1.歪んだ接続と名状しがたい視線
初投稿です。
よろしくお願いします。
王都ヴェルトス郊外の冒険者ギルド「緑苔亭」は、昼下がりにも関わらず薄暗かった。木製の扉から差し込む外光は弱々しく、埃っぽい空気が停滞している。内装は安物の木の机と剥がれかけた塗装、所狭しと並ぶ掲示板には質素な採集依頼や下級モンスター討伐の張り紙ばかり。栄光や富など、この場末のギルドには縁遠い。
リーン・ケインはその片隅で、苦いエールの残り香を啜りながらため息をついていた。平均的な剣腕、そこそこの魔力、たいした実績もない底辺冒険者。どれだけ日々を重ねても、彼には華々しい未来が見えなかった。
「本日は採取依頼ばかりですね。いかがなさいますか、リーンさん?」
背後から柔らかな声がかかる。振り向けば、そこには受付嬢セルフィアが立っていた。艶やかな黒髪をきちんと結い、飾り気のない紺色の制服が清潔感を際立たせる。彼女は常に穏やかな笑顔を絶やさず、口調は丁寧そのもの。下級冒険者にも偏見を持たず、平等に接する姿勢で信頼を集めていた。
――だが、残酷なまでに「普通」であるリーンには、セルフィアはいつも「親切な職員」以上の存在になれない。どれだけ努力しても、特筆すべき功績もなければ、目立った強さもない。成り上がりを夢見る下層冒険者は星の数ほどいるが、現実は厳しい。
「うーん、もう少し目ぼしい仕事があれば……」
言葉を濁すリーンに、セルフィアは微笑みながら「何か新しい依頼が入り次第お知らせしますね」と返した。彼女は常に公正で、無理な励ましはしない。だが、その微かな優しさが、逆にリーンの胸を締め付ける。もっと強く、もっと有名になれば、こんなありきたりな会話ではなく、尊敬や憧れを帯びた眼差しで見てもらえるかもしれないのに。
そんな野心を抱くリーンが、今注目しているのが「ダンジョン攻略配信」だった。魔映水晶を使った冒険中継は、王都中心部で急速に人気を博している。強力な冒険者や華やかな才能を持つ配信者は、圧倒的な視聴者数とスポンサー契約を得て、金と名声を手中にしていた。
リーンには成功者の手本がいる。幼馴染のライザだ。子供の頃は同じ村で走り回っていたライザは、今や王都で屈指の人気を誇る攻略配信者となり、高難度ダンジョンを華麗に突破する映像を広場中に流している。明るい笑顔と天性の勘、そして端正な顔立ちで、一躍スターに躍り出た。リーンがギルドで埃をかぶっている間、ライザは王都中の人々に喝采を浴びている。
「俺だって、負けてたまるか……」
その悔しさと焦りが、リーンを常軌を逸した行動へと駆り立てた。普通の魔映水晶と正規の呪文では王都や近郊にしか映像を届けられない。すでにそこにはライザのような有名配信者が占拠していて、後発のリーンが割り込む余地はない。ならば、王都以外……もっと遠方の聞いたこともない街や他国まで配信を飛ばせば、圧倒的な数の新規視聴者層を獲得できるはずだ。
そう考えたリーンは、昨夜ひっそりと裏路地の古書店を訪ねていた。そこは普段から冒険者たちの噂話に上る怪しげな店だ。木扉は歪み、棚には埃をかぶった巻物や腐食しかけた魔道書が並んでいる。店主は痩せぎすの老人で、底意地の悪い笑みを浮かべていた。
「遠くまで映像を届けたい、か。正規ルート外の呪文接続なら、こういう『転送強化の断片』があるぞ……もっとも、正規の魔術師なら使わぬ代物だがねぇ」
老人はそう言って、黄ばんだ羊皮紙に得体の知れない符号が踊る小冊子を取り出した。血色のインクで描かれた奇妙な呪文陣、異国の言語なのか解読不能な文字列。正しく使えれば、配信接続の範囲を異様なまでに拡大できるという触れ込みだった。リスクは不明だが、リーンには選択肢がない。
「……安くはないが、買っていくかね?」
店主は不気味に笑う。リーンは財布の中身を確認し、葛藤したが、この機会を逃せばもう後がないと思い切った。懐が軽くなっていく嫌な感覚をこらえながら、その羊皮紙の呪文書を手に入れた。
今朝、リーンは薄汚れたギルドの片隅で、魔映水晶を念入りに改造していた。呪文書に記された不可解なルーンを彫り込み、補助魔石を無理やり組み込む。まともな魔具職人が見れば悲鳴を上げるような、まるで乱暴な歯車の噛み合わせのような不安定な構造だったが、彼は必死だった。成功すれば、ライザを超える勢いで新規視聴者を掴めるかもしれない。そうすればセルフィアの目も、もう少しこちらに向くだろう。
「よし、準備は整った」
リーンはギルドを後にし、人里離れた小型ダンジョン「銀苔の洞窟」へとやって来た。弱い魔物しかいない初心者向けダンジョンで、まずはテストだ。魔映水晶を握りしめ、彼は深呼吸する。接続呪文を起動すれば、映像が通常の視聴円環を超え、遥か彼方へと飛んでいく……はずだった。
魔力を注ぎ込むと、水晶が鈍く光る。次の瞬間、奇妙な抵抗感が伝わった。まるで水晶の向こう側に巨大な何かがいるかのような、重苦しい圧迫感。眼には見えないが、声にもならない囁きが、頭蓋をすり抜ける。
「ん……? おかしい……」
視界が揺らぎ、洞窟の苔むした壁面が一瞬、螺旋状の光と影に変じる。異様な符号が水晶表面に浮かび上がり、不気味な文様が踊っている。リーンは慌てて呪文を停止させようとするが、もう遅い。接続は固く絡みつき、人界の理を超えた何者かと繋がってしまった。
(……視聴接続確認……異界層閾値超過……再生数増加中……)
脳裏に直接響く声。それは人知を超えた存在が、配信を「見ている」ことを示していた。遠方どころか、人間には辿り着けぬ領域へ映像が流れ、そこには異形の何かが蠢いているのかもしれない。ライザが切り開いた華やかな道とはまるで違う、常軌を逸した脇道へリーンは迷い込んだのだ。
激しい頭痛とともに、奇妙な呪力がリーンの体内へ注ぎ込まれる。理解を拒むスキル名が、彼の記憶へ無理やり刻まれる。
【意味論的溺死の雷撃】【形而下存在の概念剥奪】【盲目なる奉仕者の触手群生成】【幼生段階における祝福なき反転】【翡翠甲殻蟲の呼吸律動を解読する幽皿】【星光から零れる困惑泡】【感情的等高線への不正アクセス】……名状しがたく、不条理な力ばかり。
「な、なんだこれ……? こんなスキル、聞いたこともない……!」
困惑と恐怖がないまぜになった声が洞窟内に反響する。だが、どんなに抗っても、もう戻れない。視聴者は既に視ている。得体の知れない力が彼を走らせる。リーンは短剣を掴み直し、洞窟の闇へと踏み込んだ。まずはこの力が何に使えるか試さねばならない。理性はまだ保っている……はずだが、既に常識の外側に一歩足を踏み出している自覚がある。
ライザやセルフィアが知れば、何と言うだろう。想像する余裕もなく、リーンは配信を続けることしかできなかった。
何が待ち受けるか分からない。だが、底辺から成り上がるためには、常識に囚われていては無理なのだ。微かな狂気を振り払いながら、リーンは名状しがたいチートを握りしめ、暗い通路を進んでいく。
――その足元には、もう正当な成功者が踏むはずもない、歪んだ影が静かに伸びていた。