた。

 なんだか、ぐっすり眠れた気がする。

 いつもは音に追われるように無理やり体を起こすのに、今日は心も体もふっと浮くように軽い。

 なんだか不思議な気分だ。ただ眠っただけのはずなのに、体が軽くていつもと違う。



「あしゃだよー」


 不思議に思ってしばらく考えていると、同時に弾んだ可愛らしい声が耳に届く。

 視界に入ってきたのは、金色のくりっとした瞳。

 お腹の辺りに重みを感じて視線を向けると、私の身体の上にいづなが座っていた。


「い、いづな!?」


 名前を呼ぶと、にんまりと口角をあげた。そして、顔を首元に押し付けてくる。

 犬みたいに頭をこすりつけてくるので、モフモフとした感触がくすぐったい。 


 現実を思い出して、寝ぼけていた頭も一気に目が覚める。

 そうだった。あやかしの親子もこの家にいるんだった。

 

「あしゃだよー」


 元気な声とともに、いづなが私の手をぎゅっと握った。

 ぷくっとした小さな手に引かれるまま、私はふらふらとリビングへと歩く。

 すると、正座でぴしりと座っている灯牙さんと目が合った。

 彼は私に気づくと、浅く頭を下げる。



「おはよう」

 

 朝とは思えないほどきりっとした表情。その姿は凛とした雰囲気で、こちらまで畏まってしまう。

 対する私はと言えば、寝ぐせのついた髪を気にしながら、少し控えめに挨拶を返す。


「……おはようございます」

「よく眠れたか?」

「は、はい。なんだかいつもよりぐっすり眠った感じがします」


 眠りが深かったのだろうか。普段は体が重くて頭もさえないのに、不思議と体は軽い。


「それはよかった。眠りを妨げる音は消しといたぞ?」

「眠りを妨げる音……?」

「あぁ、ひどく甲高い音が其方の部屋から聞こえてきたので消しておいた」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋にざわざわと嫌な予感が走る。

 

「お、音……? ま、まさか」


 慌てて部屋に駆け戻り、壁に掛けられた時計に目を向けた。

 視界に飛び込んできた現実に、サーッと血の気が引いていく。

 時計の針はとっくに、家を出る時間を過ぎていた。


「目覚まし時計を止めたんですか!?」


 思わず声を荒げてしまう。すると灯牙さんは、まるで何のことかわからないと言いたげに、きょとんと目を丸くした。

 ……その表情を見て、悪気はなかったのだとすぐにわかる。

 けれど、焦りと苛立ちがどうしても押さえきれない。



「……っ。ち、ちこく……しちゃう」

  

 責め立てたい衝動を我慢して、すっと飲み込む。

 今は言い合いをしている時間もないと思ったからだ。

 慌てて洗面所に向かい、ひどい寝癖をサッと直した。


「あ、あの……仕事に行かないといけなくて」


 私は灯牙さんにズボラ飯の作り方を教えると約束している。いろいろ説明したいところだが、今はとにかく時間がない。


「帰ってきたら、料理も教えますね。今は……仕事に行ってきます!」


 私の顔は切羽詰まった表情をしていると思う。唇はひきつり、目元はこわばって、髪は寝ぐせのまま。お世辞にも爽やかな朝とは言えなかった。

 そんな私に、いづなが玄関まで走ってきてくれた。


「いってらっしゃい~」


 まだ幼い声でいうと、小さな手を一生懸命に振っている。その姿に胸の奥がじんわりとあたたかくなる。 急がなきゃと頭ではわかっているのに、立ち止まらずにはいられなかった。


「……ありがとう。いってきます!」


 たったひとこと、それだけ言って家を飛び出した。それから背中に小さな声が届く。


「がむばてねー!」


 その声にほんの少しだけ、焦りが和らいだ気がした。



 私が働く成丸商事は、昭和のイヤな名残が根強く残る会社だ。

 朝は就業開始より早く来るのが常識。

 定時を過ぎても帰らずに残業するのが美徳。

 働き方改革とやらで、ここ数年は多少マシになった。とはいえ、社畜と呼ばれても否定できない労働環境に変わりはない。


 今朝もその“常識”にすがるように、全力疾走で会社へ向かった。

 駅からの道を息を切らせて駆け抜け、ギリギリでタイムカードを滑り込ませた。

 なんとか遅刻は免れたみたいだ。全力疾走したせいで荒くなった息を整える。

 これが朝一番の仕事というのなら、すでに今日のタスクは終えたも同然だ。

 


「……っ笹山さん、私今日は絶対残業しないから」


 少し息を切らしながら、隣のデスクに座る笹山さんに声をかけた。

 彼女はすでにパソコンに向かっていて、カタカタとキーボードを打つ手を止め、こちらを振り向く。


「えっ、そんなこというの珍しいですね」


 目を丸くしまるで珍しいものでも見るように見つめてくる。

 それも無理はない。普段の私は毎日のように残業をしていた。

 笹山さんが驚くのも頷ける。彼女の視線に少し気恥ずかしくなって、私は前髪をかきあげながら息を整える。

 

「実は今日は絶対に帰らないといけない事情があって」

「了解ですー。でも今繁忙期ですよ? 定時に帰れますかね?」


 そう言って大きなため息をつき、彼女は顔を伏せた。

 その姿を見て、思わず私もため息を返す。

 彼女の言うとおりだと思った。

 定時で帰りたい気持ちは山ほどある。けれど、現実はそんなに甘くない。

 なにしろ今は3月。成丸商事は3月が決算月。数字に追われ確認に追われ、残業が当たり前になる季節。それは世間からは繁忙期と呼ばれるもので、地獄の入り口のようなものだ。

 定時退社なんて夢のまた夢で、毎年息つく暇もないほど忙しい。

  

「いつもの二倍頑張ります……」


 誰にともなくそう呟いて、私は椅子に腰を下ろした。

 パソコンの起動音が、今日の戦いの始まりを告げているように聞こえた。

 


 ♦


 

 せわしなく動いて、地獄みたいな忙しさだった。

 残業しないと宣言したところで、それが達成できるかは別問題。

 やはり定時に帰るなど夢のまた夢だった。

 なんとか仕事を片付けたが、定時をとっくに過ぎた20時。結局今日も残業になってしまった。




 足早に会社を出ると、腕時計の秒針と競うように一心に足を動かした。


「はぁ~~大丈夫かな」


 なんだか胸がそわそわして落ち着かない。

 一人暮らしが長い私にとって、自分の家に他の誰かがいるのは初めてのことだった。

 それに加えてあやかしの親子だなんて。


 なにか盗むだなんてしないだろうし、人間よりは信じられるのかな?

 自問自答を繰り返して、安心材料を探していろいろ考えてみる。しかし、心はいつまでたっても落ち着かなかった。

 さまざまな思惑が頭に浮かぶ中、部屋の前について勢いよくドアをあけた。

 


「……た、ただいまー」


 いつもは暗くしんと静まり返っているはずの部屋。

 玄関ドアをあけると、まず明るい光が視界に飛び込んできた。

 テレビの音だろうか。リビングからはガヤガヤと賑やかな音も聞こえてくる。


「あ、おねしゃん! おかえりなさいっ」


 リビングから顔を覗かせると、そのままとてとてと体を横揺れさせながら、いづなが走ってきた。

 私の足元まで来ると、にこりと笑って顔を見上げる。


「えっと、こういうときは……おちごと、おつからしゃまでちた」

「え?」

「がむばってきたひとには、そういうってととがいってた」

「あ、ありがとう」


 いつも疲れた体を引きずって帰ってくると、出迎えるのは真っ暗な部屋と冷たいくらいの静寂だった。

 

 いづなの可愛らしい声と、あたたかな言葉が妙に体に沁みる。


「とと~、おねしゃん、帰ってきたよ」

「おかえり。お勤めご苦労だった」


 灯牙さんは硬い言葉の中に、どこか優しさが残る。



「いづな、お姉さんの名前は芽衣だ。芽衣さんと名前で呼びなさい」

「め……い、」


 いづなは私のことを「お姉しゃん」と呼んでいる。

 芽衣と呼ぶのが難しいのだろうか。いづなは顔を歪ませて首を傾げた。


「……めいしゃん、めいめい?」

「め、めいめい!?」

「うんっ! めいめい!」

「普通に芽衣でいいよ?」

「めいめいってよびたいの……イヤ?」


 悲しげに顔を傾げて、柔らかいほっぺがたぷんと揺れる。

 この表情はずるい。

 どんなお願いも断れなさそうだ。


「……いいよ。好きに呼んで」


 これを意図などなくやるのだから、子どもってすごい。


 めいめいという呼び方も、間違ってはいないが妙に胸のあたりがかゆくなる。

 だけど、いづなに呼ばれると可愛いあだ名に思えてきた。自然と顔も綻ぶ。

 


 


「あのね、あのね……!」

「ぐぅ~~」


 いづながなにか話そうと口を開いた時だった。

 同じタイミングで、盛大なお腹の音が鳴り響く。


「もしかして、なにも食べてないとかじゃ……ない、よね?」


 鳴りやむことのない空腹を知らせる音に、イヤな予感が押し寄せる。

 まさか、朝からなにも食べてないなんてこと――。


 頭に浮かんだ疑念を消し去りたくて、おそるおそる灯牙さんに視線を送る。

 すると、気まずそうに目を逸らされた。


「実は芽衣が仕事に言った後、一度向こうに帰ったのだが……そこで出されたご飯をいづなはやはり食べなくてなぁ」


 どうやら向こう……。

 灯牙さんといづなが暮らしていた界隈に帰っていたらしい。

 そんなに簡単に帰れるんだ!?

 ちょっと……。いや、だいぶ引っ掛かったが、なんとか飲み込む。


「……おなかしゅいた」

 

 いづなは力なく言う。きっといづなが寝る時間帯も重なっているのだろう。

 目もとろんと眠そうに見える。

  

「とにかく、まずはご飯を食べようか。よし、なにか作ろう……か、な」

 

 言いかけた途中であることを思い出す。

 夕ご飯のために買い物に寄ってから帰ろうと思ってたのに。

 早く帰らないと。その焦りから、買い物することを完全に忘れていた。


「わ、忘れてた……」


 私の日常を取り戻すには、灯牙さんに早く料理を覚えてもらわなければならない。

 適当に数品教えて、この家から帰ってもらおうと意気込んでたのに……。


「はぁ~」


 忘れてしまった自分に落胆してため息が出る。

 

「あの、急いで帰ることだけを考えてきてたから買い物するの忘れちゃいました」

「……いっちゃん、おなかしゅいた」


 いづなはぽそりと呟くと、うな垂れて肩を落とす私の顔を覗き込んできた。

 その瞳を見ると、一気に罪悪感が押し寄せる。


「いづな、何も食べないだなんて……しっかりご飯は食べないと元気が出ないよ?」

「……めいめいのご飯食べたかったの」


 潤んだ瞳で消え入りそうな声で呟いた。いづなにこんな表情をさせてしまったことに、心を締めつけられるような息苦しさを感じる。

 迷ってる暇はないと思った。私はぐっと唇を噛み締める。


「待ってて。今すぐになにか作るから!」

  

 ぐっと腕をまくり気合いを入れると、いづなより奥の方から違う音色のお腹の音が鳴り出した。

 ちらりと見ると、灯牙さんは視線を逸らす。すぐに音の犯人だと分かった。おそらく彼も空腹なのだろう。

 

 


「食パンがあったはず……。あった! 賞味期限はギリギリ今日まで」


 パントリーにあった食パン2枚を使おうと思う。

 お腹を空かせたいづなを待たせるわけにはいかない。

 とにかく時短、簡単に作れるもの。


 備蓄として置いていたツナ缶を取り出す。

 冷蔵庫からはマヨネーズを取り出した。



「灯牙さん、一緒に作りましょう!」

 

 これから作るのは、即席ツナマヨトースト。

 隣には、真剣な瞳で仁王立ちしている灯牙さん。

 ズボラ飯を教えてほしいという彼の意気込みが、ひしひしと伝わってくる。

 正直、誰かに教えるほどの料理じゃない。

 だけど、私は灯牙さんにズボラ飯を教えると約束してしまった。

 それに彼の真剣な気持ちに応えたいと思ったのだ。


 

 

 まずはツナ缶の油を切って。

 次に、容器に移したツナとマヨネーズを混ぜ合わせる。


「2人ともアレルギーとかないですか? チーズをのせてもいい?」

「特に食べれない食材はないぞ」


 食パンの上にさっき作ったツナマヨをのせる。平に伸ばしてとろけるチーズをのせて……。

 あとは、トースターで焼くだけ。

 

「はい、終わりです。焼き上がりを待つだけ」


 料理にかかった時間は5分。いや、もっと短いかもしれない。

 このタイパの良さがズボラ飯の良いところ。


「なんと……手際がいい」


 感心したように息を吐いた。

 手際がいいというか、料理工程が驚くほど少ないのだ。

 事実を言おうとして、なんとなく飲み込む。


 しばらくすると、こんがり食欲を刺激する匂いが漂ってきた。



「……いい匂いしゅる」

 

 いづなが目をキラキラさせて、焼き上げるトースターの中を覗きこんでいる。

 美味しい匂いに釣られたのだろうか。気付けばキッチンには全員集合していた。



「そろそろかな、」


 だいぶ使い古したトースター。

 焼き上がりの時間はだいたい把握している。


 トースターを開くと、一気に美味しい匂いがあたりに広がっていく。

 

 溶けたチーズの画力の破壊力は強い。

 ツナマヨにのせたチーズはとろけて、今にもはみ出しそうだ。


 チーズをのせればだいたいの料理は美味しくなるとおもう。

 もちろんこれは持論である。



 「お、おいちそう……」


 じっと焼き立てのトーストを見ながら、いづなはごくりと唾を飲む。


 半開きのままになったいづなの口元からは、今にもよだれが零れ落ちてきそうだ。



「テーブルに持ってくね! 熱いうちに食べよう」


 リビングに移動すると、いづなは待ちきれないといわんばかりに体をくねらせる。



「どうぞ。召し上がれ」


 目を輝かせるふたりを見て、思わず自然と笑みがこぼれた。こんなに無邪気な顔をされると、こちらまで嬉しくなってしまう。


「いただきます」

「いただましゅ」

 両手を揃えての挨拶の声が、ぴったりと重なる。

やっぱり親子なんだなと実感する瞬間だった。


 歓迎されているあたたかい空気に包まれながらも、私は緊張していた。

 本当に美味しく作れているだろうか……。そんな不安が少しだけ顔をのぞかせる。

 いづなは喉をごくんと鳴らし、小さな口を思いきり開けると、トーストにかぶりついた。

 ――サクッ。


 こんがり焼けた食パンから心地よい音が響く。

 その音だけで、なんだか幸せな気持ちになるから不思議だ。



「ん~~おいちぃ!!!」


 口の中に食材が入ったまま、いづなは大きく口を開いた。

 一生懸命に美味しいを伝えてくれるので、緊張していた肩の荷が降りる。


「では、私もいただこう」


 いづなを隣で見守っていた灯牙さんは、いよいよトーストにかじりつく。

 サクッと音が鳴った瞬間、目をきらりと丸くさせる。

 そして、2口目と続けて口に運んだ。


「たったあれだけの料理工程なのに、こんなに美味しいとは……」


 灯牙さんも嬉しそうに微笑み、ゆっくりと一口を口に運んだ。

 美味しいという言葉を聞けて、なんだか胸があたたかくなる。

 

「いつもはどんな料理を食べていたんですか?」

「料理担当の者が、いづなの身体のことを考えて薬味など気を使ってくれているな」


 ずっと気になっていたこと、いづながなぜご飯を食べないのか。

 話を聞くと、なんとなくだが少しだけ見えた気がした。


「その薬味って美味しいんですか?」

「薬味というのは、美味しいためのものではないからな。健康のためだ」

「料理が体の健康を作るって言うのには、凄く賛成です。だけどそれを食べないなら……まずは美味しく食べることが大事じゃないですか?」


 灯牙さんは目を丸くする。

 私は余計なことを言ってしまったかもしれない。


「美味しく食べること……か」

 

 心配する私をよそに、しみじみ呟くと彼は何度も頷いた。

 

「芽衣の料理は、美味しさだけを突き詰めてるってことだな」


 向けられる無垢な瞳を直視できない。

 正しくは美味しさを突き詰めているというより、いかに楽で簡単に作れるかを突き詰めているからだ。

 訂正しようと思った。だけど、彼の満足そうな顔を見たら、なんだか言えなくなってしまう。

 私は慌てて話を逸らそうと、違う話題にすり替える。

  

「あ、あの……。さっき向こうに戻ったって言ってましたけど。こっちの世界と灯牙さんたちの世界と、簡単に行き来できる感じですか?」

「まぁ、むずかしくはない」

「だったら通い妻みたいな感じで、通いにしてもらえません?」

「かよい、じゅま?」


 私の問いに、たどたどしい言葉が聞こえてくる。ハッとして視線を下ろすと、いづなは不思議そうに首を傾げていた。


「通い妻とはなんだ?」


 どうやら灯牙さんにも伝わらなかったらしい。

 そうだった。彼にもこっちの常識は通じないんだった。

 決して悪い言葉ではないけれど、妙に言いにくくて、いたたまれない気持ちになる。


「説明すると、長くなるのですが……えっと、つまり! 遊びに来た時にズボラ飯を教えるので、泊まらなくてもよくないですか?」


 そう提案すると、いづなは顔を左右に振った。


「ううん。いっちゃん、めいめいとねんねする!」

「えぇ……」

 

 じぃっとキラキラした瞳に見つめられて、余計に困ってしまう。



「そうだ! いっちゃんのあげりゅ、」


 返答に困って固まっていた私に、いづなはグイッと差し出してきた。

 それは、食べかけのトースト。

 

「いや、大丈夫だよ? いづなが食べてよ」

「いいの!」


 いづなは少しムキになって頑なに押し付けてくる。


「そうだな。我々だけで食べてしまってはいけないな」


 そういうと、今度は灯牙さんもかじりかけのトーストを差し出してきた。


 真剣なまなざしを向けられるも、どうしても躊躇してしまう。

 顔を左右に思い切り振って断ってみる。


 しかし、拒否の反応を示したにも関わらず、右と左からじりじりとトーストが近づいてきた。

 我ながらさすがに人様のトーストにかぶりつくなんて図々しいと思いつつ、迫ってくるトーストを拒み切れなかった。

 観念して、小さめの一口でかじりつく。


「……美味しい」


 感想が自然に飛び出した。

 ズボラトーストは簡単なので、自分でよく作って食べているものだ。

 なのに、不思議と普段より美味しく感じる。


「……なんでだろ」


 もぐもぐと口を動かした。口いっぱいに美味しいが広がっていく。それと同時に胸のあたりがなんだかあたたかいような。

 

「みんなでいっちょにたべるとね、もっとおいちぃの!」


 いづなの無邪気な言葉が、妙に心に刺さった。

 そうか、そうだった。

 忙しさに追われてずっと忘れていた感情が、ふっと蘇る。

 誰かと一緒にご飯を食べる。笑い声の心地よさ。

 それがこんなにも心を満たすのだと、改めて気づかされた。


 ツナマヨトーストを食べ終えたいづなは、気が抜けたようにそのまま眠りに落ちていった。

 リビングの時計を見ると、もう21時を過ぎている。いづなにしては、かなり夜更かしをしてしまったのだろう。

 そっと布団をかけながら、私はインスタントコーヒーの入ったマグカップを灯牙さんに差し出した。

 彼は一瞬目を丸くしてから受け取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。



「……うまい」


 ごくりと飲み込むと、感動したような表情を浮かべてまた口に運んだ。

 そして、息を吐くようにしてゆっくりと口を開く。


「いづながわがまま言ってばかりですまんな」


 隣で眠るいづなに、愛おしそうで優しい瞳を向けながら呟くその言葉に、私は静かに首を振る。


「いえ、わがままなんて。そんな……」

「いづなは芽衣に甘えてるんだな」


 私は幼い子どもと接する機会がほとんどない。

 だからいづなが私に見せてくれた態度が「甘え」だとは、正直ピンとこなかった。

  

「芽衣に母親の面影を思い出してるんだと思う」

「母親?」


 そういえばいづなのお母さんの話を、私は一度も聞いたことがない。

 触れてはいけないような気もして、これまで聞かずにきた。でも今なら少しだけ踏み込めるかもしれない。そう感じて、迷いながらも意を決して口を開く。

 

「あの……母親って?」

「いづなの母親……沙雪は我が殺した」


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