第九十四話 「井の中の蛙、大海に踊る」
それは試合開始の合図から、たった十数秒の出来事だった。
「【時短】」
腰を落とし、後ろに回した右手が黒い渦と共に顕現した短刀を掴んだ次の刹那に、ソレは振り抜かれていた。
合同練習の際にまざまざと見せつけられたあの異次元の速さは夢でも幻でもなかったのだと――、面食らった審判が一拍遅れて黒い旗を挙げようと――、それらの思考が次の段階へと移るより早く、その少年は振り向きざまに二撃目を振るっていた。
おそらく、本能的に危機を察知したのだろう。
背中に張り付けた『魔法紙』を狙った一撃に、七霧は咄嗟に身を反らしていた。
――いや違う。
先の一手への反応が今遅れてやってきて、たまたまそのタイミングで後ろを振り返っただけに過ぎなかったのだ。むしろ背中の紙が裂けなかったのは奇跡と言えよう。
ただそれは、足先から頭まで伸びた斬撃を七霧自身が受けていなかったとすれば、だったが。
対戦相手の姿を捉えることさえできずに、七霧はその場に崩れ落ちた。
「時雨二本、勝負あり!」
たった十数秒の間の目まぐるしい出来事に、智也はまるで世界に取り残されたかのような衝撃を味わった。
壁に投影された会場の様子を茫然と眺め、我に返ると、弾かれたように待機室を飛び出す。
若い門番と一言二言なにか交わしたはずだったが、その会話も瞬時に頭から抜け落ちるくらい無我夢中で駆けつけた。
まだ意識はあったのか、よろよろと起き上がった七霧に慌てて肩を貸し、遅れてゲート前にやってきた久世と雪宮の元へ踵を返す。
「ごめんなさい……」
道すがら七霧の口からそんな弱々しい声が漏れ、智也は強く唇を噛んだ。
――大丈夫だ。
自信を持ってそう言えたならどれだけ良かっただろうか。
百二十メートルと少し先、C組の二番手がゲートから顔を覗かせている。あの本紫色の髪の男も、一筋縄ではいかないだろう。
――この場に出るんだ、楽な相手なんて端からいないだろ。
弱腰になっている自分に鞭を打ち、二人に七霧を預けた智也は中央に向かって歩を進めた。
――五十嵐天馬。
合同練習では殆ど手の内を明かさず、最後の最後まで出し渋っていた警戒心の強い男。
あの時点で既に対抗戦への出場が決まっていたのだとすれば、それはこの日のために備えた彼の計略だ。
何をしてくるか分からない――が、全く情報がないわけでもない。
あの日、五十嵐は一度だけ魔法を見せている。
二十六番の風魔法。
さすがにその一点だけで彼の適性を断定するのは早計すぎるが、最初の一手を読む助けにはなるだろう。
あれだけ用心深かった性格だ。仮に得手とする魔法が他にあったとしても、まずはあの日と同じ魔法で様子見をしてくる可能性は高い。素直に彼の適性が風属性であるのなら、出の速い十六番も候補に上がるか。
先の七霧のようにたった一手で勝敗が決する場合もあるのだ。ならば尚更、五十嵐は手堅く動いてくるはず――そう智也は考えた。
「まさか、この場で相対するのが君になるとはね」
「白々しいな」
「……ふ」
短く言葉を交わして、審判からの確認の声がかかる。入学式の際にもみえた、赤髪の教員だった。
「両者準備はいいな? 次鋒戦。A組、黒霧智也。C組、五十嵐天馬。――試合開始!」
「「Reve16――!」」
同時に言霊を唱え、全く同じ魔法が具現化した。
手のひらから打ち出された斬撃が宙を走り十字に噛み合う。そして、強度の差により片方だけがひび割れ砕け散ると、打ち勝った方の斬撃が対象に迫った。
――初手を読んで狙ったカウンター。わずかに五十嵐が目を見張る。
クラスメイトではない彼は智也の魔力が少ないことをまだ知らない。故に、あえて最初に改良を施した魔法を見せることで相手に強く意識をさせ、自分の弱点を隠す算段だ。
一度意識させればここぞというときに必ず微量だろうと手を加えてくるはず。そうすれば、後に出す質の低い魔法を気取られにくくなる。模擬戦での反省を活かした戦法だ。
斬撃を放ち、すかさず右方から回り込む智也。
続けて両の手に魔力を集め、脇構えの体勢を取った。
「Espoir8【煽ち風】」
「Reve13【風牙/一刀】」
地を駆けながら手のひらに纏わせた魔力を刀の形に伸ばしてゆく。眼前、五十嵐の周囲には風が巻き起こっており、先の斬撃が掻き消されていた。
距離十メートル。もう数歩踏み込めば、刀の間合いだ。
脇構えから流れるように八相に構え直し、右足の踏み込みと同時に遠心力を利用して力強く斜めに斬り下げる。
「――【青嵐】」
途端、静まりかけていた風が急激に勢いを増し、再び五十嵐の周りで渦巻いた。
金切り音を立てて刃が毀れ、確かにあった手の中の感触が霧散する。
たった一振りで砕け散った得物の残骸に意識を割く暇もなく、二の矢が智也に襲い掛かかる。
「Reve24【大名颪し】」
後ろに一歩飛んで横に転がり間一髪、直後に後方で砂埃が舞い上がった。
客席で驚きの声が上がったのを片耳に、智也は正面の男を見据えて独り言ちる。
「今のは確か、補助魔法二十五番の防御魔法……」
初級の中でも比較的扱いが難しくなる二十番台の魔法。
それを言霊を短縮して扱えるまでに使いこなしているということは、十中八九、風への適性があると考えていいだろう。
――だったら。
「Reve16」
今度は改良なしで斬撃を飛ばす。繰り返し同じ行動をとった理由は相手のカウンターを誘うため。そして更に、意識付けの延長でもある。
クラスの代表として選ばれここにいるのだ、例外なく全員が優秀な魔法使いのはずである。
相手が優秀であればあるほど智也の見せた甘えた行動を逃さない。遅くても三度目には対応して動いてくるだろう。
「【半月切り】」
範囲ではなく、威力重視で縦に放った斬撃。
元々射出速度に優れているとはいえ、当然なんの小細工もせずに撃てば容易く躱されてしまう。わざわざ足を止めて防ぐ必要などないからだ。
そこまでは想定内である。むしろ、そうして相手にされないことが一番智也にとって苦しい展開となるからこその、この立ち回りだ。
――しかし、
「…………」
軽く身を捻って半月型の斬撃を躱わした五十嵐は、何故か後ろに過ぎたソレをずっと横目で追っていた。
何を警戒しているのだろうか。突拍子もない彼の行動に智也は眉を寄せる。
「ふむ。『とっておき』とやらはいつ見せてくれるんだい?」
「なにを……」
言っているのだろうかと、困惑を隠せない智也。
とっておき、と口の中で呟いて慌てて記憶を探った。
――まさか、合同授業の時の勘違いをまだ引き摺っているのか?
思い当たる節があるとすればそれしかない。
仮にそうだとしても、なぜ五十嵐がこうも誤解を抱いているのかが智也にはさっぱりなのだが。
ともあれ好都合である。
見当違いなことに思考を割き、勝手に心労を抱えてくれているのだ。例え二番煎じだろうと活用できる物は有効利用する。その心意気で、智也は画策した。
「そこまで見たいなら、見せてやるよ」
即座に段取りを組み替え、元々立てていた戦術に新たな一手を付け加える。
その過程で、知らずの内に智也は口の端を吊り上げていた。
「……ッ」
強く地を蹴り、無手のまま一直線に駆けだす智也。
紺色の瞳に動揺が走る。五十嵐は、すかさず腕を突き出し迎撃の構えを取った。
――そうだ、それでいい。魔法使いが武器も持たずに真正面から向かってくるんだ。何を企んでいるか分からず、警戒して近寄らせたくないという心理がそこに働くはず。
「Reve26【散し風】!」
そんな智也の思惑通りに、そして、予想通りの魔法を五十嵐が唱える。
一見して防ぎようのない強力な魔法に思えるが、智也はその弱点を熟知していた。
風がとぐろを巻いて進行する性質上、距離が空けばあくほど規模が大きくなるのが最大の特徴。
しかし吹き始めは小さく脆いという欠点を隠し持っており、ほんの一瞬の隙でしかないが、知っていれば文字通り穴を突くことができるのだ。
「Reve18【火蜂】」
両の手の隙間に八つの玉を具現化させ、とぐろ目掛けて放り投げる。すると旋風は内側から爆散し、物の見事に凪いでいった。
流れてくる微かな余波を肌に感じながら、残していた左の玉を五十嵐に向けて散らす。
掻き消された魔法に瞠目していた五十嵐はそれに反応こそ遅れるものの、すぐに後ろへ飛んで炸裂する火の玉を躱した。
そこへ、智也は『とっておき』をぶち込む。
「Reve11【火弾/赤鷲】」
足を止め、手のひらの魔力を用いて火球を具現化させる。
一直線に向かう火球。寸前まで声を失っていた五十嵐はどうにか平常心を取り戻し、斬撃を以てそれを撃ち落とさんと右手を伸ばすが、
「半月――――ッ!?」
途端、何の前触れもなく消滅した火球に再び絶句する羽目に。
動揺に次ぐ動揺で、五十嵐の思考が一時的に鈍る。その隙に、
「Reve13【風牙/一刀】」
一足。
大幅に強化させた脚力で間合いを詰めた智也が、空いた脇腹を一閃した。
すれ違い様、左袈裟の一振り。一拍遅れて砂埃が舞い上がった。
「黒霧、一本」
淡々とした口調で審判が赤い旗を挙げ、依然として背を晒したままの五十嵐を智也は肩越しに見る。
粉々に砕け散った得物の残骸を握り締め、もう一度仕掛けるべきかどうかを逡巡して、一息ついた。
――焦りは禁物だ。
かなりハイペースで魔力を消耗しているが、ここまでおおよそ智也の思い通りの試合運びとなっている。
このまま着実に攻めていけば、いずれ二本目も取れるはずだ。
「恐れ入ったよ。時雨くんほどではないが、それでも目を見張る速さだ」
「……どうも」
「先のあれは、どうやら僕の心得違いだったということかな。なるほど、文字通り君に一本とられたわけだ。――いや、正確には二本目だね」
「できれば前回のは数に入れないでもらいたい。ここでちゃんと二本取り切らないと、後ろの奴になに言われるか分からないんでな」
それは至極困難な相談だ。
そう呟きながらこちらを見やった紺色の瞳。そこに秘められた強い意志を感じ取って、智也は思わず口を噤んだ。
「C組の代表として、これ以上恥を晒すわけにはいかないのでね」
両者の間に生まれた静寂が、会場の空気をピリつかせる。
足元で躙られた砂が、ジリっと音を立てた。
ここからどう動いてくるのか。智也が先手を取った以上、まず間違いなく五十嵐は攻め手を増やしてくるだろう。
そこで初手に打った布石を利用し、上手く仕掛ければ、
「Reve59【無上迅速】」
「ッ!? 残――――」
音もなく飛来した斬撃に、智也の反応は間に合わない。
油断はなかった。警戒もしていた。事前にその可能性を考慮していたし、会議の際に水世からしつこく忠告も受けていたのに。
それなのに、気付けば智也の胴体は真っ二つに裂かれていた。
あまりの衝撃に世界から音が消え失せる。
審判の判定も、自分の呼吸さえも聞き取れなくなり、額に脂汗をかきながらただ地面についた自分の膝と右手を朦朧と見つめる。
思った以上に痛みへの耐性はつくものだと軽視していた。それがいかに愚かな考えだったのかと、今、思い知らされた。
――こんなもの、到底慣れたものではない。
「……!」
息を吹き返したかのように、智也は慌てて自分の腹を両手で探った。
そこに感じたのは肌触りのいい制服の感触と、その効力の埒外である凄絶な痛みだった。
十の策を講じても、一の神技によって戦況は一変する。
得点数一対三。A組は――、智也は、再び苦境に立たされた。
✱✱✱✱✱✱✱
「はぁっ……はぁっ……」
高鳴る鼓動を落ち着かせて次に備える。ここでもたもたしていたらあっという間に勝敗が決してしまう。
お互い決め手を見せた以上、安易に繰り出しては次は逆手に取られかねない。とはいえあのレベルの速さとなると、智也としては一瞬も気が抜けないが。
速さという分かりやすい指標を用いて切り返せば、一度模擬戦にて『技の極致』を目にした経験から、なるほど五十嵐のソレはあれでまだ遠く及んでいないことが分かる。
それでも、初級と中級の境目である二十九番の魔法が頭一つ抜きん出ているように、上級との境にある五十九番の魔法もまた、そもそもの性能が飛び抜けているのだ。
「まずは一本。悪いけれど、ここからはお遊びなしだよ」
「ちっ……」
まざまざと見せつけられた力の差と、置かれている絶望的な状況に歯を食い縛る。
残された魔力は既に半分を切っている。風牙を使ったとして、さらにあの斬撃を目で追えたとしても、正面から切り合えば諸とも断ち切られてゲームオーバだ。
そもそも、あの一刀にそこまでの切れ味はないのだ。一太刀振るうことだけを考え、他を犠牲にしているのだから。
智也にアレをどうこうする手段はない。
あるのは逃げるか、躱すかの二択だ。
「Espoir3――」
「させないよ」
頬を撫でるような穏やかな風が吹き抜ける。
その柔らかな風当たりとは裏腹に、智也の体は重い幕に覆われたかのように微塵も動かせなくなった。
補助魔法十二番、【一風】。
対象の動きを拘束する縛魔法の一種で、その効力自体は低級故に長くは持たない。が、すぐに縛りを解くには周囲の空気の流れを変える必要があり、その対処法を知っていても今の智也に余計な魔力を使う余裕はない。
そして、あれやこれやと考えているも暇もない。
「Reve16【半月切り】」
縦一閃に放たれた斬撃。
仮に防御魔法で身を守ろうとしても、それごと断ち切らんとする狙いと魔力を智也は本能的に感じた。
「【残陽】!」
足下の影が形を変えて勢いよく湧き出てくる。そうして智也の全身をあっという間に漆黒が呑み込むと、水面下に沈むようにドプンと音を立ててその場から影も形もなくなった。
――黒一色の世界。水面を見上げて念を込めれば、なんとなく地上の様子が見えてくる。
緩やかに水底へと沈む身体。ゴボッと智也の口から息が漏れた。
「まだ使いたくはなかったが……」
口の中でそう呟いて渋面を作る。地上では、緩やかな速度で斬撃が頭の上を過ぎていくのが感じ取れた。
黒一辺倒な景色を見渡す。どうやら、今回は『アレ』はいないらしい。
――次第に息が苦しくなってくる。潜伏時間の限界だ。
影に潜る行為に魔力の消耗はない。が、まだ完全に適合していないせいか今は日に三回が限度で、一回の潜伏時間もあまり長くは持たないのである。
すぐに地上に出るイメージを頭に浮かべて、智也は目を瞑った――。
沸き上がるマグマのように地面から黒い液体がふつふつと顔を覗かせ、噴火するかの如く勢いで影が立ち上る。
その中から膝をついた智也の姿が現じると、影は次第にその足下へと収束していった。
「なんだい……今のは? 魔武器の能力か?」
「さぁな」
正面。困惑を隠せない様子の五十嵐に短く返し、一度深呼吸をする。
――あと二回。その間に終わらせなければ。
黒瞳の奥にそんな決意を宿して、智也は再び脚に魔力を纏わせた。
「Espoir3【強歩/一陣】」
自分以外聞こえない程度の小さな声で唱える。それは先程も同じだったが、おそらく動きを先読みされてのことだったのだろう。今回は縛りが効かないと判断してか、今のところ妨害はしてこない。
紺色の瞳を見据え、半歩後ろに足を引く。
左足に体重を乗せ、智也は五十嵐を中心に円を描くようにして走り出した。
――最初は直進しかできなかった脚力強化の魔法。
初めて授業で教わったときはその効果時間の短さや扱いの難しさから軽んじていたが、直後に本物を魅せられ度肝を抜かれた記憶は今に新しい。
およそ一ヶ月。いくらか無為に過ごしてしまった時間もあったけれど、そこから毎日狭い体育館で走り込みをしていた智也にとって、心揺さぶられる歓声が降り注ぐこの会場は――あまりに広すぎたし熱すぎた。
それまで毛ほども気にならなかったというのに、今は加速する視界の中でやけに鮮明に男の声が耳に届く。
「智也ー! やっちまえーー!!」
その男を中心に何人かが声を張り上げ応援してくれていることに気が付いた。顔を見なくとも、それが誰なのかはすぐに分かった。自然と力が湧いてくる。
「Reve13【風牙/一刀】」
こちらの姿を捉えるべく、五十嵐が左右に首を振っている。それに対して智也は限界まで速度を上げると、忙しなく動く紺の瞳を振り切りにいった。
五十嵐の視界から外れたそのタイミングで、智也は奇襲を仕掛けた――――。
「Reve51【真一文字斬り】」
五十嵐はそれでもすぐに対応してきた。振り向き様に範囲の広い斬撃を放ち、行く手を阻まんとして。
それはまさに、今の智也の戦法に対して最も有効な対策と言えた。まるで一度どこかで経験したことがあるのかと思えるほどに。
だが、智也は五十嵐のその対策を見越してあえて上に飛んでいた。空中で足を入れ替えながら体勢を整え、逆手に握っていた得物の刃を真下に構えて力を込める。
「上か!」
重力に従い落下する智也。
たとえ得物の切れ味が悪くとも、ある程度の高さから全体重を乗せて叩き付ければそれだけで驚異になり得るだろう。
重い衝撃が腕に走ったのは一瞬だけ。たちまち刃は粉々に砕け散った。或いは、これが丈夫な刀であったなら無傷ではいられなかったかもしれない。
呑気にもそんな考えがちらと頭を過った最中、掲げた両腕で刃を受け止めていた五十嵐の、その腕に追加で魔力が集まってゆくのを感じた気がした。
「【半月/十文字切り】」
「……!」
咄嗟に五十嵐の腕に足を乗せる。そのとき、鋼鉄を思わせるような硬い感触を足裏で感じつつ、それを蹴り飛ばしながら後ろに跳ねて距離を取った。
十の字に組み合わさった半月型の斬撃が、狙いを外れて天に飛ぶ。それが場内に張り巡らされた結界を前に霧散し、智也が地を滑りながら手をついたのと同刻――再び会場に銀閃が走る。
「Reve59【無上迅速】」
「Espoir13【隔壁/一寸】!」
竹でも切るかのように容易く岩壁が切断され、斜め半分に裂けた壁が綺麗に滑り落ちる。
右半分を欠いた壁越し、本紫色の髪の美男子が柳眉をひそめているのが見え、その整った眉の下で紺の瞳が少しずつ見開かれてゆく。
まるでコマ送りになったみたいに緩やかに時が流れて、やがて目玉をひん剥いた五十嵐が背後を見やったとき、いつの間にか黒髪の少年がそこで牙を研いでいた。
「Reve16【半月切り/熱傷】」
「Reve16【半月切り】!」
寸前まで完全に意識の外だったにも関わらずこの反応速度。思わず驚嘆しそうになるが、ただそれも計算の内に入れて策を講じていた智也の方が、どうやら一枚上手だったらしい。
振るった腕から放たれた斬撃が宙を走り、五十嵐のソレに噛み付く。
全く同じ魔法。注ぎ込んだ魔力の量はわずかにあちらが上回っている。万全を期すためとはいえあの刹那によく間に合わせたものである。
しかしそれだけでは、まだ智也に及ばない。
縦に噛んだ斬撃。その接触部が火を吹いて、瞬時に片割れが塵となって消え失せる。初見ではまず気付けない、見た目とは裏腹な性能をした――智也の騙し討ちに。
最善を尽くしたつもりがそれすらも手玉に取られていたと知った五十嵐の顔は、不相応にも愉しげに笑っているようだった。
「お見事」
次の瞬間、燃える斬撃が天地を繋ぎ、一本の火柱が立った。
✱✱✱✱✱✱✱
三手先を読んで獲りにいった二本目。それは、開始直後から打っていた布石を利用した必死の策だった。
特に最後の一撃にはあらん限りの魔力を注ぎ込んでおり、文字通りの全力を尽くした攻撃となった。
全てを使い果たし、魔力が枯れた今、智也の体は少し動いただけでも強い倦怠感に見舞われてしまう。
――実に、紙一重な試合だった。あと少しでも裏を取るのが遅れていれば斬られていたのは智也の方だ。もっと言えば、一度でも読みを外していればその時点で負けていただろう。
それくらいの接戦だったのだ。
「御見逸れしたよ。そこまで動けるのであれば、わざわざ小羊など演じなくてもよかっただろうに。――それとも、君にはそれが性に合うのかな?」
立ち昇る炎の中、そんな五十嵐の声が上から降ってくる。
智也は今にも前のめりに倒れてしまいそうなのを必死にこらえながら、重い頭を上げて空を仰いだ。
一陣の風が吹き抜け火柱が収まる。
どういう原理か、太陽を背に悠々たる空に身を置く人の姿があった。まるで足の踏み場所でもあるかの如く様相で、悠然とこちらを見下ろしている五十嵐の姿が。
――人は、空に憧れを抱く生き物だ。
それは翼を持たないが故の性であり、人が人でいる限り叶わぬ願いでもある。
人は空を飛べない。そんな誰もが分かるような常識さえ、魔の力は可能としてしまうのか。
「でも、浮遊魔法なんて『魔導書』にはなかったはず……」
この際、魔法の有無など大した問題ではない。もっと思考に時間を割くべきことが他にあるはずだ。無駄な方へ無駄な方へと頭を回してしまうのは、脳がソレを理解することを拒んでいるからか。
――審判の旗が上がっていない。
それすら分からないほど朦朧としているわけではない。単純明快、今ので有効打を取れなかったということだろう。
公平を期すため、審判は対戦するクラス以外の担任が務めるようになっている。特段五十嵐が優遇されているわけではないはずだ。
また要らぬ考えを、と智也はかぶりを振った。
時間を稼いでもすぐには魔力は回復しない。節約する量さえ今や残っていない。風牙や強歩ならまだ使えなくはないが、使ったとして、さっきみたいに早くは走れないだろう。
どうする、どうする、と頭の中で問いが繰り返される。
「やけに疲弊しているように見えるけれど、気のせいかな?」
「……走り疲れただけだ」
「――なるほど。本当は、僕としてもこのような道具には頼りたくなかったんだけどね。なにしろ、そこからでは刀は届くまい」
「だったら……今すぐ降りてきたらどうだ」
自ら空に逃げておいてよくもまぁ、と悪態をつきたいところではあったが、文句を口にする体力さえ今の智也には惜しかった。
「こう見えて比類ない君の戦い方――いや、センスと言うべきかな? 僕は感服しているんだ。だから、いま少しのあいだ君との駆け引きを楽しみたかったんだけど……どうやらそう長くは持たないようだね」
言葉の端々から感じる礼儀の欠けた心様。生物としての本能からか、高みに立ったことで随分と鼻高々なご様子に見える。
「……13【風牙/一刀】」
滔々と語っているその鼻面へ、智也はありったけの力で刃を投擲した。その反動で身体がよろめき、後ろに倒れそうになる。
「おっと」
手裏剣さながらに回転し、山なりに飛んでいったソレを五十嵐は横に一歩足を運んで見送った。
どの道そこに至るまでの高度が足りていなかったが、今の反応で彼が本当に空を支配下に置いているのだと再認識させられた。
「――口惜しいな。実に、有意義なひとときだったよ。不知火くんにはあとで感謝をしないとね」
「勝手に終わらせるなよ」
「あそうだ。もしもまだなにか隠し玉を有しているのであれば、是非とも拝見したい。君も時期を失するのは不本意だろう?」
「お前がそれを決めるな」
「最後のアレ、特に面白かったなぁ。別の魔法の性質を取り入れた、騙し討ちに特化した改造。まさに君の嗜好のそれだね。あぁ、誤解しないでほしいんだけど、これは僕なりの称賛だよ」
試合の最中にペラペラとよく喋る男だ。まさか、もう勝負はついたと高を括っているのだろうか。今すぐその鼻っ柱をへし折ってやりたいところだが、先程から妙に会話が噛み合っていない。
そこでいまいちど天に向かって吠えようとした智也は、自分の声が出ていないことに気が付いた。
今の智也には、もう声を発する力も残っていなかったのだ。
「つれないね、言葉も返してもらえないとは。致し方ない、名残惜しくはあるがC組の勝利のためだ。動けない者をいたぶる趣味はない……これで幕引きにするとしよう」
智也からの反応がないと見るや否や、五十嵐は決定的な勝利を収めるべく魔法を眼下に向かって撃ち放った。
両の手を地上に向け、唱えた言霊によって旋風が吹き荒ぶ。先の攻防で智也に出鼻を挫かれたその魔法を、あえて選択したのか。
前回のように吹き始めの脆さを突いて打破しようにも二人の距離は離れすぎている。そして、それだけの距離が離れているということは――天から地に向け広範囲に風が吹き下ろし、会場の砂地がかき回された。
下降噴流のそれに等しい風の暴力。
本来ならそこまでの風速には至らないはずだが、空に身を置くことのできる五十嵐だからこそ、ここまでの破壊力を引き出せたのだろう。
内に張られた結界により観覧席の安全は保証されているが、一面砂埃が舞っており数メートル先も見えなくなってしまう。
そんな中で、
「なんだよこれ……まさか上級魔法か!?」
「初級魔法でしょ。こんな規模、見たことないけど。てかマジ、これじゃなんも見えないじゃん。ウチの代表大丈夫そ??」
「智也くん……」
在校生用の客席の一角で、試合に出場しているクラスメイトを心配するような声が上がっていた。
クラスカラーとなった赤の衣装を身に付けた少年を探し、視界の悪い砂塵の中をしきりに見回している様子。
と、近くに腰を下ろしていた男が不意に灰の眼を細め、高所から足許の様子を見物していた五十嵐がやや遅れて整った眉をひそめた。
「おや? また影にでも潜っていたか。けれど……隠れているばかりでは永劫その牙が届くことはないよ」
安全圏から低部を見下ろす五十嵐。
今度は地べたに這いつくばる形で少年の姿がそこに現じていた。
少年はしばらくそのままの姿勢で固まっていたが、先の言葉を受けてかおもむろに面を上げる。
そうして鋭い眼光が五十嵐を射抜き、開いた口から何らかの言霊が唱えられようとして――――、
途端、五十嵐の顔からそれまでの余裕が失われ、何かに恐れるようにして勢いよく背後を振り返った。
冷静さを欠いた彼の目には、うららかな日影と澄んだ青空が映ったことだろう。
額に吹き出していた玉の汗が頬を伝い地上へと滴り落ちていき、やがて強張っていた表情も次第にとけていく。
少しして、彼は安堵したように細い息を吐いた。
踵を返し、下界の様子を確認すれば、そこには倒れ伏している少年が。
それに歩み寄り、試合の続行を不可能と判断したらしい審判が黒い旗を掲げる。
規定に従い、五十嵐には無条件で得点が与えられ、惜しくも次鋒戦は一点差でA組の敗北となった。
智也は、負けたのだ。




