4.乾いた廃墟と囁く文字列
螺旋通路を抜けた先は、不自然に乾燥していた。先ほどまで苔や水気が感じられた洞窟が、ここから先はまるで別の空間になっている。岩肌はざらざらとした白い鉱物質を露出し、苔は途切れ、風の通りすら感じない。光源となるものはないが、リーン・ケインの目には微かに漂う鉱石の反射が見えていた。
「おかしいな……」
静かな独白が染み込む。普通の下級ダンジョンで、こんな地形の急変はそうそうない。冒険者経験上、自然な地層変化にしては不自然すぎる。魔力汚染や異界からの干渉が絡んでいるのかもしれない。リーンは背中の荷を確かめ、短剣の柄を握り直して慎重に歩を進める。
やがて、狭い通路の先に小さな空間が広がった。そこには不釣り合いな構造物があった。簡素な石柱が円環状に並び、中央に低い台座が鎮座している。台座には何かの文字が刻まれているようだ。王都で見たことのない記号だが、どこかで接続してしまった異界の視聴者を思わせる、解読不可能な紋様が並んでいる。
リーンは静かに魔映水晶を掲げた。異界の視聴者たちは、この場面を見てどう感じるのだろうか。得体の知れない力を宿した彼を、どこへ誘おうとしているのか。不意に胸の奥で圧迫感を覚え、意識を集中すると、脳裏に焼き付いたスキル群から一つを呼び起こす。
【翡翠甲殻蟲の呼吸律動を解読する幽皿】や【幼生段階における祝福なき反転】では文字解読はできそうにない。では、まだ試していない何かがあるはずだ。記憶を手繰ると、【扉なき虚空に紡ぐ断片的対話】という奇妙な名を見つけた。対話を紡ぐ――もしこれが言語や記号を扱えるなら、使ってみる価値はある。
「……よし」
スキルを発動すると、頭の中でガラス片が擦れ合うような高音が走った。痛みをこらえて文字へ視線を落とすと、不明瞭だった紋様がゆっくりと流動し、僅かに意味らしきものを示そうとしている。だが完全な解読には至らない。断片的な印象が脳裏に流れ込む――「境界」「扉」「鑰」、そして「供物」。
「供物……?」
嫌な響きだった。何かを捧げなければ先へ進めない、そんな予感がする。台座には凹みがあり、そこに何かをはめ込むようになっている。これが鍵穴代わりなのか。それとも、魔物の素材や宝石の類いを捧げれば通路が開く仕掛けなのか。
リーンは素材袋を検める。先ほど倒したドレイク・リザリングの火晶石や苔コウモリの小さな魔石片があるが、どれが有効かわからない。試しに火晶石を台座に近づけると、何の反応もない。苔コウモリの魔石片も同様だった。視聴者たちはこの様子を見ているのだろうか。静かな期待を込めたような、魔映水晶の不規則な輝きが、無言のプレッシャーをリーンに与える。
「他に何がある……?」
異界的スキルを応用してみるしかない。何か環境や概念を歪められる術で、台座の意志を引き出せないだろうか。頭痛と戦いながら、別のスキル名を呼び起こす。
【感情的等高線への不正アクセス】――これは生物の感情を読み取る働きがあったが、無機物には効果が薄いだろう。
【星光から零れる困惑泡】も戦闘補助的なスキルだ。
【形而下存在の概念剥奪】は敵対者の機能を奪う力だが、台座の概念を奪ってどうする? そもそも概念を奪えるのは生物的要素がある存在だけなのか、無機物にも及ぶのかは不明だ。
手詰まりか。リーンが首をかしげたその時、耳の奥で微かな囁きがした。息を呑み、周囲を見回すが、誰もいない。代わりに、魔映水晶が一瞬、紫色に揺らめいた。視聴者――異界の存在が何かを示しているのか?
(……扉、鍵、境界……)
頭の中で先ほど拾った断片的な語が反芻する。これらをつなげると、何かの扉を開くための鍵が必要であり、その鍵はこの台座に供えなければならないようだ。王都で見聞きしたダンジョンの仕掛けを思い出すと、古代文明が残した宝珠や特殊な魔石を捧げることで封印が解けることがある。ここも同様なら、特殊なアイテムが必要だ。
しかし、そんな特別な素材を持っていたか? リーンは困惑した。かつて幼馴染のライザが有名な中級ダンジョンで「噴火龍の心核」を入手し、それが門を開く鍵になったという逸話があった。彼女はその様子を配信で流し、莫大な支援金と名声を獲得したのだ。リーンは苦々しく思い出す。自分にはそんな華々しい伝説やレアな素材などない。
「ないなら作るしかないのか?」
不条理な発想が浮かぶ。もし、自分が何らかのスキルで台座が求める「概念」を生成できればどうだろう。供物が実態でなく、「行為」や「状態」そのものかもしれない。
【幼生段階における祝福なき反転】を思い出す。このスキルは環境を奇妙に歪めた。もし、台座付近で発動すれば、岩盤や空間が不条理な変化を起こし、「鍵」に等しい何かが生成される可能性はないか。理屈にならない、だがこの力自体が理屈を覆すものだ。
ためらいを振り払って、リーンは再びスキルを発動した。喉元を締めつけるような魔力の反動が走り、周囲の空気が妙な熱を帯びる。台座の上で文字がゆらゆらと揺れ、石柱の一本が微妙に捩れた。視界の隅で、鉱石の欠片が剥がれ落ち、内部から淡い光の粒子が浮かんでくる。
「これは……」
淡い光粒はまるで宝珠の未成熟な形態のように、宙で揺らめいている。リーンは慎重にそれを両手で包み、台座の凹みへ近づけた。光粒はゆっくりと沈み込み、台座が音もなく振動する。
瞬間、後方の壁面がゴリゴリと削れるように裂け、新たな通路が露わになった。
「開いた……!」
成功だ。供物とは、物質的なものだけではなかったらしい。歪んだスキルで環境を揺るがし、異界の力を接続して生まれた「概念上の鍵」が通路を開けたのだ。リーンはほっと息をつくと同時に、背中に冷たい汗が滲む。今の行為は人間らしい常識で説明できるだろうか? だが、視聴者たちは期待に応えた彼を嘲笑するのか、喜ぶのか……魔映水晶はまた奇妙な律動で応えた。
王都で有名配信者となったライザは、こうした異様な仕掛けを正規の手段で突破し、人々に拍手喝采を得ている。比べて自分は、理不尽で不条理な力に身を任せる形で扉をこじ開けている。どんな形であれ前進できたのだが、軽い自己嫌悪が胸を刺す。でも、進む以外に道はない。
「俺はまだ理性を失ってない。道を切り開くための手段が普通じゃないだけだ……」
そう自分に言い聞かせ、リーンは新たに開かれた通路へ足を踏み入れた。闇に足音が響く。
その懐では、魔映水晶が螺旋を描くように光を揺らめかせた。読めぬ言語、不可解な視聴者、そして異界から現世を侵す怪異。この「配信」はもはや、誰のためのショーなのか。リーン自身、次第に区別がつかなくなりつつあった。