第七十九話 「シンショク」
「大変勉強になりました」
無事に合同授業を終えたA組とC組の生徒が、向かい合って整列しながら握手を交わしている。
その光景を眺めていた灰の眼の男に、紅褐色の髪の女が一歩近寄り、そう腰を折った。
が、男の態度は素っ気ないもので、冷たい眼差しを寄越すとすぐに顔を正面に戻し、再び教え子たちをその眼に映して難しい表情を浮かべる――。
「ククク……まさか我らの城が落とされようとはな。だが、中々に有意義な時間であった」
「もしかして桃ちゃん、まだ勘違いしてる……? でもまぁ私も楽しかったかな。貴方とはまた今度、改めて手合わせ願いたいわ。――もちろん次は全力でね」
不知火の隣で含み笑いをする白に、対面の水世が澄ました顔でそっぽを向く。それを横目に、何故か先頭に立たされた智也は熱い握手を受けながら苦笑して、
「……僕も、同じ轍を踏むつもりはない。次こそは持てる全ての力を使い、鎬を削るような熱い戦いを繰り広げようじゃないか」
紺色の瞳が国枝を、智也を見据えてやけに対抗心を燃やしている。
そして清涼と女生徒が穏やかに握手する更にその奥では、恐る恐る手を差し出した眼鏡の生徒を藤間が目障りそうに睨んでいた。
そうして負けたクラスは次なる戦いでのリベンジを誓い、勝ったクラスも負けじと心を燃やして、その場は幕引きに。
「あの女の人めっちゃ強かったな~」
「見事な噛ませ役だったもんな!」
「はあ? お前こそ大見得切ったくせに何もしないままやられてたじゃん」
「ちっちっち、俺はあの時雨って奴を引き立ててやったんだよ。分かるか? この違いが」
背中を擦りながら苦い顔をする虎城に神童がいらぬちょっかいを出す。
当然、自分のことを棚に上げてと罵られているが、神童はそれに指を振って得意げな表情を浮かべている。
「同類だろうが」
そんな二人のやり取りを耳に、智也は心の中でそう呟きながら、ふと後ろを振り返った。
午後の授業を終え、まばらに帰路に就く一同。
同じ闘技場から帰るというのにあえてC組の生徒は別の出入口に向かっており、何の気なしに彼らの背中を見つめた智也は、こちらを注視する女性の視線に気付きその首を傾げた。
怪訝な視線を送る智也に女性は口を閉ざしたまま、ただ妖艶な微笑みを浮かべるのみ。
それに悟られない程度に眉を寄せて、少しの間思考を巡らせたが、特に何も得られずそのまま踵を返した。
✱✱✱✱✱✱✱
「最後の国枝さんの魔法、カッコ良かったっスね! 自分はまたなんの活躍もできなかったっスよー」
「いやいや、あれは仕方無いよ。あの久世くんですら防げなかったんだから」
「まさかっスよね~。でもやっぱり、最後には水世さんがなんとかしてくれたっスね」
学園前の長い階段を三人肩を揃えて下っていく。七霧を中心とし、左に国枝、右に智也といういつもの図だ。
対話の口火を切るのも決まって七霧であり、彼なくしてこのグループは成立しないのではないかと、智也は以前から思っていた。
児戯的だと半ば笑いの種にしていたあのチーム名も、彼がつけてくれたからこそ意味を持ち、こうして拠り所となっているのかもしれない。
なんて、そんなことを考えていると国枝に向けられていた視線がこちらへ移され、智也の視界が一ルクスほど明るくなる。
「ん、そうだな。まぁ頼りにしてばかりいると、また蔑まれそうだが……」
少し前を歩いている本人に聞こえないように返しつつ、結局自分も一人ではなにもできなかったなと、続く言葉を心の中で呟く。
あのとき水世が機転を利かせて対応してくれたからよかったものを、中々に強引な手段であった。或いはC組の中には不満に思った者もいたかもしれない。
それにもしもあの無理が通らなければ、水世はきっと動けずじまいだったろう。そうなったとき動ける足が、戦える魔力あった智也に、何ができていただろうか。
「黒霧さん?」
隣の七霧や国枝にまた暗い顔をしているのかと思われそうだが、今日のこれは自分の無力さを悲観しているのではなく、あくまで次に活かすための脳内反省会なのだと勝手に言い訳する智也。
仮に周りがそう思わなくとも、自分の中で線引きができているのならきっと大丈夫だろう。
「黒霧さーん!」
と、やけに大きな声で呼ばれるので何事かと思い思考止めた智也の、その顔に厚い胸板がぶつかった。
「久しぶりに見かけたと思ったらお前、まーた船漕いで歩いてやがったのか」
「いてて……って、なんでこんなとこにいるんすか、千林さん。ていうか船漕いでませんけど」
「あー? お前、知らねぇのか。見張りだよ、見張り」
そう言って「ガハハ」と大口を開けて笑う、いかにも悪そうなナリの男――射的屋の店主に、智也は目を丸くさせた。
いつもの店の窓からのご挨拶ではなく、こうして学園前の通り道で出会したその理由は、どうやら智也の今朝の発言が起因しているらしい。
まさか、話したその日に動いてくれるとは思わなかったが。
そうして智也が脳裏に灰の眼の男を浮かべていると、国枝が「知り合い?」と尋ねてくる。
「あー、まぁそんなもん」
「ダチだよ、ダチ。なぁ智也」
「へ、へぇ……」
智也の言葉を遮って肩に手を回してくる店主。おそらくその顔面に怖じ気づいているのだろう、国枝が少し引いているのが分かった。
「黒霧さん、なにか弱みを握られたんスか……? まだ引き返せるのなら戻ってきてほしいっス!」
いったい何を勘違いしているのだろうか。まるで智也が道を踏み外し、関わってはいけない人と付き合っているかのような発言だ。
怯え震えながらも友達のためにと声を大にして叫ぶそんな七霧に、智也は弁明しようとするがそれより先に、
「あぁん? なんだお前、コイツはもうウチのもんなんだよ」
「ひいいい、すいませんっスー!」
「……千林さん、ほどほどにしてやってください」
厳つい顔面を更に鋭くして、威嚇された七霧が慌てて国枝の後ろに隠れる。それで身を震わせる二人を愉快げに見やる店主に、智也はやれやれと肩をすくめた。
「まぁなんだ、とりあえず元気そうでよかったよ。てっきり俺は、模擬戦で負けてしょぼくれてんのかと思ってたからよ」
「……」
「なんだ図星か?」
「違います」
「お前も嘘が下手くそだなぁ、ガハハ!」
治ったばかりの傷に塩を塗って笑ってくる店主。それに智也がへそを曲げていると、黒い頭がわやくちゃにされる。
「ったく飯くらいウチで食わせてやるって言ってんだろ。寝床が欲しけりゃ、俺の寝具も貸してやるよ」
「……親父臭くないですか?」
「ガハハハ! ぶちのめすぞコラ」
額に顔を押し付けられ、文字通りの目と鼻の距離に厳つい顔面が迫る。お互いただの戯れだと理解しているはずだが、何度見てもやはり迫力は満点であった。
そして、おそらくは今の智也の照れ隠しも見抜かれているのだろう。店主は身を離すと「ほんとはウチで雇ってやれりゃあいいんだけどな」と、しみじみ語っている。
「あ、それか武ちゃんとこで働くか? あれなら俺から話付けてやるが」
手を叩いて、今しがた思い付いた提案を口にする店主に、智也は話についてこれていない二人を見やってから頭を悩まし、その首を小さく横に振った。
「気持ちだけで充分です。それに、もしそうなったときは自分から頼みにいくんで」
「ほう、言うじゃねぇか。でも智也はぶきっちょだからなぁ、色々と」
「……」
痛いところを突かれたのでこっそり意趣返しをしたというのに、またしても急所をつつかれて返答に窮してしまう。大人というのはみんな卑怯だと、智也はつくづく思った。
「そうだお前ら、最近不審者がうろついてるって話だ。もし見かけたらすぐ大人を呼べよ」
「そういえば帰る前に、降魔先生もそんなこと言ってたよね」
「ちょうど昨日この辺りで見かけたんスよ!」
「え……そうだったの!?」
異様に動転する国枝。それほどまでに智也たちの身を案じてくれたのだろうか。同意を求めてくる七霧の眼差しに智也が首肯で応じると、彼は細い息を吐きながら上がっていた肩を緩やかに落とした。
「あれだったら、ウチに逃げ込んできてもいいんだからな」
「いやぁそれはちょっと……」
「千林さん、それは誤解解かないと無理っすよ」
なんて言って苦笑すると、店主がまた「ガハハ」と大口を開けて笑い、なんとなく帰る空気になって二人はおずおずと住宅街の方へ。
「じゃあ……また明日っス」
「またな」
もう少し話していたかったと思いつつ、最後まで怯えながら去っていく二人の背に「明日改めて誤解を解いとくか……」と、頭を掻きながら智也も下宿屋へと歩を進めた。
✱✱✱✱✱✱✱
いつものように路地を抜け、中央広場を横切る智也。
その視線の先、ちょうど下宿屋に入ろうとしていた二人の少女と目が合い、途端にその顔をしかめられる。
「うわ」
「人の顔見て『うわ』って、そんな害虫でもあるまいし……」
「よく私の心が読めたわね」
誰が害虫だ、という文句は胸にしまっておき、智也は静かに苦笑する。というのも、本来は男子禁制であるはずのこの下宿屋に、家主と一部の住人に許可を請うて無理に泊めさせてもらっているのだ。
当然智也には、害虫だのケダモノだのと罵られても反論することは許されない。
それで今一度真剣に親父臭い布団で寝ることを天秤に掛けてみるが、どっちもどっちだと結論して眉間を摘まんだ。
「……」
「……」
「…………」
何の間だろうか。なにかまだ用件があるようにも感じられるが、二人とも一向に口を開く気配がない。かといって家の中に入るでもなく、入口を塞がれているので智也もその場に佇むばかり。
「昨晩」
「入らない……ん?」
と、こちらから言葉を発しようとしたところで淡藤色の髪の少女――雨音と発言が被ってしまう。
何を呟いたのか、聞き損なった言葉を求めて智也が耳を傾けると、自然と雨音の方から語り始めた。
「……昨晩、貴方の部屋から……女の子の声が聞こえた」
「げ……!?」
「おかしいわよねぇ。一人部屋であるはずのアンタの部屋に、別の人間――それも女の声がするなんて」
昨晩、確かにうっかり声を張り上げてしまった場面があったので、もしやと智也は危惧していたが、やはり部屋の外にまで響いてしまっていたらしい。
それでいま、あるまじき行為だと二人に責め立てられているわけだ。
こうならないために気を張っていたというのに、詰めが甘かったか。と、そう項垂れる智也を萩色と紫の瞳が射抜いてくる。
「言ったはずよ。何か不審な動きを見せたら、その時は容赦しないと」
「ぐ……」
「ま、消し炭にするのは勘弁してあげるわ。ただし、金輪際この家に立ち入らないでちょうだい」
冷え切った瞳で厳しく非難する赤毛の少女に、智也は返す言葉が見つからない。
特別やましい気持ちがあるわけでもなく、言うなれば智也は、勝手に現れ纏わりついているあの金髪少女の被害者なわけだ。
であれば、過剰反応とも取れる二人の忌避感にあてられる謂れは当然ない。とはいえ二人にとって智也が、異性が異物であるという認識を理解できないわけでもない。
「あれは……俺の妹なんだよ」
だからせめてこちらの言い分も聞いてもらおうと思い、咄嗟に嘘をついてしまった。
「夕」
「……うん。今の発言は……嘘だよ」
と、すぐさまその嘘が看破されて智也は目を白黒させた。
先ほど下手くそだと言われたばかりではあったものの、こうも容易く見破られるのは不可思議である。
そうして戸惑う智也を置き去りに、今一度嫌悪の眼差しを向けると二人は扉を開けて下宿屋の中へ入っていき――、
いや、扉を開けたのは目の前の二人ではない。
それをした者が中から飛び出し、勢いよくこちらに向かって走ってくる。
「お兄ちゃ~ん!」
「は?」
「おかえりなさい! 今帰ってきたとこ?」
そう言って腰に抱きついてくる者に、智也は余計に面食らってしまう。
何故ならそこに、あどけない笑みを浮かべた金色の髪の少女の姿があったからだ。
思うところは多々あるが、それが自分にとって益をもたらす行動であると瞬時に悟った智也は、ひとまずその流れに乗ることに。
「あぁ、そうだよ。ただいま」
声を震わせたその演技に、下手くそか。と智也は心の中でつっこんだ。
だが仕方ないのだ、兄弟のいない身には接し方が分からないのだから。
「どういうこと? ほんとに妹?」
「……」
「兄がいつもお世話になっております」
智也が心の中であれこれ呟いている傍らで、金髪少女は二人に向かって行儀よくお辞儀をしている。
それに対してぎこちないながらも会釈が返され、
「あなた、本当にコイツ……この人の妹さんなの?」
「はい! 黒霧玲奈っていいます!」
十中八九偽名だろうが、智也でさえ初めて耳にするその名前に赤毛の少女がちらと横を見る。その視線に雨音は緩やかに首を横に振っており、何を確認したのかそれで多少は目付きが穏やかになっていた。
「可愛らしい子ね。お兄さんとはあまり似ていないようだけど」
「……そうか? 目の色とか同じだろ」
「……」
どうやら完全には信用していないらしい。
図に乗った智也が唯一の共通点をそれらしく語ってみるが、先と変わらぬ冷めた眼差しが向けられた。というより、仮にこの少女を妹だと認識したとして、それで智也に対する対応が変わるわけではないというだけか。
「……どうする? 茜」
「……ひとまず、新井さんに確認するわ」
そんなこんなで、妹であるならと昨日の件は不問に付してくれたのだろうか。
なにやら小声で話したあと、不服そうながらも下宿屋に入っていった二人に智也はそう解釈して。
「お前……また面倒なことしてくれたな」
「えぇー、せっかく困ってるところを助けてあげたのに、そんな言い草ですかー?」
「それはそうだけど、兄弟がいないって話した人もいるんだぞ」
「ということは……これで名実ともに親族ですね!」
唇に指を押し当てながら思案したあと、金髪の少女は屈託のない笑顔を浮かべた。
「事実をねじ曲げるな。そして俺の話をちゃんと聞け」
「いいじゃないですか、こっちのほうが堂々と活動できて。それより早く私たちのお家に入りましょう!」
「あんまり堂々とされても困るんだが……」
微塵も話を聞いていない少女にそう肩を落として、智也は腕を引かれるままに下宿屋の中へ。
「ただいまー!」
「うふふ、おかえりなさい。今日はみんな一緒なんだねぇ」
「あの、新井さん……こいつ」
「玲奈ちゃんと智也くんも座って待っててちょうだい。すぐにご飯の準備するからねぇ」
溌剌とした声を出す金髪少女と、至って普段通りの家主の反応に、智也はいつの間に面識があったのかと眉を寄せた。その旨について話を聞こうとするも、新井さんはせかせかと食堂の奥に入っていってしまい。
智也はため息を溢しつつ、仕方なく席についた。
「それで、玲奈ちゃんは何歳なの?」
「えーっと……七歳です!」
「随分と年が離れてるのね。お父さんとお母さんは?」
「父と母は、フルルイユ村で暮らしています」
「フルルイユ村って……」
席につくや否や、赤毛の少女からの質問攻めに遭うが、義妹――いや、偽妹玲奈はそれらにそつなく答えていく。
その様に、よくもまぁスラスラと嘘が語れるものだと感心する一方で、何故か問いを投げた方が言葉を詰まらせているのに気が付いた。
しかし、世事に疎い智也にはその心情を読み取ることができず、ただ蟠りを感じるのみで、
「おまちどおさま」
新井さんが運んできてくれた大皿を見た次の瞬間には、その蟠りも唾液によって溶けていた。
まるで山岳を思わせるような風貌はある種、金山よりも価値があるかもしれないと短絡的な思考に陥る。
少し考えれば金を産出する宝の山にどれほどの値打ちがあるか分かるはずだが、それができないくらい脳が煩悩にまみれていたのだろう。
その原因である山岳――山盛りになったこぶし大の鶏肉を見て、智也は喉を鳴らす。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
右手に箸を、左手に茶碗を持って臨戦態勢に。
そうして配膳を終えた新井さんがテーブルから離れると、すかさず智也は大皿に箸を伸ばした。
厚い衣を纏い高温で熱せられたそれは色濃くきつね色に仕上がっており、芳ばしい風味が鼻を掠める。
一口かじればカリカリに揚がった衣が口の中で砕け、咀嚼するたび小気味良い音を奏でた。
そして、今の一口で肉の断面があらわになり、そこから肉汁が滲み出ているのが目に見えて、
「あふ……んまい……!」
思わず大口でかぶりつけば、衣のサクサク食感と程よい弾力を備えた肉のプリプリ感が噛み合わさって天に昇るような思いになる。
気付けば、いつの間にか醤油の風味と肉汁でコーティングされた口内に白米を詰め込んでいた。
「品がない。いかにもケダモノって感じがするわ。玲奈ちゃんとは大違いね」
「おいしい~!」
「そう? よかったわ。智也くんも、まだいっぱいあるから焦らなくて大丈夫だからねぇ」
一度も箸を止めることなく食べ続ける智也に赤毛の少女がそう呟いて、続く目配せに倣って隣を見れば、偽妹がお上品に箸を付けていた。
確かに血の繋がりがあるようには到底思えないが、それで智也の食欲は抑えられない。
追加で運んできてくれた、揚げたてのようにアツアツなそれらにも手を出し、溢れでる肉汁によって幾度となく幸せの波に溺れそうになる。
そうしてあっという間に茶碗の中を空っぽにして、最後に一際大きな肉にかぶりついたあと、残った味噌汁を啜って満ち満ちた表情で両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「って、そうはいかないぞ」
「なにがですか?」
自室の扉を閉め、怪訝な眼差しを向ける智也に少女が笑顔でそう振り向く。
窓明かりによって照らされた金髪が薄暗い部屋に際立ち、まるで後光が差しているかのようである。
「おかしいだろ、明らかに。なんで見ず知らずのお前が当たり前のように同じ釜の飯を食ってるんだよ」
「妹らしく振る舞えていませんでしたか?」
「そうじゃない。なんでお前が俺の妹として認識されてるのかを聞いてるんだよ」
とぼけたような面をする少女を問い詰めるように、智也は一方前に出る。
面倒なことにならないようにと、昨日一日この部屋の中にいるよう智也は指示を出していた。本人もそれを遵守したような口振りをしていたが、逆に新井さんの方からこの部屋を訪れた可能性は否めない。
なぜなら以前も、知らぬ間に壁掛け時計が用意されていたことがあったからだ。
とはいえ、顔を会わす機会があるとすればその一日だけである。――その割には、随分と親しげな間柄にあるような印象であった。
まるで、もっと前から面識があったかのように。
「答えろよ。新井さんになにか」
「この街は良い人ばかりですね。でも、その優しさは果たして本物なのでしょうか?」
「何を……」
「真面目すぎると視野が狭くなりますよ。目に映るもの全てが真実とは限らない。誠の心と邪な心、人間にはそのどちらも混在していますからね」
そう語った少女の手のひらの上に光る球体が現れ、ふよふよと浮いて智也の方に飛んでくると、バチッと弾けて消えてなくなった。
途端、猛烈な睡魔に襲われ床に崩れる智也。
次に瞼を開けたときには、布団の上で朝を迎えていた。




