第七十一話 「再起再燃」
「――朝か」
目覚めと共にそう独りごちながら、智也は体を起こした。
現在時刻は六時半。昨日一日で頭を使ったからか、自堕落な生活で鈍っていた脳が活性化し、無事に『早起きスキル』が稼働したようだ。
「寝ている間にまたこっそり忍び込まれるかと思ったが――」
と、広く感じるベッドの上で続けて思案する。
突然現れ急に消える、神出鬼没な金髪の少女。どうやら彼女は日常的に智也のことを観察、ないしは監視しているようなので、不用意な発言はできず。
それを心の中に留めたのは、また今度会ったときに変に誤解されないためであり、別に何かを期待していたわけではない。
そうして誰に言うでもなく言い訳を残して洗面所に向かうと、智也は冷たい水を顔にかけて目を覚ました。
そんなことをしなくても既に意識は冴えていたが、ある意味目を醒ますためでもある。
一時は自暴自棄になり生きる意味すら見失ってしまったが、心から抜け落ちた大事なものを取り戻すことができ、もう一度頑張ってみようと思えたから。
――だから、
「よし、行くか」
制服に着替え、ネクタイを締めて、気合いを入れるようにそう呟く。
あの人みたいに強くなりたいという憧憬の念を再び胸に抱いて、智也は閉鎖的な空間から外に飛び出した。
✱✱✱✱✱✱✱
「おはようございます!」
「完全に戻ったみたいだな」
「……なにがですか?」
いつものように第一体育館で待っていた先生にそう声をかけると、意味深げな発言と共に不敵な笑みを向けられた。
それを智也は不思議がるが、先生は答えようとはしてくれず。
「そういえば少し前に、属性の再検査を提案したこと覚えてるか?」
「あ、はい。てっきり忘れられてるかと思いました」
「んなわけあるか。ちゃんと話は通しておいたから、この後しっかり見てもらうといい」
「ありがとうございます……!」
それは智也が自分の限界を知りたいと、先生に『魔導具』を借りて魔力の消耗度合いを検証した日のことだ。
本当に智也が無属性であるならば五つの属性に等しく適性があるはずなのに、その結果には偏りがあった。
だから未だに智也は自分の適性について懐疑的であり、その悩みを聞いた先生が再検査の話を持ちかけてくれたのだ。
半分冗談のつもりだったが――と心の中で呟きつつ、ちゃんと自分の話を覚えてくれていて、尚且つそれが当たり前かのように語った口振りが嬉しくて、智也は少しだけ頬を緩ませる。
「あ……そういえば自分も報告したいことがあって」
「なんだ?」
「昨日の帰り道のことなんですけど……」
智也の表情から何となくそれが悪い話だと察したのだろう。心なしか険しくなった先生の顔に、智也は少し怖じ気づいてしまう。
そうして恐る恐る昨日あったことを報告する智也に、先生は灰の眼を見開いて驚愕の表情を浮かべた。
「――なに!? 連中と遭遇したのか!?」
「……はい」
「どうして俺を呼ばなかった。危険だから関わるなと話したはずだろ」
「すみません……女の子が一人、攫われそうになってて」
自分が叱責を受けているのは黒ローブの連中がそれだけ危険な集団であり、それだけ先生が身を案じてくれているからなのだと智也は理解している。
だから今回ではなく一度目の接触について話さなかったことを、今になって気が咎めた。当然、いまさらその日のことを打ち明けるのは不可能で。
「学園前の通りだったか」
「はい。七霧と……たまたま居合わせた水世のおかげで追い払えたんですけど」
「ひとまずお前らが無事でなによりだよ。にしても――確かに人通りは少ないが、わざわざ学園の前で人攫いだと……?」
怪訝そうに灰の眼を細める先生に、智也も違和感を募らせた。思い返してみれば不可解な点が多すぎるのだ。
何故あの者は少女を拘束、ないしは昏倒させて自由を奪わなかったのだろうか。
本気で攫う気でいたならば人目も忍ぶはずであり、せめて助けを呼べぬようにするべきである。
智也たちに目撃されたあとも強硬手段を取るわけでもなく、むしろこうして猜疑心を抱いてしまうほどに、行動に対する説得力がない。
「やっぱこの街に……いや、あの二人にできるとは思えない、か……」
「……? 見かけたのは一人だけでしたよ」
思案げに呟かれた独り言に智也が首を突っ込むと、先生は目を丸くさせてこちらを見つめてくる。
その灰の眼に智也は内心で首を傾げつつ、何かおかしなことを言っただろうかと思い返すが心当たりはなく。
「その子はお前の知り合いか?」
「いえ、初めて見ました。歳は同じくらいだと思いますけど、ここの生徒っぽくはなかったっす」
「それは『魔法服』じゃなくて、ボロボロの服を着てたからか」
「す、ごいですね……なんでわかったんですか?」
まるでその場に居合わせたかのような物言いに、或いは先生の方が知り合いなのかと智也は思案するが、その答えは濁されてしまう。
「とりあえず、しばらく見張りをつける。だがお前らも帰りは特に注意しろ」
「わかりました……」
思いの外に話が重い方向へ傾いてしまい、智也は自分の危機感がまだまだ足りていなかったのだろうと自覚する。
同時に、最近妙に物騒になってきたとも思ったが、そもそも智也が知らなかっただけでこちらの世界ではこれが常なのかもしれない。それこそ夢のような世界だと、一人浮かれていたのが恥ずかしくなる。
そうして言い知れぬ不安を抱いて眉を曇らせていると、先生が智也の頭に手を置いて「大丈夫だ」と笑いかけてくれた。
――手のひらから伝わる熱が全身を巡り、胸に巣食っていた負の感情が霧散していくようだった。
「んじゃ、ぼちぼち始めるか」
「……今日は何をするんですか?」
正直なところ模擬戦が終わった今、特段急いで練習すべきことはないと智也は思っている。
もちろんまだまだ他の生徒には遅れを取っていると自認しているが、一応は智也も少しずつ扱える魔法の種類が増えているのだ。
あの日、試合には負けたが或いは『魔臓』の成長だと思えるような変化も感じていた。不出来だった装備型の魔法も一応は物になったし、よくよく考えればちゃんと自分は成長しているのだと、そう感じることができたから。
「そうだな……【強歩】の仕上げをやるのもいいが、ちょっとばかし変わったことをやってみるのはどうだ?」
「……というと?」
「――黒霧、俺に剣術を学んでみる気はないか?」
「え」
それはあまりに当然のことで、まるで予想だにしていなかった提案だった。
これまで魔法の何たるかを学んできて、これから先もその練度を高めていくものだとばかり思っていたのに。
そんな風に動揺していた智也の心情を読み取ってか、先生は「別に他の練習を怠るわけじゃないぞ」と補足説明を入れてくる。
「それは……もしかしてこの前の模擬戦で、何か自分に光るものを感じたとかそういうことですか」
「いいや、全く。むしろあれじゃ避けられて当然だ」
じゃあなんで誘ったのかと心の中で呟きながら、割とストレートに非難されたのが病み上がりの精神に染みて苦い顔になる。
立ち直ったあとでなければ、それが決定打となって一生殻に閉じこもったままだったかもしれない。
「まぁ、それを理解して言ってるんだろうけど……」
「ちなみに武道の経験は?」
「ないです」
「刀を持ったことは?」
「ありませんよ」
「まるで未経験じゃねぇか」
「だからなんで誘ったんですか!」
あの世界に住んでいて刀に触れる機会がある方が稀だろうと思いながら、智也は声を上げた。
素養があるわけでも心得があるわけでもない者に、どうして声をかけたのか甚だ疑問である。
「ま、別に興味が湧いたらでいい」
「……」
確かに先生に言われた通り、付け焼き刃じゃまるで歯が立たなかった。
記憶を思い起こすとまだ僅かに胸がざわつくが、実際試合の最中に藤間にもそう罵られており、あれが単なる挑発などではないことを智也も理解している。
それでも、たとえにわか仕込みであろうともそれを作戦の一部として起用したのは、ひとえに効率が良かったからだ。
魔力量が劇的に少ない智也にとって、十三番の魔法はある種革命とも言える魔法であった。
耐久性に難はあるものの己の腕に纏わせて『武器』として扱えるそれは、狙いを外した時点で消費した魔力が無駄になる他のものと異なり、破壊されない限りは幾度となく有効打を取りに行けるチャンスがある。
――そして、『魔武器』を持たない身としては何より重宝すべき魔法でもある。
だからこそ智也は、躍起になって練習に励んでいたのだ。
藤間や水世のような高い身体能力はなく、久世のような優れた技術も持ち合わせていない。かといって自己を律する力も未熟で、心はガラスよりも脆い。
そんな智也に今必要なものは、まさに心技体を磨くことではないのか。
「さい……教えてください、その剣術ってやつを」
「お、その気になったか。だが剣の道は険しいぞ」
「任せてください。こっちは浅知短才の素人なんで」
「そりゃ教え甲斐があるな」
自己分析を終え、目標を見定めた智也のやる気に満ちた眼差しに、先生は口の端を吊り上げた。
わざわざ先生の方から持ち掛けてくれた話だ。その理由がなんであれ、智也の為にと考えてくれたことは明白である。未経験ゆえに不安が多く、突然のことで疑問が先に脳を占めたが、その申し出を断る道理などあるはずがなかった。
あの日、模擬戦にて先生と一戦を交えた久世が、誰かの真似事をしようとして指摘されていた。
そのとき先生は上辺を模倣するだけじゃ深みは出ないと語ったが、一方で『優れた者の真似をすることで努力次第では近付ける』とも口にしていた。
おそらく大切なのはその人を理解することなのだろう。思考を、価値観を、苦しみを、悲しみを、積み重ねてきた努力の全てを知って初めて、理想に一歩近づくことができる。
だが何もかもが足りない智也には、まずは上辺だけでも模倣してみる価値がある。先生が剣術を得意としているのであれば、同じものを会得して極める価値が。
「んじゃ、まずは基礎体力と筋力の向上からだな」
「やっぱり何をするにしてもそれは外せないですよね……」
「よく分かってるじゃないか。別に筋骨隆々になる必要はないが、そのままじゃ刀は振れないからな」
智也の細くも太くもない腕を見ながら、先生がそう呟いた。それから「試しにこれを振ってみろ」と、壁に掛けてあった一メートルほどの棒が手渡される。
刀身に重心が寄った櫂型のそれは、見るからに重量感があるが、
「なんですか、これ」
「こいつは振り棒つって、剣術の鍛錬に用いる道具だ。ほら、この前素振り用の竹刀を燃やしちまっただろ? あれの代わりだよ」
「なるほど」
「まぁあれよりは軽いから安心しろ。とりえずは……そいつを片手で振れるようにならないとな」
「片手でって……」
先端を床に付けていても感じる重み。試しに右手で持ち上げようとしてみるが、水平より上に振りかぶろうとしたところで前腕がぷるぷると震え出して、智也は思わず得物を手放してしまった。
「お、っも……!?」
「はは、最初はそんなもんだよ。ちなみに無意識に右手で振ったみたいだが、左でもできるようになってもらうからな」
「冗談ですよね……?」
利き腕でもこの有り様だ。それにこれでもまだ軽い部類だと話していたので、本当に先は長いのだと知って智也は顔を引き攣らせる。
「うし、じゃあまずは両手でいいから俺が止めるまで振り続けてみろ」
そして、鬼コーチによる手厳しい指導が再び始まった。
✱✱✱✱✱✱✱
「背筋を伸ばせ。振り下ろさず頭の高さで止めろ。腕じゃなくて足腰と背筋を使って振るんだ」
「も、もう腕が上がりません……」
「まだだ、もう一回!」
「く……ああああ!」
智也は素振りをするのが初めてということで、最初は普通の木剣にてその型や姿勢について学んでいた。
が、説明もほどほどにあの振り棒を用いた鍛錬が始まり、その厳しい指導にもはや鬼を越えて悪魔だと思いながら、最後の一振りに全霊を込める。
力の入らなくなった手のひらから得物が滑り落ち、息も絶え絶えになりながら智也も床に転がった。
仰向けになりながら顔の前で右手を握ろうとするが、そもそも腕が持ち上がらず、自分のものじゃないみたいに拳も握れない。
百も二百も数をこなしたわけではない。ほんの数分間、ただ正確な動作を矯正されながらゆっくり棒を振っていただけだ。それなのに、たったそれだけのことで智也の上半身は悲鳴を上げて動かなくなった。
「回数や速さよりも、一回一回正確に振ることが大切だ。そのためには呼吸と足捌きが肝になってくる」
「なんで……呼吸が……大事なんですか?」
「それこそが心技体の心得だからだ。それに、人は息を吸う際に隙が生じやすくなる。相手に息の根を悟らせないためにも……短く吸って長く吐く癖を日頃から意識しておいた方がいい」
その説明になるほど、という言葉しか智也の頭には浮かばなかった。
毎度ながら的確で分かりやすい説明だ。そう思いながら床に寝たまま、智也は瞠目していた。
「まぁいきなり全部を覚えろとは言わない。一つ一つできることを増やしていけばいい」
「分かりました」
「さて……そろそろ来る頃合いだと思うんだが」
と、体育館の入口を見やる先生に、智也も重い身体を起こし、同じ方向に目をやった。
開けっ放しにしていた両開きの扉からひょこっと顔を見せたのは、栗色の髪をした白衣の女性だ。
こちらの様子を伺うようにこっそり覗いたあと、目が合うと照れくさそうに笑いながら中に入ってくる。
「なんだー、もう練習終わっちゃった?」
「ちょうど今な」
「えー、せっかく覗き見るチャンスだったのに~」
「男の努力ってのは見世物じゃねーんだよ。な、黒霧」
「あ……おはようございます」
本気で残念がっている白衣の女性――新井先生に智也の恩師はそう言って意地悪く笑う。それに苦笑を浮かべながら智也が軽く会釈をすると、新井先生の表情は驚くほどに綺麗な笑顔へと様変わりした。
こんな朝早くからご尊顔が眺めるなんて、と溢れんばかりの笑顔から放たれる癒しの波動を感じていたが、
「こんな早くにどうしたんですか?」
「降魔先生に頼まれて、智也くんの再検査に来ました!」
「あ、そういえば……」
確かに今日、朝練のあとに再検査をしてもらえるとの話だったと思い出しつつ。
しかしまさか先生の方から出向いてくれるとは思わず、それも怖そうな先生の方ではなく、この女神のようなお方に足を運んで頂いたのだから、智也としては感謝の念に堪えない。
「じゃあ早速始めましょうか。恭吾くん、テーブル持ってきて?」
「しゃーねぇな」
めんどくさそうに頭を掻きながら、倉庫の方に歩いていく先生。その後ろ姿を見ながら、また新井先生は微笑みを湛えた。
前から笑顔の絶えない人だと思っていたが――と思案して、智也はどこかで既視感を覚える。
少しして、その答えが何なのか判然とし、声を上げようとしたところで先生が帰ってきた。
「――もしかして!」
「持ってきたぞー。ん? どうした」
「あ、いや、なんでもないっす」
優しいオーラに満ちていて、常に笑顔でいる素敵な女性。その笑顔は見ているこちらの心まで浄化して、どんな時も朗らかな気持ちにさせてくれるのだ。
それと似たものを、智也は毎朝毎晩見ていたはずだった。
年齢的に考えても、二人が血縁関係にある可能性は極めて高い。
どうして今まで気付かなかったのだろうと、どこか晴れやかな気分になりながら思考を巡らせるが、名前を聞いたのはつい最近だったか。
そうして智也がまた余計なことを考えている間に、どうやら再検査の準備は整ったようだ。
「Espoir6【門/魔水晶】」
入学式の現場を再現するかのように、テーブルを挟んで新井先生と向かい合うように椅子が用意されている。
実際あのとき見てくれたのは赤髪の先生だったが、その役目は他の教員でも担えるのか、新井先生だからできるのかは定かではない。
――固唾を呑んで、金の台座に鎮座する水晶玉を見つめる智也。
緊張から必要のないことまで思考してしまい、一度心を落ち着かせるためにと深呼吸を挟む。それから隣に立つ恩師に目を向けて、小さく顎を引いたのを確認してから椅子に腰掛けた。
ここで前回と結果が異なれば、今まで不明瞭だった謎や疑問が一気に解消される。
たとえ下位互換とはいえ、五つの内一つだけに適性があるものより本来は優れている属性のはずなのだ。
それがもし誤診だったとして、仮にいま『魔水晶』が赤色に光ったとしても、中途半端で有耶無耶な状態でいるより智也はそちらの方が好ましかった。
――だから、
「では、ここに手を翳してください」
「お願いします――!」
心から変化を渇望し、智也は右手に魔力を集める。
そうして半透明の球体に手のひらを翳して――――。




