第七十話 「星のひかりに紛れて」
「おかえりなさい」
下宿屋に帰ると、カウンターに座った家主が笑みを湛えて出迎えてくれる。
見慣れた光景だったそれにどこか新鮮味を感じたのは、五日ものあいだ智也が外に出ていなかったからだ。そして、何気ないそのやり取りが実はすごく大事なんだということに、最近気付いたばかりである。
異世界に来てまで引きこもってしまった智也に家主の新井さんは変わらぬ態度で接してくれて、ずっと温かい食事を用意してくれていた。
廃人に片足を突っ込んでいたような状態だったがそれでも腐りきらずに済んだのは、間違いなく新井さんのおかげである。
こんなどこの馬の骨とも分からない男を招き入れ、これ以上ないほどよくしてくれて、既に返し尽くせないほどの恩を頂いている。
――だから、
「ただいま」
下手くそではあったが、もう大丈夫だということを伝えたくて。慣れない笑みを浮かべながら智也はそう返した。
それに一瞬目を丸くさせるもすぐに溢れんばかりの笑顔になって、新井さんはもう一度「おかえり」と言ってくれる。
「ご飯できてるよ、食べるかい?」
「今日はなんですか?」
「今日はねぇ、ロールキャベツだよ」
「おぉ、大好物です」
思わず感嘆の声を漏らしたが、よく考えれば智也にとってはほとんどの料理が大好物である。
しかしその大好物たちの中にも位付けはあり、非常に甲乙つけがたいところではあるが、ロールキャベツはその上位に食い込んでいた。
「基本的に肉と野菜のコンビは最強なんだよなぁ」
栄養バランスも取れるし、何より二つを組み合わせることで肉の旨味が際立ち、よりおいしく味わうことができる。
なんて考えていると舌の上に肉の塊を錯覚し、ただ想像しただけで口内に肉汁が満ちているかのような感覚を味わった。いよいよ想像だけで腹を満たせるのではないかと己を恐れたが、それでは五感全てで楽しめないので新たな特技の会得とはならず。
「はい、おまちどおさま」
「いただきます!」
眼前に運ばれてきた皿の上、濃そうな汁にどっぷり浸かった三つの塊がある。まずそれらを見て、智也は三度も楽しめるのかと喉を鳴らした。
拳ほどの大きさのそれを箸で割れば、とろとろになったキャベツが裂けて肉の断面があらわになる。
その美しい眺めに思わずかぶりつき、夢にまで見た食感をそこに知覚する。
ただの妄想では得られなかった匂いや味、食感、温度が混ざり合い風味となって口腔を、鼻腔を、脳を、智也を一瞬で虜にさせた。
おそらく食べる前に想像したことで期待感が上がり、更に新井さんの腕前がその想像を上回っていたからこそ生まれた感動なのだろう。
一口味わっただけでこの破壊力だ。それらを全て食したとき、自分はどうなってしまうのだろうと智也は身を震わせた。
とろとろになったキャベツと内包された肉の旨味、そこに濃い目のコンソメスープがしっかり絡み合い、究極の一品と成している。
口にする前はそれを三度も味わえると高揚していたが、一つ一つが大きいため実際はそれ以上の幸福感があった。
もはや全身が幸福物質で形成されているのではないかと錯覚するほどに、智也は満たされて。
肉と野菜に夢中になっていたはずが、茶碗に盛ってあった大盛りのご飯はまるで最初からなかったかのように綺麗さっぱりなくなっていた。
あれだけの量を食したはずなのに物足りさな――いや、物恋しさを感じて残ったスープを喉に流す。
そして最後の一滴まで吸って、吸い取って、満腹感と同時に喪失感を覚えた。
「あぁ……美味しかった……」
「ふふ、お粗末様でした」
ずっと智也が食べるところを側で見ていたようで、幸せいっぱいな表情を見るや否や新井さんは嬉しそうに頬を緩ませた。
そうしてしばらく余韻に浸っていた智也だったが、心配事を思い出して新井さんに尋ねてみることに。
「あ、そういえばさっき街で黒……不審者を見つけたんですけど」
「あらまぁ……大丈夫だったかしら」
「はい。友達? のおかげで何ともなかったです。一応、明日また先生にも伝えようかと」
「その方がいいさね。もしまた見かけたら、周りの大人に助けを呼ぶのよ」
帰路の途中で遭遇した黒ローブの者について話すと、新井さんは眉尻を下げて智也の顔を見つめてきた。
無駄に心配をかけてしまったかと思ったが、必要なことだと思い自分を宥める。
「ちなみに……なにか変わったことはありませんでしたか?」
「何のことかしら?」
と、もう一つの心配事をおそるおそる確認しようとする智也に、新井さんが首を傾げた。
例えばここの住人以外の者が出入りしていなかったか、とか。
もっと言えば金色の髪をした少女を見かけなかったか、とか。
そういう質問をしたかったのだが、なんと説明すべきか智也は言葉を詰まらせる。
ただでさえ無賃で泊まらせて頂いていた身。勝手に他所の者を、それも女を連れ込んでいたなんて思われでもすれば、大問題である。
故に尚更、どう切り出すべきか悩ましかった。
「あーしばらく外に出てなかったので、その間にも不審人物を見かけたって話があったのかなって……」
「そうさね~、一週間くらい前に騒ぎがあったくらいで、それからは特に何もなかったと思うんだけど……いやねぇ物騒で」
「……そうですね」
ということは、件の黒ローブはたまたま今日あの場に現れたということか。
智也がその姿を目にしたのは二度目になるが、あそこまで大胆な行動を起こしたのは今回が初めて――とそこまで考えて、少し前に射的屋の店主が連中について話していたのを思い出した。
忘れもしない、今もズボンのポケットにしまってある大切なものを頂いた日だ。
智也が聞いたのは店の扉が壊されてしまったことと、駆けつけてくれた先生が助けてくれたという旨だったが。
「そういや、最近顔みせてないからまた行かないとな」
ああみえて一日顔を合わせないだけで拗ねてくるのだ。七日も空けば、今度は何を言われるか分からない。
――いや、そうじゃなくて。
心の中でそう呟いて、横道にそれてしまった思考を軌道修正する。
智也の知るこれまでの黒い奴等の活動は、真実を知らなければ正邪の判断がつかないような際どいものであった。だが今回の一件は、誰がどう見ても度が過ぎている。
それだけ活動に力を入れてきているのかもしれない。やはり先生の警告通り危ない連中なのだと再認識して、心に深く刻む。
ないとは思いたいが、もしまた遭遇するようなことがあれば今度は迷わず助けを呼ぶべきだろう。
そして同時に、ここまで粘っても金髪のきの字も出てこないのだから、おそらくあの少女が言いつけを守り、今も部屋で待機しているのだろうと智也は推測していた。
「あ……ご馳走様でした」
「いいえぇ」
こちらをじっと見つめていた新井さんに、智也は言い忘れていた言葉を伝えて空になったお皿を片付ける。それを待ってくれていたのか、新井さんも腰を上げると洗い場に向かったので、智也は「じゃあおやすみなさい」と言って部屋に向かった。
その後ろ姿を、また新井さんが静かに見つめていた。
「さて……素直に待ってるとは思えなかったが、何もなさそうでよかった」
そう呟きながら自室の扉を開け、薄暗い一室に足を踏み入れる。
窓から差し込んだ月明かりが夜の怪しさを醸し出しており、脇にあるベッドの上には月より綺麗な金の髪を持つ少女の姿が見当たらない。
やや狭い入り口から少し前に出て部屋の角を覗くが、クローゼットがあるのみでその陰に隠れている様子もない。横目でちらとシャワールームを一瞥しても、水浴びしている音も聞こえなければ気配も感じない。
――なんだ、
「また居なくなったのか、って思いましたか?」
「お前……いつからそこに」
ひょこっと音もなく背後から現れた少女に、智也は無意識にあの日と同じ反応を取っていた。
それを思い出すかのように含み笑いを浮かべた少女は、肩にかけた横幅の小さいバスタオルで濡れた髪を拭きながら、「ちょっと一浴びしてました」と更に一笑。
百歩譲って勝手に風呂に入っていたのは容認するとして、その女児向けの寝巻きはどこから持ってきたのか――とか、そもそも風呂場の扉は閉まっていたはずだが、と疑問を抱いて智也は眉を寄せた。
その訝しむ態度に小首を傾げた少女は、何かに気付いたように「あっ」と声を漏らすと、
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「まるで俺がそれを求めてたみたいな顔をするのやめろ。第一、その設定は却下しただろ」
「えー違うんですか? 物欲しそうな顔をしてたのに」
「どちらかと言えば一貫して不審がってるんだよ」
「ひどい、こんないたいけな少女を!」
自分で言うな。と思いながら白い目を向けると、泣き真似をしていた少女は表情を一変させて「久し振りの学園はどうでしたか?」と問い掛けてくる。
それでますます智也の視線は冷たいものになり――、
「お前、ずっとこの部屋にいたのか?」
「そうしろって言われましたからね」
本当に言うことを聞いていたのか、と智也は驚きと共に安堵を得た。その傍らで、少女はどこか不満げに口を尖らせている。
「昨日、いまは特に用はないって言ってたが」
「あー! また自分ばっかり質問する~。私の質問には答えてくれないのに」
「な、なんだよ……」
てっきり部屋に閉じ込めたことを不満がっているのかと思いきや、意想外な方面から文句をつけられ動揺する智也。
やはり腹の底が読めないなと思いながら、頬を膨らませる少女を注視した。
「とりあえず、立ち話もなんですし座ってください。味気のない簡素な部屋ですけど」
「いや、ここ俺の部屋なんだけど」
言いながら、先を歩く少女がベッドに腰掛け、その隣をぽんぽんと手で叩いてくる。
おそらくそこに座ってほしいのだろうと察した智也は、普通に素通りして月夜の見える窓際のテーブルへ。
「むー!」
「いやぁ、月が綺麗だなぁ」
「……え、それってプロポーズですか?」
「しまった、微塵もその気がないのに紛らわしい発言をしてしまった……」
「あの、心の声聞こえているんですけど」
先ほどより一層大きく頬を膨らませる少女に、智也は素知らぬ顔でやり過ごす。
「さっきの話の続きだが。今は用がないってことだったけど、お前は一体俺に何をさせるつもりなんだ。その頼みを引き受けてもらうために、そうやって大人しくいいなりになっているのなら無駄な努力だぞ」
「別に、そういうことじゃありませんけど……」
「あわよくばを狙ってた顔だな」
「生意気です! 昨日はあんなに泣いていたのに!」
「おま、その話はやめろって言っただろ!」
毎度ながら、目の前の人物と対面していると妙に調子が狂ってしまうとため息を溢し、弱みを握られてしまったことを悔いながら智也は乱された呼吸を整えた。
「で、次はいつまで居るんだよ」
「やっぱり寂しかったんですか?」
「ちげーよ」
目を背けながらそう呟く智也に、少女は悪戯な笑みを浮かべて顔を覗き込もうとしてくる。
それを手で払いながら「色々と問題があるだろ」と言葉を濁す。
その『色々』を悟ったらしい少女はわざとらしくとぼけたような顔を向けてきて、
「一つ屋根の下で男女が寝ていることですか? わかりません」
「分かっててするなよ。ていうか、別にお前以外にも女子はいるんだぞ」
「なるほど、恋敵ということですか」
「見当違いも甚だしいし、それで言えばむしろ目の敵にされてるよ」
「可哀想ですね……」
これ以上ないほどの哀れみを感じるその眼差しに、智也はぐぎぎと歯を軋ませた。
「大丈夫ですよ。私は智也様のご迷惑になるようなことはいたしませんので」
「どうだかな……」
「ところで湯浴みの方はされないんでしょうか?」
「なんだよ、また変なこと言い出すんじゃないだろうな」
何一つ信用していない目で訝しむと、少女は言いづらそうな顔で鼻をつまみ、否定の言葉を発する。
それに智也はまさかと思い自分の体を匂ってみるが、
「さすがに四日もお風呂に入っていないので臭います」
「ダイレクト攻撃はやめろ。後でじわじわ響くだろうが」
「まぁまぁ、今から入ればいいじゃないですか。……あ、それとも何か期待しましたか?」
「してないしするわけないだろ、ませガキ。十年早いんだよ」
「むー! 自分だってまだ子供のくせに! いいですよ、すぐに追い抜いちゃいますから!」
自分でも少し汗の臭いを感じるほどだったので、今日一日周りの人に気付かれなかったかどうか、さすがに男の智也も気になった。
思い返せばいきなり先生と抱擁していたような――と、考えれば考えるほど恥ずかしくなり、そこで思考は取り止めに。
そうしてよくわからないことをほざいて拗ねている少女を捨て置いて、智也は風呂場へと直行した。
✱✱✱✱✱✱✱
「で、なにやってるんだ」
「暇です。主人の帰りを健気に待っていたんですから、少しくらいお話に付き合ってほしいです」
智也が浴室で四日分の汗を流していたところ、当たり前のように脱衣場に入ってきた少女。半透明な扉越しに怪訝な目を向けていると、あろうことか少女はその扉に背を預けて座り込んだ。
曇った扉越しでもハッキリと分かる鮮やかな黄金色の頭髪。それを後ろから眺めて、智也は小さく肩を竦める。
「魔法学園での生活は楽しめていますか?」
「またそれか。そんなの聞いてどうするんだ」
「いいから、教えてください」
沈黙を同意と判断したのか、少女は先ほどと同じ質問を投げてくる。
それに対し、今日はやけに距離が近いなと思いつつ――、
「そりゃうまくいかないときもあるし、元の世界に帰りたくなることはこれからもあるだろうけど……俺はこの世界に来て良かったと思ってるよ。色んな意味でな」
「そうですか……よかった」
壁を隔てている上に顔も見えないため正確には分からなかったが、どこかそれは、心から出た安堵の声だったかのように感じられた。
自分の都合で異世界に連れ出したという自覚が、多少はあるのだろうか。
「学園には可愛い女の子がいっぱいいるんですか?」
「なんだそれ。ていうか、見てたなら分かるだろ」
「本人の口から聞きたいんです。教えてください」
「はぁ……まぁいるんじゃないのか?」
「なんですかその濁し方! なんでそこだけ曖昧なんですかー!」
勢いよく立ち上がってこちらに振り向く少女に、智也はやれやれと肩を落とす。
そんなものを聞いてなんの意味があるのやら。ますます目の前の人物が何を考えているのか分からなくなる。
「汗も流したしそろそろ出たいんだが」
「だめです。まだいっぱいお話したいので!」
「話なら部屋でもできるだろ。っておい、扉を塞ぐな」
「だめです!」
と、脱衣所の入り口から退こうとしないので、智也は浴室から出ようにも出られず。
それから数十分間、なんてことない問答を繰り返したのち、ようやく満足したのか少女は部屋に戻っていった。
そのあいだ体が冷えるからと浴槽に浸かっていた智也は――、
「ったく、お前のせいでのぼせたんだから……」
寝巻きに着替えた智也が真っ赤な顔をしながら部屋に戻ると、そこに少女の姿は見当たらず。
好き勝手しておいてまた消えたのか、と不満を募らせながら窓際に足を運び、何故か開いていた窓から入った夜風を顔に浴びる。
そうして静かになった部屋でしばらく月夜を眺めてから、昨日より広くなったベッドに寝転び、智也は瞼を閉じた。
「……変なヤツ」




