第五十三話 「屈曲花」
「急に呼び出してすまないね」
高級感あふれる部屋の奥。デスクの上で手を組んだ優男が、扉のない部屋の隅に立つ三人の人影に向けて声を放った。
「たまには職員会議でもしようかと思ってね」
「その割には人数が欠けているように見えますが」
「恭吾くんのことかい? 彼とは先に対話済みでね。そのことも兼ねて、少しお話をしようじゃないか。とりえず、かけたまえ」
本革製の長椅子を手で指し示す優男に、おかっぱ頭の女性がつり目がちな瞳を細めつつ、そこに腰掛ける。それに倣うように他の二人もそれぞれ腰を落とし、
「いやー君たちの素晴らしい指導ぶりに、私はいつも感銘を受けているよ。特に今年は、才気にあふれた生徒が多いそうじゃないか。ますます将来が楽しみに」
「学園長、私らも暇じゃないんだ。前置きはいいからさっさと本題を話してくれ」
「やれやれ……なんだか最近君たちが冷たくて私は悲しいよ。昔はあんなに可愛げがあったのに……ねぇ、鬼先生」
「はて、なんのことじゃ?」
まるで炎そのもののような赤い髪を持つ女性に急かされて、その冷めた態度に優男が眉尻を下げる。それから年嵩の男に目を向けるが、ご老人は間抜けな顔で惚けていた。
ここに灰の眼の男がいたならば、もっと場は混沌としていただろう。苦笑を一つこぼして、学園長が話を再開する。
「三日前、街に黒ローブの連中が忍び込んでいたことは知っているね」
「あぁ、恭吾の奴が一人でなんとかしたんだろ?」
「おかげさまでね。ただいくつか問題点があって、途中から現れた仮面の二人が難敵だったようだ」
「それ、半年前にも聞きました。その際にあの人が取り逃がした者共ですよね。そもそも、何故こうも容易く侵入を許しているのですか? あの門番共は一体何をやって――」
「それはあのピエロの仕業だよ。おそらくあいつには、転移魔法が扱える」
「――そういえばあの日、桐明先生も一緒にいたんでしたね」
何か含みのある言い方をするおかっぱ頭の女性に、炎より熱い視線が突き刺さる。そうして火花を散らし始める二人に、学園長が手を叩いて強制的に注意を向けさせた。
「何故、この場に降魔先生が居ないのかと先ほど尋ねられたけど」
「別に私は個人名までは……」
「彼には昨日も任に当たってもらっていたんだよ。急務でね」
声の調子を変えた学園長に、場の空気も変化が生じた。
向かって右側。おかっぱ頭の女性が姿勢を正し、寸前まで隣で舟を漕いでいたご老人は静かに目を見開いている。そしてその対面に座っていた赤髪の女性が、より一層眉間に皺を寄せて、
「隣町に向かった二年A組の生徒三人が、命を落とした」
「ちっ、またかよ」
「嘆かわしいのう……」
「また新種の魔物が現れたそうだよ」
「ですが、あの町には結界が……」
と、困惑したような表情を見せる女性に、学園長が力なく首を振る。
「もろとも破壊されていたようだ」
「恭吾は? なんて言ってたんだ」
「或いは護符の力が及ばないほどの化け物だった……と」
「ハッ、いよいよ世紀末だな」
実際に目にしていなくとも、三人の脳裏にはあの惨状が浮かんだことだろう。
あまりの惨たらしさに笑いすら込み上げてきても、明日は我が身と考えればその笑い声さえ枯れてしまう。
「だからそうならないために君たちの力を貸してほしい。――あの子にばかり、頼ってはいられないからね」
「別に、私は任が与えられたら動くまでだ」
「……農作物はどうなったのですか? 街の穀類は、ほとんどフルルイユ村で契約したものですよね」
その問いに、赤髪の女性がハッとした表情になり、黒髪の方は肩を落として嘆息した。
そんな二人からの視線を集めた優男は、またしても首を横に振ることしかできず、
「残念ながら、壊滅状態だそうだ。しばらくは港町を仲介に仕入れる他ないだろうね。その港町も、牧場の方も、不安の声が広がっているよ」
「ったく、ゲスなやり方してくれるじゃないか。そうやって回りくどい方法で私らを潰すつもりか?」
「どうだろうね……ともあれ、警備や護衛の依頼が相次いでいる。君たちにも近いうち、出向いてもらうことになるだろう。如何せん、人手不足だからね」
そう言って浮かない顔をしていた学園長は、最後に力なく笑ったのだった。
✱✱✱✱✱✱✱
「うーし、始めんぞー」
いつも通り第一体育館に集まった十五人の顔を見回しながら、先生が入口から歩いてくる。
「いよいよ明日は模擬戦だ。その練習前に、少しルールの確認をするぞ」
本当は昨日やる予定だったんだが、急用が入ったからなーと先生は頭を掻きながら説明を続け、
「まぁ知っての通り、今回の模擬戦は月末の対抗戦に向けての練習試合だ。だからそのルールも、対抗戦に準ずるものとする」
「対抗戦って魔武器も使うのかな?」
「でもまだ魔武器の練習はしてないっスよ~?」
「そうだよね。さすがに今日一日じゃ無理だろうし……黒霧くんはどう思う?」
失念していた――というわけではないが、わざわざああして武器を持たされたのだ、それを用いた試合になることは容易に想像できた。
いや、正確には一時的に頭から抜け落ちていたのかもしれない。それでもう一度現実を知らされて、智也の心に焦燥感が募る。
目の前のことで頭がいっぱいになっていたが、他の者が手にしていた魔武器を、智也だけは有していないのだ。
直面している問題だけでなく、他にも課題は山積みなのだと痛感させられて、なお胃が締め付けられる。
「黒霧くん、聞いてる?」
「あぁ……悪い、ぼーっとしてた」
「大丈夫っスか?」
異変に気付いた二人が気遣ってくれるが、智也はそれに下手くそな笑みを返して先生の話に耳を傾けた。
「そういうわけだ、なるべく本番と似た形式にはするが、全く同じってわけにはいかない。よって、魔武器の使用は禁ずる。――つっても、元よりほとんど使えないだろうけどな」
「使用する魔法に制限はないということですか」
「そうだな。そこは本番通りでいく」
「――分かりました」
なにか思案するように瞑目する久世。
彼が発した質問の重要性にいつもの智也なら気付けるはずだったが、今は魔武器が使用されないという点に安堵して、あろうことか聞き逃していた。
「それとだな、会場となる闘技場なんだが……例の如くC組が占領してて借りられてねぇ。だから、A組はここでやる」
そう言って足元を指差す先生。練習会場については、どこでやろうと大した差にはならないだろう。さすがに本番まで一度も足を運んだことがなければ、多少は精神面に影響が出るかもしれないが。
その点に関しては、既に配慮してくれている。
「おさらいするぞ。一対一の試合で、先に有効打を二回決めた者を勝者とする。魔法の制限はないが、魔武器の使用は禁止だ。……なにか質問はあるか?」
「はい! 対抗戦と同じってことは、賞金とかもあるんスか!?」
「馬鹿言え。んなもんあるわけねーだろ」
「ウチ餃子で~! 栖戸っちはどーする??」
「え……いいの?」
「自分はラーメンがいいっス! チャーシュー大盛りで!」
無邪気な笑顔で七霧が挙手をして、それに東道が悪ノリする。そして巻き込まれた栖戸が戸惑いつつも「じゃあ麻婆豆腐で」と呟いた。
「お前ら……ここは中華料理屋じゃねーんだぞ。質問がないなら、さっさと練習始めろ」
「えー、先生のケチ! ケチ男っス!」
「よーし七霧、まずはお前から扱いてやる。覚悟しとけよ」
「嫌っスーー!!」
どうやらおふざけが過ぎたようで、七霧は先生に引き摺られるようにして連れていかれた。
その際に智也と国枝に助けを求めるような眼差しで見つめてきたが、智也はそれに気付いておらず、国枝も静かに首を振っていた。
「じゃあ、おれたちも練習しよっか。なにか協力できることがあればするけど――」
「いや、大丈夫だ」
「そ……っか。あんまり無理しないでね」
そう言って、国枝は少し離れたところで個人練習を始めた。
智也も小さく嘆息してから朝練の続きをしようと構え、それを深碧色の瞳が何度も横目に見ていた。
「――Reve13【風牙】」
手のひらに集めた魔力を、小刀の形にイメージしながら纏わせる。朝練で教わった、装備型の方式だ。
あのあと十八番だけでなく、智也はこちらの練習も試みていた。そのときの教え通りに手順を踏んで、再び具現化に挑戦する。
しかし、今回も目覚ましい成果は得られないようで。
周りでは、練習を始めた他の生徒が易々と魔法を扱っている、
まるで自分だけが取り残されたかのような、そんな感覚に陥り焦りを覚えるが、先生の言葉を思い出して智也はかぶりを振った。
「もう一度だ」
決して諦めず、智也は何度も挑戦した。
何度も何度も魔力を集め、イメージを描いては具現化に失敗し、体内の魔力と共に気力や自信までもが喪失してしまう。それでも、諦めずに食い下がった。
結果、六回七回と挑戦したところで魔力が枯れてしまい、智也はその場に膝をつく。
「……」
これで何度目だろうか。今朝からの分を数えるだけでも、三十回は優に超えるだろう回数を失敗し続けている。
そこまでくると、否が応でも否定的な考えに陥ってしまう。
「きっと俺には才能が――」
と、我に返った智也は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
無意識とはいえ、自分が溢した言葉に驚くと同時に、悲しささえ覚えた。
「一先ず休憩しよう……」
疲労感に苛まれる体を押して、壁際に座り込む。
けれど、休憩して、肩でしていた呼吸を整えて、それですぐに魔力が回復するわけじゃない。
早々に手持ち無沙汰となった智也は、他の者が練習している風景を、ただ眺めるしかないのだ。
ぼんやりと、十四人の姿が黒瞳に映る。
真っ先に視界に入ったのは、藤間と戦う――いや、おそらく戦わされているだろう虎城の姿だ。
右手にナイフを模した風の刃を握り、斬りかかる虎城の攻撃を軽々と藤間が避けている。
言わずもがなの運動神経だが、智也の意識が向いているのは、虎城の方だ。
集めた魔力をあの形状にすることすら智也にはできないのに、その形状を維持したまま、振り回すことの難しさがどれほどのものなのか。出だしで躓いている者には分からない。
ため息を溢し、他に視線を移す。
千林と清涼は『魔導書』を開いて難しい顔をしており、久世と七種の二人は個人練習に勤しんでいる。
一方、東道と栖戸は一緒に練習していて、それに雪宮が付き合わされているようだ。そして、先ほどから体育館を走り回る神童の首を、殺意マシマシな水世が狙っている。
どうせ何か癪に障ることをしたのだろう。と鼻を鳴らして、智也は視線を外した。
「おーい、大丈夫?」
「もうヘトヘトっス……」
大の字に寝転がる七霧の頬を、国枝がつついて笑っている。それを遠目から見て、智也は眉尻を下げた。
「そういや先生は」
見当たらない姿を探して体育館を見回すと、隅の方で紫月と話しているのが見えて、その二人が何故か同時にこちらを向いて、嫌な予感がした。
咄嗟に合った目を反らすも、やはり紫月がこちらに向かって歩いてきて、嫌な予感が的中する。
「智也くん、いま休憩中?」
考えてみれば、魔力量が致命的に少ないのは紫月も同じなのだ。
となれば必然的に休憩するタイミングも被ってくるだろう。要するに、紫月も暇を持て余していたわけである。
「……」
相変わらずの無愛想っぷりだが、そんな智也に構わず、紫月は隣に腰を下ろした。
「皆すごい頑張っとるね」
「……」
「クラス対抗戦、智也くんも選抜入り狙っとるん?」
「……まぁ」
「そーなんや! すごいな~私なんか、始める前から諦めとるもん」
「何の努力もせず、悲観して泣き喚くだけなら誰にでもできる」
卑屈になっていた手前、紫月の言葉を悪いように感じ取ってしまった智也は、同じ境涯である自分の努力がまるで意味のないものだと言われているような気がして、少し荒い口調となってしまった。
しかし紫月の方に気を悪くした様子はなく、むしろ驚いた表情を浮かべている。
「そう、やよね。……私も、頑張れば智也くんみたいに強くなれるんかな?」
「俺は藤間に勝つ。そう決めたから」
強い意志を宿す黒瞳を見つめて、紫月がふっと微笑んだ。
「頑張ってな智也くん。応援しとるから! もちろん、私も頑張ってみるよ。水世さんは強敵やけど……」
握り拳を作って己を鼓舞してみせる紫月をよそに、智也は正面に立つ男の足を見て、上へと視線を上げた。そこにあるのは、不敵な笑みを浮かべた面だった。
「そういうわけだ。黒霧、お前いま暇だろ」
「そろそろ魔力も回復してきたので練習を再開します」
「待て待てそんなすぐ復調しねーだろ。これは、お前にとっても有益な話だ」
確実に面倒事を頼まれると思った智也は未然に防ごうと立ち回ったが、先生の方が一枚上手だった。
肩に手を回され、紫月に背を向ける形で囁いてくる――その内容が『甘い誘惑』の使用を許可してくれる、というものだったからだ。
正直このまま自然回復を待っているだけでは、闇雲に時間を浪費するだけである。出遅れている身としては、どれだけ時間があっても足りないのだから。
故に、智也にその話を断ることはできない。
そもそも、授業中に『甘い誘惑』を使用するという発想が智也にはなかった。あくまであれは、朝練の際に特別に借りているものだと思っていたからだ。
第一、他の者が練習している横で寝転がるなんてこと、恥ずかしくてできるわけがない。
「それに関しては、倉庫を使うといい。あそこなら周りの目も気にならないはずだ」
「……それで、先生は俺に何を求めてるんすか。大方察しはつきますけど」
周りの視線を気にする智也に、先生が肩を叩きながらそう提案してくる。
その『魔導具』を餌に、いったい何を頼むつもりなのか。ちらと背後を一瞥する智也に、先生が「バレてたか」と苦笑いを浮かべ、
「まぁあれだ。『甘い誘惑』を貸してやる代わりに、紫月の相談に乗ってやってほしいんだよ」
「やっっっっぱり、それか……」
見事に予想が的中して、智也は盛大にため息を溢した。
面倒でしかない。そうは思っても、今の智也に断る選択肢はない。
「背に腹は代えられないか」
「んな嫌な顔すんなって。どっちにしろ休む必要はあるわけだ、誰かと会話することで気分転換にもなるだろ?」
その、会話する相手を選ばせてほしいところである。
これがもし神童だったなら、智也はどんな好条件だろうと断っていただろう。それくらい相手は重要なのだ。
「んじゃ、倉庫に行くぞ。紫月、お前もだ」
「え、倉庫ですか?」
そそくさと歩いていく後ろ姿を、智也は不服そうな顔で追いかけて、それに戸惑いながら紫月もついてくる。
体育館の隅にある扉を開け、倉庫へと入る。中は思いのほか広く、綺麗に整理整頓されていた。
スポーツ用具に混じって見知らぬ道具も収容されているが、おそらくそれらも『魔導具』なのだろう。
「先生、ここで何するんですか?」
「まぁ見てろ」
倉庫の中を不思議そうに見回す紫月に、先生が薄桃色の球体を紹介する。
一見して風船のようだが、こちらが手を加えずとも自然に膨らむという優れた性能を持っている。
そして何より特徴的なのが、膨れ上がった球体の絶妙な柔らかさと、風船の口にあたる部分が、釣鐘型の花のようになっていることだ。
「えっと、何してるんですか……?」
「見ての通りだ。こいつは『魔導具』と言って、お前に見せるのは初めてだったろうが……あぁ、なんだ、あれだ……」
球体に寝転がり、身が溶けるような気持ちよさに包まれると、先生はそのまま眠りに落ちていこうとする。
「この人なにしに来たんだ……? 先生、起きてください。話が違います」
「ん……あぁ、わりぃ。寝てたわ」
「寝てたわ、じゃないっすよ! ちゃんとコレの説明してくださいよ!」
「なんだ、気にかけてくれたのか」
どうやら本気で眠っていたようで、智也が肩をゆすって起こすと、死んだ魚のような目をこちらに向けてくる。
そんな未だに寝転がったままの怠慢教師と肩を落とす智也とを見て、紫月が声を上げて笑い出した。
「ぷ……ふふ、あははっ、すいません……面白くて……」
口元を手で押さえながら笑う紫月に先生も微笑を浮かべて、智也は一人、項垂れる。
それから不安ではあったがちゃんと先生が諸々の説明をしてくれて、他の生徒を指導するためにと、二人を置いて倉庫から出ていった。
「これ、ほんとに魔力回復できるん?」
「……あぁ。さっき先生がやってたみたいに寝るだけでいい」
「ほ、ほんとに寝るんや……」
薄桃色の球体に体を預ける智也を横目に、紫月もおそるおそるといった様子で横になった。
「えっ、すご。なにこれ、めっちゃ柔らかい!」
「……」
人を堕落の道へと誘う『魔導具』。その心地よさを味わった紫月が感動する横で、目を閉じた智也は早くも寝息を立てそうな勢いで溶けていた。
「こんな凄いのあったんやね……あれ、智也くん寝た?」
上体を起こし、寝顔を覗こうとしてくる紫月を智也の左目が捉える。
それに紫月は驚いたように身を退けて、再び横になっていた。
「……」
「……」
二人しかいない倉庫に沈黙が満ち、開いた扉の向こうから、他の誰かの話し声が微かに聞こえてくる。
例え雀の涙ほどの魔力量でも、完全に回復するまでおよそ十分程度の時間を要してしまう。
本来ならそれでも早い方だが、今はその十分が、とても長い時間に感じられた。
「あの……さ」
長い長い沈黙の末、ついに紫月が口火を切った。
これから何を言われるのか、おおよその見当がついていたが、本人がそれを言い終わるまで智也は黙って待っていた。
「智也くんには何の得にもならへんことなんやけどさ……今度の模擬戦、お互い強い人と当たってしまったわけやん? だから……それで、その……」
再び体を起こした紫月が意を決して話し始める横で、智也は組んだ手に頭を乗せて、ただただ天井を見つめる。
「さっき智也くんに、努力もせんと悲観しとるだけなら誰にでもできるって言われたけど、私もほんまは智也くんみたいに頑張りたいって思っとって……でも、戦い方とかよく分からんくて……だから智也くんがよかったら、一緒に作戦とか考えてくれへんかな?」
手を揉み合わせながら話して、言い切って、しかし紫月の表情は暗いままだ。
そんな不安そうな仕草や表情に気付いていながら、依然智也の視線は天井に向いたまま。
「ほんとに、俺にとってなんのメリットもないな」
「そ、そうやんな、やっぱり私一人で……」
冷たく言い放った智也の言葉は、紫月の心を酷く傷付けただろう。
だが、それは紫月自らが用いた自虐の言葉である。智也はあくまで、それに倣ったまでだ。
或いはあの二人のように優しい性格だったなら、人助けをするのに打算的な考えなど介入しなかっただろう。
胸に刺さった言葉に苦しみながら、無理やり笑みを浮かべて『魔導具』から降りようとする紫月。もし先生がいたら、それこそ話が違うと怒られたかもしれない。
別に、そんなことを危惧したわけではない。
かといって、気の迷いなどというものでもない。
これまでの智也なら、そのまま目を瞑って寝ていたはずだったのに。
気付けば、智也は紫月のことを呼び止めていた。
「俺だって自分の力だけでやってこれたわけじゃない。そこまで自惚れてはないし、借りた恩は死んでも忘れない。だけどそんな当たり前のことに、俺は今まで気付いていなかった」
智也が不自由な足取りながらも皆と同じ道を歩めているのは、周りの人の支えあってのものなのだ。
そんな恩人たちの顔を脳裏に浮かべてから、最後に紫月の顔を直視した。
「当然、昼飯を奢ってもらった借りも忘れていない。それをなかったことにして、シラを切ることは俺にはできない。その借りを返せるなら、別に俺の知恵くらいいくらでも貸すよ」
「え……いいん? ほんとに……?」
驚きのあまり、見開いた瞳には涙さえも浮かんでいる。
無理もない、明らかに話は断る流れだった。実際、智也は途中までそのつもりでいたのだから。
「ありがとう……智也くん」
「感謝するなら国枝と七霧と、先生にしてくれ」
そう言って背を向けて寝る智也を見て、紫月が嬉しそうに微笑む。
そんな二人の会話を壁越しに聞いていた男は、灰の眼を閉ざし、口の端を吊り上げて笑っていた。




