3.螺旋する通路と微かな囁き
銀苔の洞窟を奥へと進むにつれ、壁面の苔は微妙に色味を増しているようだった。最初は銀色に近い淡い輝きだったが、徐々に青緑や微かな紫を帯び、淡い蛍光を漂わせはじめている。水音は遠ざかり、代わりに乾いた空気が喉奥を刺した。本来の銀苔の洞窟なら構造は単純で、ただ奥へ続く一本道があるのみ、である筈だった。しかし、今日は何か妙な気配がある。
リーンは通路を曲がり、ふと立ち止まる。前方に、螺旋状にねじれた岩の通路が見えた。まるで地層が無理やり捻じ曲げられたような形状で、高低差が生まれ、苔や鉱物質の結晶が入り混じっている。なぜこんな普段にはあり得ない造形があるのか。ダンジョンの成長による変化か、あるいは異界からの干渉でもあるのか――嫌な予感が背筋を舐めた。
「……まあ、引き返す理由もない」
独り言が洞窟内に染み込むように消える。異界の視聴者たちはどう思っているのか。魔映水晶を覗けば、相変わらず不可解な紋様が揺れているだけ。メッセージが読めるわけでもないが、その律動はあたかも観衆のざわめきを反映しているようだった。
何か強い魔物がいるなら、試していない力をぶつけてみるチャンスだ。リーンは脳裏に焼きついたスキルの中から、比較的理解しやすいものを選ぼうとする。前回は隠密や情報系を試して成功した。今度はより直接的な影響を与えるスキルはないか。
目を閉じ、異様なフレーズを思い出す。
【感情的等高線への不正アクセス】――奇妙な名だが、何となく相手の感情や内面を探る力を想起させる。もし魔物の心理を読めるなら、戦闘を有利に進められるかもしれない。
リーンは静かに息を吐いて、スキルを意識した。その瞬間、頭の中に淡い曲線のようなイメージが浮かんだ。斜めに傾く地形図のようなラインが流れ、微妙な高低差が感情の起伏として伝わってくる。
足音を殺して螺旋通路に入り込む。岩壁の裏側から、かすかな呼吸音と擦れるような音が聞こえる。魔物が潜んでいるに違いない。スキルを通じて断片的な「感情」を拾おうとすると、微弱な苛立ちや警戒が浮かび上がった。敵はすでにこちらの存在に気づいているらしいが、不安定で慎重な様子。奇襲してくるかもしれない。
「なるほど、だいたい雰囲気は掴めた」
リーンは短剣を手に構えた。もう一つ、効果が気になっているスキルを試してみる時かもしれない。【幼生段階における祝福なき反転】は前に苔を異様な速度で成長させただけだったが、使用環境によって効果が変わる可能性がある。相手が明確な敵意を持つ魔物ならば、何か別の反応を示すかもしれない。
静かに魔力を巡らせ、スキルを発動する。視界の端で空気がわずかに揺れ、岩肌に走る筋がじんわりと変化し始めた。天井から垂れる細い鉱脈が、じくじくと液状化するように溶け出す。何だこれ、まるで岩が逆成長しているようだ。危険な気配を感じ、リーンは思わず後ずさる。突然の環境変化に驚いたのか、隠れていた魔物が声にならない鳴き声を上げて飛び出してきた。
現れたのは、小さなトカゲにコウモリの翼が生えたようなモンスター――ドレイク・リザリングの幼体だ。下級ダンジョンではやや強めの相手で、牙と炎袋を持ち、小規模な火炎放射をすることがあるらしい。警戒を強めたリーンは短剣を引き絞り、足元の安定した場所を確保する。
「落ち着け……今の俺には奇妙な力がある」
ドレイク・リザリング幼体は鋭い鳴き声で威嚇し、岩陰から炎を吐こうと喉を膨らませる。リーンは【星光から零れる困惑泡】で視界を撹乱するか、それとも【形而下存在の概念剥奪】で相手の炎袋機能そのものを奪えるかもしれない。だが、連発で異様な力を使うのは自分への影響が怖い。少しずつ、少しずつ、慣れていくべきだ。
「……まずは安心できる手段で」
リーンは泡を発生させ、通路の曲線に溶け込ませた。青白い幻惑光が岩肌を揺らめかせ、ドレイク・リザリングは焦ったように目を細める。その隙に足音を殺して側面へ回り込み、短剣で後ろ足付近を狙う。スパッと音を立てて刃が通ると、魔物は痛みでのたうち、狙い通り火炎放射を外側に吐き出した。岩壁が焼け焦げるが、リーンは寸前で死角から逃れている。
「やった……!」
今度は【感情的等高線への不正アクセス】で敵の焦りを読み取り、回避行動を先取る。冷静に立ち回れば、常識的な冒険者でも行けるはずだが、これら不条理なスキルがさらなる余裕を与えてくれる。安全に一撃を重ねることで、確実に魔物を追い詰めていく。
ドレイク・リザリングはついに膝を崩し、か細い鳴き声を漏らしながら倒れこんだ。リーンはとどめを刺し、素材を回収する。火晶石と呼ばれる魔石が転がり出てきた。これがあればギルドで少しは高値がつくだろう。
魔映水晶を見ると、奇怪な符号が以前より活発に踊っているようだった。戦闘が見せ場になったのだろうか? 異界の視聴者は喜んでいるのかもしれない。リーンは複雑な気分だった。背中を冷たい汗が伝う。自分は誰に映像を売り込んでいる? 得体の知れない存在に向けて、こうして危険な演出をしているのは狂気沙汰ではないのか。
「……平気だ、俺はまだ理性がある。自分で考えて行動している」
自分に言い聞かせるように呟き、素材袋を背負い直す。次はどんな魔物が出るか、どんな地形が待ち構えるか分からない。しかし、恐れるよりも先に、これらスキルがどこまで使えるか試したくなる気持ちが湧いてくる。観られている、注目されている――その感覚が、リーンに小さな昂揚を与えていた。
ライザは華々しく人前で輝いているが、リーンはこの奇妙な舞台で未知の観客に認められつつある。いつか、この歪な成功が王都へ戻った時に、セルフィアやギルド仲間にどんな影響を与えるだろうか。想像は膨らむが、今はまだ答えが出ない。
深い呼吸をして、リーンはさらに奥を目指す。螺旋状の通路を抜け、さらなる怪異と不条理を求めて――いや、求めてはいないはずだが、なぜか足が止まらない。
魔映水晶の揺らめきは、まるで遠くの笑い声のように、静かに洞窟内に満ちていた。