第八十五話 「冬の夜空みたいな」
「ただいま」
下宿屋の扉を開いて、いつもの定位置に見えた家主にそう言葉をかける。
と、智也の顔を見た家主の新井さんが、やにわに柔らかな微笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。何かいいことでもあったのかしら?」
智也としては至って普段通りに接したつもりだったが、どうやら今の一言で新井さんはこちらの心情を読み取ったらしい。自分が顔に出やすいわけじゃないよな、と独りごちながら、智也は感嘆の声をもらした。
といっても今回は別に表情を繕う必要などなく、察しの通り快報を早く伝えたくてしょうがなかったのである。
「実は今日、訳あって模擬戦の再試合をすることになったんですけど、一回負けた相手に勝てたんです」
「まあ、すごいじゃない。大変だったろうにねぇ」
「はい……本当に手強い相手でした」
手を合わせて笑みを浮かべる新井さんに、智也は茶色の頭を脳裏に描きつつ苦い表情を浮かべる。
と、新井さんが今度は口元に手を添えて、そこでまた笑みを浮かべた。
「そんなに強い人に勝てたんだから、きっと今の智也くんはもっと強くなってるだろうさね」
「だといいんですけどね……。けど、これで対抗戦への出場権が得られたので、約束に一歩近づけました」
「そうさね~だけど無理は禁物だよ。頑張るのも大事だけど、時には自分を労ってあげなさい」
その一言に、智也はぐうの音も出なかった。まさにあのときの智也がそれで心を病み、自分で自分を追い込んでしまっていたから。
だからこれからは小さなことでも自分を褒めてあげようと、改めてそう思った。
「さぁ、それじゃあご飯にしようかしらね。頑張った分、たらふく食べるんだよ」
「はい!」
新井さんに続いて食堂に赴くと、既に今晩のご飯がテーブルの上に並べられていた。
白米、味噌汁、サラダといったレギュラーメンバーはもちろんのこと、それらを差し置いて主役は俺だと訴えかけてくるお品が二種類ある。
いただきます、と手を合わせた智也は山盛りのご飯を片手に持ちながら、早速その一つへと箸を伸ばした。
一皿に盛り付けられた野菜と肉。そのどれもが柔らかく、そしてしっかりと味がついている。
あめ色の玉ねぎと乱切りにされた人参。ごろごろとしたじゃがいものほろほろ具合に食べ応え抜群な牛の肉。それら全ての味を何段階も引き上げているのは――煮汁だ。
長時間じっくりと煮込んだことによって具材の旨味がそこに溶け合い浸透して、より美味しさに輪をかけている。
熱々のじゃがいもを口にしながら、智也はそう感じた。
肉、白米、味噌汁、野菜、肉、と何度かループしたところで、もう一つの主役である蓋物へと手を伸ばす。
中にどんなお宝が入っているのかと胸を躍らせながら、小さなうつわの蓋を取り、そこに顔を覗き込んだ。
ようやくお鉢が回ってきたかと、そう物申すかの如く湯気が立ち昇り、智也の顔面が襲われる。
そのとき黒瞳を見開いて驚いたのは、単にそれが原因ではない。立ち昇った湯気――そのものを美味しいと感じてしまったからだ。
――無意識に、歯を噛み合わせようとしていたことに気付いて智也はそこで我に返った。
頭の中ではツルりとした表面を匙で撫で、プルプルとした食感を舌の上で感じていたつもりだったが、実際はまだ香りを嗅いでいただけだと知って驚愕する。
新井さんの料理の腕には再々肝を抜かれているが、これほどまでに五感を狂わせられたのは初めてだ。
ごくり、と生唾を飲み込んで。
今度は確かに右手に匙を持ち、その美しくなめらかな表面をすくい取った。
「うま……」
思わずそんな声を漏らしながらもうひとすくい。
たまごのやさしい口当たりが、和風だしの上品な香りが、智也の心を満たしていった。
「――ごちそうさまでした」
米粒一つ残さずに完食して手を合わせる。
毎度ながら、これほどまでの料理を食べられることに感謝の念が尽きない。そういう思いを含んだ言葉のつもりだったが、それは元の世界ではどうだっただろうか。
いつも通り食べ終えたお皿を片付けて、自室に向かいながらそう思い耽っていた。
「あれ」
部屋の中。ふと、「いないのか」と呟きそうになった言葉を口の中に留めた。
そこにいるはずの少女の気配を、目だけ動かして探る。
当然、特別な能力があるわけでもないので、何かを感じることはできずに。それでも、物音一つ聞こえない状況なのは妙である。
或いはまた背後から現れるのかとも考えたが、その様子もまるでない。
と、今朝のことを思い出した智也は自分の影についと視線を落とした。
「――――」
眉をひそめ、しばらくの間じっと見つめていたが、「まぁいいか」と嘆息して智也は肩を竦めた。
広いベッドの上、組んだ手に頭を乗せて寝転がり、思いを馳せるように天井を見つめる。
緩やかに押し寄せてくる眠気を感じつつ、ひとたび瞼を閉じれば、いつの間にか智也の意識はそこに吸われていた。
✱✱✱✱✱✱✱
暖かい布団の中、誰もが夢を見ているような時間帯。
そんな早朝に、リヴ魔法学園の一角で、既に汗を流している者がいた。
覇気のない顔をした、しかし意外と厳しい指導者の下、風変わりな木剣を必死に振っている者が。
いわゆる素振り用木刀で、持ち手は普通のそれだが先端にいくにつれて太くなっているのが特徴的。
名前の通り筋力トレーニングのために用いられ、この日も例に漏れず素振り用としてソレは扱われていた。
「四十八……四十九……ご、じゅう……」
「あと一回!」
体育館に響く男の声。その指示に、智也の両腕が悲鳴をあげる。
今ので既に限界だったのだ。こうして木剣を構えているのがやっとな状態。そこからのもう一振りは、絶望的だった。
とはいえ横合いから灰の眼の圧を感じれば引くことはできず。歯を食いしばりながら、智也は木剣を振り上げた。
「……ッ!」
前腕をぷるぷると震わせ、体をよろめかせながら振りかぶる。それでどうにかこうにか腕は上がったが、問題なのはここからだ。
素振り用と銘打つ手前、通常よりも重さが増しているのはもとよりだが、たかだか数十回で音を上げているのは決して智也の非力さだけが原因ではない。
ただ木剣を振り下ろすのみなら大した労力にはならない。振り下ろした刃を頭の高さで止めるからこそ負荷がかかり、また筋力の向上へと繋がるのだ。
その理屈を頭で理解していたとて、今まさに感じている苦しさが和らぐわけではなく。
気合いで持ちこたえようとはしたものの、限界を迎えた腕では支えきれずに、肩から脱力して床に木剣を落としてしまった。
「はぁ……はぁ……きっつ……」
額に玉の汗を浮かべながらその場にへたり込む智也。
素振りの前には走り込みや自重トレも終えており、これまでと比べると一層ハードな一日を送っていることになる。
「でもこれぐらいしなきゃ、ああはなれないんだよな……」
階段走り一つとっても、その人は智也の何倍もの回数をこなしているのだ。むしろこの程度じゃまだまだ足りないくらいだろう。
心の中でそう呟きなから、こちらに歩み寄ってくる先生に智也は視線をやった。
「お疲れさん」
「……ありがとうございます」
手渡された手拭いで額の汗を拭いながら、呼吸を整える。
そんな智也に先生は不敵な笑みを浮かべると、
「んじゃ、次は受け太刀の練習だな」
そう言って体育館の中央に足を運び、準備運動を始めた。
それを見た智也は思わず苦い表情をして、咄嗟に両頬を叩いた。
智也には、あの人みたいになりたいという強い憧憬の念がある反面で、すぐにへこたれてしまう心の弱さがある。
故に「まだやるんですか」という言葉が一瞬頭をよぎったため、己で咎めた次第である。
「こんな気構えじゃ駄目だ。これまでの弱い自分とは決別するんだから」
結果として、藤間との再戦で勝利を収めたものの、今のままでは次やって勝てる保証はまるでない。それこそクラス対抗戦で思うような成果が得られなければ、またそこで挫けて意欲を失ってしまうのか。
それでは何の成長にも繋がらない。もう一度戦っても勝てるだけの技量を、己の弱い心に打ち勝てるだけの精神力を、智也は身につけていかなければならないのだ。
「稽古、よろしくお願いします!」
竹刀を脇に、座して待っていた先生の元へと駆け寄ると、智也は今日一番の声でそう頭を下げた。
先生はそこまで改まらずとも、といったような顔をしていたが、これは智也の気持ちの問題である。
そうして気を新たにした智也は対面に回り込むと同じように膝を正し、座礼したのちに木刀を握り、来る猛撃に備えた。
✱✱✱✱✱✱✱
「やっほ。昨日あれから話せた??」
「あ、東道さん」
一人離れたところで休んでいる少年を、静かに見つめる視線が一つ。
それに気付いた東道がすっと歩み寄り、そう問いかけるが、返ってきたのは歯切れの悪い反応だ。
苦笑いを浮かべて誤魔化しつつ、足元に視線を落とすクラスメイト――紫月に、「遠慮しぃだな~」とため息一つ。
「ウチも見守ってあげればいいとは言ったけどさ、別にじっとしてる必要はなくない??」
「そうなん……? なんかそこら辺の塩梅が難しくて……」
「ま、一生遠くから見てるだけでいいなら、そのままでいいと思うけど」
「うーん、それは……」
眉尻を下げて困ったような表情をする紫月に、東道は肩を竦めて。少し間を置いてから、自分の胸を叩いた。
「――仕方ない。じゃあウチが一肌脱いだげる」
頭の上に疑問符を浮かべる紫月に東道は歯を見せて笑い、そのやり取りを聞いていた雪宮と栖戸が、同時に首を傾げた。
「あ、せんせい! おはようございます」
「おはよ」
と、先生が体育館に入ってきた気配を真っ先に感じ取った栖戸が、表情を一変させた。
その頭をポンと叩いてから先生はいつもの定位置へ。そうして気の抜けた掛け声によって招集がかけられて、
「んん……寝てたのか」
寝惚けまなこをこすりながら、智也は目を覚ました。
どうやら朝練が終わったあと、疲れ果てて眠っていたらしい。それで朝会に赴いていたはずの先生や、いつの間にか出揃っているクラスメイトの姿に驚きつつ、慌てて身を起こして目の前の集団に加わりにいく。
そんな智也の姿をまじまじと見つめ、顔に喜色を浮かべたのは七霧だ。
おそらく、知らぬ間に寝顔でも覗かれていたのだろう。それを察して少し恥ずかしさを覚えながら尋ねてみると、やはり想像通りの返答があった。
「――黒霧さん、最近朝早いっスよね。この前も授業中に先生と練習してたし。何かやってるんスか?」
「あー、剣術を教わってるんだよ」
「剣術!?」
頭の後ろにやっていた手を下ろしながらそう答えると、七霧は大きく目を見開いた。心なしか黄色い瞳が煌めいているように見えたのは、気のせいだろうか。
驚嘆したような七霧のそんな表情に、智也は目をしばたたかせる。
「あー今日は午後からテストを行うつもりだ。内容は、この間話した『改造魔法』についてだ」
「うげげぇ!」
「どんな驚き方してんの……いや、てか先生それマジ??」
「マジもマジ、大マジだよ。ちゃんと予告しただろ?」
苦虫を噛み潰したような顔で念を押す東道に、先生はあっけらかんとした表情で頷き返す。それで方々から溜め息やら不満の声が上がるが、「改造一つできないようじゃ進級できねぇぞー」と承服させていた。
「うげげぇ!」
「神童さん、二回目は面白くないっスよ」
「おふ、真顔で言われんのが一番刺さるンゴ……」
七霧の発言に胸を押さえる神童に、「別に一回目も面白くはなかったけどな」と心の中で呟きつつ、智也は引き続き先生の話に耳を傾ける。
「でだ、午前中はテストのための準備時間とする。各自今の内に手順や技法を見直して、午後までに備えておくように」
「えぇー! この間の説明、マジ何も覚えてないんだけど!」
「東道お前なぁ……」
「……七霧くんは今日やけに落ち着いてるね。改造魔法、難しくないの?」
先生に半眼でじっとり見つめられ、照れくさそうにはにかむ東道を横目に、国枝が不思議そうに首を傾げた。
それに対して七霧は満面の笑みを浮かべると、
「黒霧さんがなんとかしてくれるっスからね!」
「あー、そっか」
人任せかよ、と智也は苦笑しながら楽しそうに笑う七霧を視界に捉えて。その外側で、国枝が二人から視線を外したことに気付かない。
そんなこんなで、午後に備えての準備が始まり――――、
「てわけでぇ、今回もよろしく! 黒霧くん」
「どういうわけだよ」
「えー聞いてなかったの? 皆で一緒に『改造魔法』作ろうって話じゃん」
皆で、とは言ったものの、実際は智也頼りであることを知っている。頼りにされること自体は嬉しいが、それで言えば東道だって一度は経験があるはずなのだ。
「前回も思ったんだが、東道は水世から一度教わってるんだよな?」
「うん。でもちゃんと全部忘れたよ」
「胸を張るところじゃないと思うが……」
そもそも、一度目があっただけでも智也にしてみたら目から鱗な話だ。それで費やした時間が無下になったと知れば、水世はどんな顔をするだろうか。
「今回は水世さんにお願いしやへんだん?」
「それがさ~、『二度も同じことを教えるつもりはないわ』って怒られちゃったんだよね~」
紫月と東道の会話を聞いて、智也は思わず苦笑いを浮かべた。
「じゃあぼちぼち始めるか……。ちなみに、それぞれどんな改造をしたいかってのは決まってるのか?」
「はい! 自分はカッケーやつが良いっス!」
「ウチは水属性のだったら何でもいっかな~みたいな」
「右に同じく」
「随分と漠然としてるな……」
七霧、東道、栖戸の順に視線を移して、智也はやれやれとため息を溢した。
そんな中、意外にも熱意を見せたものが一人。
「私は、二十四番の魔法を改造してみたい……かな?」
「ほーう。その心は??」
「あえて風属性の魔法を選んだんは、先生に色んな魔法を使えるようになった方がいいって言われたからで、それで……って、この説明いるん……?」
一瞬、何故か智也の方をちらと見てからそう説明を始めた紫月。それに東道がにんまりとして、
「じゃあ、最初は紫月さんが黒霧くんに手伝ってもらうって感じでいく??」
「いや、それじゃ他の」
「一度に何人も見るのは大変っしょ。ウチらはその間、ゆきみーに教えてもらうしさっ」
東道が持ちかけてきた話だったのにと、ちぐはぐな言動に眉をひそめる智也。傍らでは、雪宮が小さな声で「なんで知ってるの……」と困惑していた。
「んじゃ方針決定ってことで! 頼んだよ、黒霧くん」
「あ! 自分も黒霧さんに――」
「はいはい、七霧くんはこっちね~」
「えー!!」
「……えっと、じゃあよろしくお願いします」
何か言いかけていた七霧を無理やり東道が連れていき、それに苦笑いを浮かべつつ紫月が軽く会釈する。
智也は、頭を掻きながら「あぁ」と短く応えた。
「二十四番、だったよな」
「あ、うん」
「まずはどんな改造にするのかっていう方針を決めるところからだな。何か案はあるか?」
パラパラと『魔導書』をめくりながら淡々と呟く智也。
そこに落としていた視線をついと紫月へ注ぐと、当人は何度か瞬きを繰り返した後に、少し表情を和らげて語りだした。
「私も魔力量が少ないから、最初は智也くんみたいに節約できたらいいなって思っとったんやけど、でもそれやとあんまし映えへんかな?」
「確かに魔力を調整しただけの改造じゃ、見栄えはしないだろうな。でもあくまでこのテストは、俺たちの魔法への理解度を高めることが目的のはずだ。見掛け倒しな物を作ったところで、他に用途がなければ意味ないんじゃないか?」
智也がそう説くと、紫月は得心のいったような声を出した。
実際は、自分が経験した改造方法ならより教えやすいという考えがなくはなかったが、後半に述べたことに関しては、智也の本意に相違ない。
「そやったら、私も節約用の魔法が欲しいかな」
「わかった。じゃあそれで行こう」
「うん!」
そうして体育館の床に魔法陣を展開させると、そこに並んで座って二人は作業を始めた。
未だ見慣れない特殊な記号と文字に悪戦苦闘をする――そんな様子を後ろから眺めて、東道が満足げに頷く。
その隣で、七霧は不服そうな顔で腕組みをしていた。




