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第五十六話 「万全の体制を整えて」



 リヴ魔法学園に二つある施設。その内「第一」と呼ばれる方の体育館に、生徒が一人残っていた。

 この日の授業は既に終えており、他の者は皆、とっくに帰路に就いているのにだ。


 では何故、その生徒は居残っているのか。それは、


「お願いします、もう少しだけ練習させてください」


 そう懇願した生徒の無茶を、先生が聞き入れてくれたからである。

 と言っても学園側からすると、生徒一人だけを残すことは出来ないようで、必然的に担任が付き添う形となった。


「練習熱心なのはいいが、無茶すんなよ」


 と、念のためにと学園長への報告を済ませた先生が、黒髪の生徒に声をかける。


「はい、ありがとうございます。予想以上に十三番の練習に手間取ったので、どうしても時間が足りなくて……」


「てことは、扱えるようになったのか?」


「まぁ……一応、ですけど」


「やるじゃねーか、黒霧」


 口の端を釣り上げて、先生が智也の頭を乱雑に撫でる。

 乱暴にされた髪の毛が跳ねて乱れてとめちゃくちゃになったが、悪い気はしなかった。

 適当に頭髪を直しながら、隠し切れなかった感情が口元に表れ、僅かに弧を描く。


「んで、今は何の練習をしてんだ?」


「本当は【強歩】の練習をしたいところなんすけど、明日動けないと困るので……今は別のを」


 そう言って唱えるのは、今朝も練習していた十八番の魔法だ。


 同じ装備型である十三番に成功したのだから理論上ではこちらも出来るはず。そう思って、智也はわざわざ先生に時間をいただいたのだ。

 言うまでもないが、模擬戦で使うためである。


 既に戦術は組み立ててあり、あとはこの魔法を扱えるようになれば準備は整う。――その予定だったが、中々思うようにならないのが現実だ。

 十三番と同様のやり方で腕を組み、伸ばした右手に一定の魔力が留まるような流れを作る。

 そうして集まった魔力を手のひらに纏わせ八つに分かち、詠唱を以って具現化させる。


 当然、それで成功するわけがなかった。


「集めた魔力が消えないよう、片腕を組む必要があるんですけど、十八番の魔法は両手を使わなきゃいけない……」


「そういうことか。随分面白そうなことしてるとは思ったが」


 困り顔を浮かべる智也の肩に先生が手を置いて、一歩前に出る。

 それから首だけこちらに向けると、「ちょっと見てろ」と言って何かを始めだした。

 それは先ほど智也と紫月が練習と思考を重ね、ようやく成功させた二十四番の風魔法だ。

 一つ違うのは、智也たちのように腕を振り上げるのではなく、


「Reve24【大名颪し】」


 詠唱と同時に左足を斜めに踏み込み、それを軸に重心を移して右足を上げる。

 直後、軸足を返しながら繰り出されたのは上段蹴りだ。


 ――何故蹴りが。と意表を突かれながらも、その軌道から散布された魔力が刃の形を模して地を走る様を、智也は確かにその目で見た。


「つまりこういうことだ」


 説明不足感が否めないが、今の智也にとって重要なヒントであることは間違いない。

 眉間に皺を寄せ、智也は必死にその意図を読み取った。


「……察するに、決められた型はあっても、構えはなんでもいいってことですか?」


「お前すげーな、よく今ので理解できたもんだ」


 理解に苦しむと分かっているなら、もう少しまともなアドバイスをくれと、目で訴える。

 対して先生は、「お前は教えるのが楽でいいな~」と呑気に笑っていた。


「――前に言ったはずだ。土属性に適性のある奴は、慣れれば足から魔力流して壁が作れるってな」


「確かに、やってることは同じってことか。……でもそれって、適性がないと無理なんですか?」


「ん? あぁ、不可能ではないだろうが、適性持ちでも難易度の高い技術を……適性のない者にやすやすと出来ると思うか?」


 つい思い付きで質問してみたものの、考えてみれば簡単な話だった。

 五つの属性を、元の世界でいう五教科に当て嵌めてみると分かりやすい。

 仮に智也が英語を得意としていたとして、その智也ですら苦戦するような難問を、そもそも英語を得意としていない者に解けるのかと、そういう話だろう。


「まーそういうわけだ。別に十八番を具現化させるのに、両手を使う必要はないってことだな」


「最初からそう言ってくれれば簡単だったのに……」


 愚痴をこぼす智也に、先生は「それじゃ勉強にならねーだろ」と不敵に笑う。

 まるで、教わった基礎をもとに応用問題を解かされているような感覚を抱き、智也は久しぶりに気分が悪くなった。


「しかし、やるとしたら代用するのは足の指になるが……そっちの方が難しいんじゃねぇか?」


「そうですね……」


「ちなみに二十二番はどうなんだ? あれも装備型で、しかも火属性だろ」


「一応試したんですけど無理でした。あでも、十三番が使えればとりあえずは大丈夫です」


 もちろん、時間があればなるべく多くの魔法を扱えるようにと練習していたが、こうして居残りさせてもらっているくらいだ、そこまでの余裕は今の智也にはない。

 だから装備型の中でも取り回しが似ている二十二番の魔法は後回しにし、優先度の高い他の魔法を練習して――、


「――あれ?」


「どうした?」


 不意に、智也の頭上に疑問が降って湧いた。


「朝練で型について教えてもらったとき……先生言ったじゃないっすか、十八番の魔法も強化魔法も要領は同じだって」


「あぁ。その方式に反してるのが、失敗の原因だと俺は思ったんだけどな」


「でも俺、【強歩】のときは特に何も意識せずに使えてるんですけど……」


 ――そう。魔力を刃の形に模する魔法も、八つに分割する魔法も、脚力を強化させる魔法も、そのどれもが集めた魔力を一点に纏わせるという工程を踏んでいる。

 それが上手く機能しないから、わざわざ腕を組むという過程を追加したのだ。それなのに、同じ条件のはずの強化魔法には何の不具合も生じていない。


「はーん、なるほどな」


 やにわに、先生が灰の眼を細めた。

 何か解決の糸口を見つけてくれたのだろうかと、智也は期待の眼差しを向けるが、


「その、魔力が消えるとかっつー現象はよく分からないが、十八番の魔法を扱えるようになる方法は……見つけたかもしれない」


「本当ですか!? でも俺、足使うのは得意じゃないですよ」


「まー最悪、そっちの練習をしなきゃいけなくなる可能性もあるけどな」


 と、またしても意味深げな言葉を放つ先生。しかし智也は、例えどんな形であろうと答えが見つかるならそれでいいと思った。

 ずっと、何が正解で何が間違いなのか分からず、闇の中を探り回っていたのだから。


「確信があるわけじゃないと先に言っておくが、足は使わない。使うのは……お前のその両手だ」


「え……?」


「いつも魔法を撃つとき、どういう構えを取る?」


「だいたい腕を伸ばしてますかね……」


 記憶を思い起こしながら構えて見せると、先生は何かに納得したように顎を引いた。


「人間の血液ってのは重力の影響で、心臓より下から上には戻りにくくなっている。そのことを魔力に、お前の状況にと置き換えてみると」


「何故か魔力の流れが悪くて、そのせいで上半身にうまく集まらない……?」


「そういうことだ。正確には魔力の源は心臓じゃなくて喉の奥だが、その前提を頭に入れた上で勘案すると、一つ対策が見えてくる。……さっき構えを聞いたろ」


 その言葉に息を飲んで、智也は思わずさっきと同じ体勢を取っていた。 


「つまり、重力のせいで魔力が留まらないのであれば、逆にそれを利用すればいいんだよ」


「ということは……」


 自然と智也は腰を落とし、前傾姿勢になっていた。

 今にも走り出しそうな構えだが、その両腕は肩から力なく垂れている。

 その脱力した腕を通り、手のひらに魔力が流れていく。そうして纏わせた魔力を八つに分け、思い浮かべるは、指の隙間に嵌る程度の小さな火の玉。


 最後に――、


「Reve18【火蜂】!」


 力なく垂らしていた両手に、智也は熱を感じた。

 驚いてその手を持ち上げると、確かに八つの玉が、指の間に具現化していた。


「これが火蜂……」


「投げてみろ」


 その指示に頷いて、少し離れた壁に向かって腕を振るう。

 左腕、右腕と交互に投げて、散らばった八つの玉がそれぞれ壁や床に着弾し、破裂音を響かせた。


 ――強い。


 十一番には十一番の良さがあるが、こちらも扱い辛いと言われていた通りの――いや、それ以上の苦労をさせられただけの価値があると確信を持てた。

 有効打を取り合う模擬戦及びクラス対抗戦において、どれだけ相手の防御を掻い潜り、攻撃を当てられるかが肝となる。

 その点において、広範囲に攻撃ができるこの魔法は身を躱しにくく、効果的だと考えていたのだ。


 そして、同じ魔法を扱えるようになったことで、智也は同時に雪宮の強さをまざまざと感じていた。

 七霧が憧れる理由も分からんでもないなと、この前の会話を思い出す智也の耳に、先生の優しい声が届く。


「よくやった」


「ありがとうございます! 先生のおかげです」


「いや、俺はあくまで知識を与えただけに過ぎない。試行錯誤して、答えに辿り着けたのはお前の努力の賜物だよ」


 胸を張れとそう言われても、智也にはイマイチ実感が持てない。

 確かに、何度も折れそうな心を繋ぎ止め、がむしゃらに練習を続けていた。でもそれは、先生がくれた言葉があったからだ。


「そう、なんですかね」


「そうだ。直向きに努力し続ければ、いつかきっと実を結ぶ。それを忘れるなよ」


 そう言って目を伏せた先生に、智也は今一度感謝の言葉を述べてお辞儀した。


「疲れたろ、今日はゆっくり休んで明日に備え――」


「すいません、もう一ついいですか?」


「――なんだ?」


「ちょっとお願いしたいことがあって」


 わざわざ付き添ってもらい、既に充分なほどの時間を頂いている。

 ただ一つ、智也にはまだどうしてもやっておきたいことがあったのだ。

 だからと最後に頼み事をする智也に、先生は怪訝そうに目を細めながらも、耳を傾けてくれた。


 そして、智也が『お願い』とそのワケを説明すると、先生はいつものように不敵な笑みを浮かべたのだった。



 ✱✱✱✱✱✱✱



 智也が学園を出たときには既に世界が闇色に包まれており、僅かに見える夕焼けの名残が、空に二段階の諧調を作っていた。

 まるで太陽を押し退けた月が、闇を纏って天を支配しようとしているかのようだ。


「随分遅くなってしまった。ほんとに、先生には感謝が尽きないな」


 でもそのおかげで、明日に向けての準備を万全に整えることができた。

 これで智也は、藤間と「戦う」ことができる。

 そのために練りに練った作戦を、もう何度目か分からないほど確認しながら、長い長い階段を一人で下っていく。


「さすがに疲れたし腹も減った……」


 微かに眠気も感じつつ、さすっていた腹から間抜けな音が鳴る。

 いつぞやの帰り道のように、また意識を手放しそうで怖かったが、意外な人物が視界に入ったことでうつらうつらと浮いていた智也の意識が戻ってきた。


「……なにしてるんすか?」


「おう。お前いま歩きながら船漕いでたな」


「それは忘れてください」


 ちょうど中央広場に差し掛かったところで、最寄りの店の前で強面の男が座っているのを見かけたからだ。

 まるで肩や背中に龍の刺青でも彫ってあるかのような風格だが、それは単なる偏見で、意外と中身は寂しがり屋な普通のオッサンであることを智也は知っている。


「で……何してるんすか、こんな時間に外で」


 再度智也が尋ねると、店主は真剣な眼差しでこちら見据えてきた。


「小遣いやった途端、店に顔出さなくなったどこぞの坊主が、ここを通らないか見張ってたんだよ」


「それは……! 別にそんなつもりじゃなくて……俺はただ……」


 あらぬ誤解を招いてしまったと思い、焦る智也。

 どうにかして弁明せねばと頭を回すが、そんな智也の様子をじっと見つめていた店主が大口を開けて、


「ガハハハ! 冗談だよ」


「やめてくださいよ、心臓に悪い……」


 本気で心配したと不満を溢しながら、冗談で良かったと胸をなでおろす。

 繊細な問題なのだから、弄ぶのはやめていただきたいところである。


「喫煙がバレて嫁さんに追い出されちまったんだ。惨めだろ」


「そうなんですか、ほんとに惨めですね」


「テメェ馬鹿にしてんのか!?」


「自分でそう言ったんじゃないっすか!」


 先の意趣返しで悪ノリすると、勢いよく立ち上がった店主が詰め寄ってきて、智也は反射的に頭を守った。


「馬鹿野郎、子供に手なんてあげねぇよ」


「いやー、恐ろしいほど顔が怖くて」


「てめぇほんとにぶちのめしてやろうか」


 歯を食いしばりながら顔を寄せられ、その迫力ある顔面に智也は思わず苦笑しながら後退る。

 それから店の方へと視線をやり、今ごろ家の中では妻と娘が楽しく食卓を囲んでいるのだろうなと考えて、はぐれ者にされた一家の大黒柱の顔を再び視界に収めると、今度は心の底から惨めだなと智也は思った。


「それで今日は吸ってないんですね」


 一種のトレードマークであった葉巻。それを手振りで表現する智也に、店主が大きなため息をつく。


「んで? お前さんはこんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ、智也」


「遊びじゃないですよ。明日の模擬戦に向けて練習してたんで」


「あ~そういやもうそんな時期か。そうかそうか、今月末は対抗祭だったな~ガハハ」


「やっぱり知ってるんですね」


「あ? 何言ってやがんだ、当たり前だろうが」


 さも当然のような反応を見せる店主。

 今朝、下宿屋で顔を合わせた神城という先輩も同じことを言っていたことから、やはりクラス対抗戦は学園の――いや、この街の一大イベントなのかもしれない。

 そう納得する智也に、店主の方も何故か得心するように首を振っており、


「つまりあれだ、選抜入りを狙ってる口だな」


「そうですよ」


「なんせ一文無しだったもんな~ガハハ」


 当然と言えば当然か。金銭面で困っていた智也に手を差し伸べてくれたその本人なのだから、対抗戦に向けて抱いている智也の狙いは容易く見破られた。

 もしも、その賞金で借りた恩を返そうとしている目的まで見抜かれていたら。

 そう考えると、恥ずかしくてたまらない。


「それでA組は強者揃いだって話じゃねぇか。ウチの智也は選抜入りできんのかぁ?」


「わからないっすよ、そんなの。でも俺も男なんで、やると決めたらやりますよ。――その為に練習してきたんで」


「カー! 言うじゃねぇか、それでこそ俺が見込んだ男だぜ。なぁ!」


 何を興奮しているのか、割と強めに叩かれた肩が外れないか智也は気が気じゃなかった。

 そのせいで明日の模擬戦に支障をきたしたら、ここでタダ飯を食ってやると心の中で誓いつつ。


「まぁなんだ、まずは明日の模擬戦頑張れよ! ――待て、まさか相手はウチの娘じゃねぇだろうな!? だったらやっぱり頑張るな!」


「どっちですか……。相手は男ですよ、藤間っていう」


 めちゃくちゃなことを言われて苦笑しつつ、呼ぶことさえ抵抗のある男の名を口にすると、店主から意外な言葉が返ってきた。


「あー、あのやんちゃ坊主か」


「顔見知りなんすか……?」


「顔見知りっつーか、ウチの娘の同級生だしな」


 ご尤もだと思いながら、智也は興味のない話を聞き流そうとする。

 話の種を生んだのは智也だが、あくまでそれは説明のためであって、彼の話はなるべくしたくないのである。

 しかし店主にそんな智也の心情が分かるはずもなく、普通に話を続けようとしてきた。


「まぁでもそうか。あのやんちゃ坊主が相手となると、智也はちっとばかし不利になるなぁ」


「……何故ですか?」


「何故ってお前、やっぱ経験の差が違うだろ?」


 ――どうしてそれを知っているのか、という疑問が一瞬にして智也の脳を埋め尽くした。


 智也が周りに遅れを取っているのは、そもそも智也が異世界人であるからだ。そのことについて、店主が知るはずがない。

 それこそ対抗戦のように授業を見に来たわけでもあるまいし、或いは娘から、事細かに情報を仕入れているのだろうか。

 それにしては、己の目で見たかのような言い草だったが。


「あ? なんだ智也、ひょっとして知らねぇのか」


 言葉を返せず固まっている智也に首を傾げると、店主はそう尋ねてくる。

 何について問われているのか全く分からなかったが、何か言い知れぬざわめきを胸の奥底に感じて、本能が耳を塞げと囁いているように思えた。


「あのやんちゃ坊主はお前らより一個年上なんだから、そりゃあ経験の差は出るだろうよ」


「は……?」


 言っている意味が理解できず、脳が思考を放棄する。

 ――違う。単に理解してしまうのが恐ろしくて、無意識に脳が拒絶しているのだ。


「いや、ていうか……そうだ、さっき娘の同級生って」


「あー、そりゃ千夏ちなつの方だよ。ウチの長女だ」


 必死に現実から目を背けようとして、智也は思い出したようにさっきの話を持ち出した。

 自分の解釈が間違いであってほしいと願いながら、期待を込めて尋ねるも、その答えが理解に拍車をかけてしまう。

 先の店主の発言は、智也が異世界人だと知っていたから出たものではなく、藤間の方を一年前から知っていたからだったのだ。


「なんで……同じ学年に……」


「そりゃあ去年も担任だった、あの黒髪の先生が進級させなかったからだろ。理由までは知らんぞ」


「降魔先生が……?」


 ますます理解し難い話になってきて、脳が焼き切れそうになる。

 理由は知らないと言われているのに、思わず聞きそうになるくらい智也は混乱していた。


 留年させられる可能性があったことにも驚いたし、先生がそれをした衝撃も大きかった。

 よほど藤間の素行が悪かったのか、なんであれ、一番の衝撃は藤間が智也たちより一年上という事実である。


 たしかに思い返してみれば、それで納得がいく場面がいくつかあったが、そんなことより重要なのは明日の模擬戦だ。

 単純に考えて、智也は上級生と戦う羽目になるのだから――と、不安が募り始めたところで店の扉が開いた。


「秋彦さん、まだそんなとこにいたんですか?」


 店の中から姿を現したのは、梅色の髪の女性だった。

 その明るい髪色や顔の作りがクラスメイトの一人とそっくりで、母親であることが自然と察せられる。

 強面の旦那よりは若そうで、口元には笑みが浮かんでいた。


「あら、こんばんは。もしかして夫の相手をしてくれてたの?」


「いやー、そうとも言えるような、言えないような……」


「ごめんなさいね、こんな遅い時間に」


 軽い会釈と煮え切らない返答をする智也に笑みを向けてくれたが、一瞬言葉尻に店主の顔をきつく睨んだ気がして目を疑った。


「あれだったらご飯食べてく? ちょうど一人分余してるのよ」


「あー、有難いんですけど、大丈夫です」


「いいじゃねぇか、智也も食ってけよ。って、ん? それって俺の分じゃ」


「貴方の分なんて最初からないわよ。それに、大丈夫ですって断ってるんだから強制するな!」


 つい手が出てしまったのか、店主の頭を叩いた手を口に持っていくと、ご夫人は「おほほ」と笑って誤魔化しながら家の中へ入っていった。


「……大変すね」


「お前もいつかこうなるぜ」


 泣き言を言いながら、妻に呼ばれて急いで駆けていった小さな男の背を、智也は虚しげに眺めた。

 そのあと店主がご飯を頂けたのかは分からないが、とりあえず家の中に入れてもらえただけマシだろう。そう考えながら、智也も下宿屋へと帰っていった。


 寸前まで脳を埋め尽くしていた不安を、必死に考えないようにしながら。



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