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第五十二話 「いつかその日を夢見て」



 朝に強い者の目覚め方は、まるでボタン一つで明かりを灯す照明のようである。


「ん」


 伸びをして、ベットから降りた智也は半無意識的に洗面所へと向かっていた。

 それがいつもの流れとはいえ、無意識に体を動かしているのは、意識が別の方向を向いているからだ。


「最近妙な夢を見ている気がする……」


 正確には、見ている気がするのに内容に関して一ミリも覚えていないのである。

 記憶に残りやすい質だったはずなのに、いささか妙ではある。


「だからといって、なにか不具合があるわけではないが」


 あくまでも夢は夢でしかない。あまり気にしすぎても仕方がないと考えて、手短に支度を済ませた智也は部屋を出て階下へ。


「あれ、おばちゃん?」


 いつもカウンターに見えるはずの姿がそこになく、智也は目を丸くさせた。

 或いは食堂にいるのだろうかと顔を覗かせるが、代わりに見つけたのは銀色の後頭部だった。


 一目見て、それが新井さんでないことは理解できる。

 同時に似た髪の色を持つクラスメイトが頭に浮かぶが、目の前のソレは逆立っていない。

 と、後頭部を注視していた智也に気付いて、銀髪の者がこちらに振り返った。


「おや、新入生くんかな? 新井さんなら買い出しに行ったよ」


 椅子に腰掛けたままこちらを見やった少女は、どこか大人びた表情をしていた。

 その翡翠色の眼も、智也の知らない世界を見て渡ったかの如く、深く澄んでいる。


「ところでここは、男子禁制じゃなかったのかな?」


「あ……えーっと、自分は新井さんの孫……という設定らしいです……」


「ふふ、新井さんがそう言ったのかい?」


 その問いに苦笑交じりに首肯すると、少女は「ではそういうことにしておこう」と言って微笑を浮かべた。


「あ、自己紹介がまだだったね。私は神城京野。リヴ魔法学園の二年生――君の先輩だね」


「二年生……」


 学園に通い始めてから今の今まで、思えば上級生と顔を合わせたことはなかったなと、智也は思った。

 体育館や闘技場など、学園の設備のほとんどが一年の授業で占領されている。その間、上級生たちはどこで何をしているのだろうか。


 何しろ広い学園だ。智也が行動圏としているのはそれのほんの一部に過ぎないし、もしかすると上階にもそういった訓練用の設備があるのかもしれない

 ただ、学園にいるのであればお昼時には食堂へと足を運ぶはずである。普通に考えて数ヵ所設けられているとは考えにくいし、それでどうして今まで見かけたことがなかったのかと、疑問が湧く。 


 そうしていつもの癖で考えに耽ってしまう智也を少女はまじまじと見つめてきて、


「君の名前は?」


「黒霧智也です」


「黒霧くんか、よろしくね」


 と、握手しようとしたのか差し出した右手を何故か中途で引っ込め、代わりに左手が伸ばされる。

 その不自然な動作を智也が怪訝に思っていると、


「あぁ、ちょっと怪我をしてしまってね」


 智也の視線をなぞった神城が、包帯に覆われた右の手を掲げ、力なくそう呟いた。

 その手を見つめる物悲しそうな眼差しに、何か深い事情があったのだろうとは思ったが、智也は知らないふりをした。

 そうして掴まれなかった左手をそっと引っ込めた神城は、向かいの席を指差し、苦笑する。


「食事をしにきたのだろう? 邪魔をしたね」


「いえ」


 短く返して、智也はあえて正面の席を避けて座った。

 テーブルの上には、いつも通り焼き立てのパンがバスケットに入っている。その中から適当に一つ選び、口に運ぼうとして、やにわにその手を戻した。


「……」


 食欲をそそる香ばしい匂いに唾液が溢れ、大事なことも忘れて本能のままに貪るところだった。裏を返せば、それだけ罪深い香りだったというわけだが。


 正気を取り戻し、下宿屋の入口に視線を向けるが、新井さんが帰ってくる気配はない。

 直接顔を見て言いたかったところではあるが、止む無しということで、智也は手を合わせた。


「いただきます」


「けっこう律儀なんだね」


 小気味よい音を立てながら、硬めのパンを齧る智也に神城がそう呟く。

 しかし智也は舌で感じる小麦の味わいに夢中で、まるで聞いていない。その様子を一頻り眺めたあと、神城はクスリと笑ってもう一度口を開いた。


「そういえば、随分と朝が早いんだね。始業時間までまだまだ時間はあるはずだけど……」


 言いながら、壁掛け時計を確認する神城。視線の先では、六と三の字に針が止まっている。


「明日、模擬戦があるんで」


「模擬戦! 懐かしいな~。月末の対抗戦に向けての練習試合、だよね!」


 やたらと一人で舞い上がっているようだが、目の前の少年の意識は、バスケットの中の宝の山にしか向いていない。

 手中にあった最後の一切れを口に放り込み、咀嚼して、硬いパン特有の食感を楽しんで――忽然と口の中が空になる。

 そうして喪失感に襲われるかと思いきや、すぐに次の幸せが運ばれてくる。智也の喉や舌は、水を得た魚のように喜んだ。


「君も対抗戦に――って、全然聞いてないな。ていうか凄い食べっぷりだね……」


 驚きを越して引いてしまうほどの食いざまだったのだろう。好物を前にした智也を見た人は、大概同じ反応をする。


「ご馳走様でした」


 あっという間にバスケットの中身は空っぽになってしまった。

 十種類近くのパンが入っていたはずだが、智也としては無我夢中だったため、どれだけ食べたかは記憶にない。ただただ、心から多幸感に満ち、舌鼓を鳴らした。


「?」


「なんでもないよ。練習、頑張ってね」


 こちらをじっと見つめていた視線に智也が目を丸くさせると、神城は引き攣っていた顔を正して笑みを浮かべた。

 それから席を立つと静かに歩を進め、階段を上って二階へ消えていく。それに首を傾げてから、智也も学園へと向かうことに。


「上級生か……」


 早朝の静かな町を歩きながら、ふと、自分が一年後どうなっているのか考えてみた。

 このまま練習し続れば、少しでも先生に――いや、まずクラスメイトに追いつけるのだろうか。


 一年どころか、十数年分の遅れを取っているのだから、そう簡単な話ではないと理解している。

 それでも努力した末に強くなった前例が、目標が目に前に在るのだから、智也はそこに憧れたし夢を見た。

 いずれにせよ、今は目の前のことに一生懸命に取り組むだけである。


「頑張るぞ」


 決意を呟き、己を鼓舞して、気持ちの高まった智也の歩みは自然と速まっていった。



 ✱✱✱✱✱✱✱



 体育館に入ると、正座をした先生が腿の上で手を組み、黙想している姿が見えた。

 一瞬、声をかけるか智也は迷ったが、気配でも感じ取ったのか片目を開けた先生がこちらを一瞥する。


「――黒霧か」


「おはようございます」


「気合入ってるな」


「まぁ……」


 灰の眼が見つめてくる。

 その視線が妙に気恥ずかしくて口を濁してしまったが、実際のところその通りであった。むしろ、意気込みすぎて空回りしないか、その眼差しは心配しているようにも見える。


「さて、今日はどうするか。筋肉痛の方はどうだ?」


「昨日も酷使したんで痛いですよ。でも、それ以上に気持ちが勝ってるんで何とかなります」


「それは……」


 無理をし過ぎて体を壊してしまったら元も子もない。それを心配してか、口を挟もうとした先生にしかし、智也はかぶりを振った。


「大丈夫です、今日は【強歩】は使いません。その代わりと言ってはなんですが、教えていただきたいことがあって」


「なんだ? 言ってみろ」


「あれから何度か練習してるんすけど、やっぱり上手く具現化できるものとそうでないものがあって……その違いを見出せれば、少しは進展できるかなって思ったんですが……」


 五つある属性の内、人はそのどれかに適性を持って生まれる。稀に、複数の適性を有する者も存在するようだが、それでも『二つ持ち』だ。

 故に初級魔法といえど、自分にとってはほとんどが適性のない魔法ばかりとなる。ただ、鍛錬を積むことである程度は適性の壁も乗り越えられるらしい。


 つまるところ、自分の適性によって扱いやすい魔法の種類は変わってくるわけだ。

 が、例外もある。


「適性の有無じゃなくてか? あぁ、お前は無属性だったな」


 言いながら、先生は顎に手を当てた。


 基本的に一つしか持ちえないはずの適性を、全て有する異例中の異例がある。ソレと同じにはなれなくとも、似通ったものが智也にもあるはずなのだ。

 しかしそれにしては、扱いやすさに差が出ている時点で矛盾している。

 そのことについては、改めて検査してくれるという話だったが――と考えたところで、


「その、上手くできないってのはどの魔法だ?」


「主に練習してたのは、十三番と十八番の攻撃魔法です。同じ属性でも十一番や十六番は扱えるので、理屈ではできるはずなんですが……」


「なるほど。そりゃぁ属性云々ってより、別の原因だろうな」


 そう言って伸ばされた右手に、智也の視線が釣られる。


「【風牙】と【火蜂】を教えたときのことは覚えてるか? この二つに共通してんのは、他と比べて魔力操作が複雑なところだ」


 その問いに、智也は首肯を返す。

 授業の内容はもちろんのこと、『魔導書』にも何度も目を通して確認済みである。


「魔法の具現化は、拳銃の発砲と似ているって話はしたな?」


「魔力は弾丸、詠唱が引き金で、体の一部が銃口……ですよね」


「あぁ。そして拳銃と決定的に違うのが、発砲時に弾の形を想像しながら整える点だ」


 右手に集められた魔力が、形を成して放たれる。

 燃え盛る、綺麗な球体だ。


「こいつが上手くいってねーと具現化は失敗する。黒霧……まさか魔力操作の仕方を習わなかったのか?」


「友達に教えてもらいました」


「『訓練校』は?」


「いやぁ……」


 歯切れの悪さに、先生は眉をひそめた。


 行っていませんと、そう頷いたも同然の反応であったが仕方あるまい。そもそも異世界から来た智也は、話に聞くまで『訓練校』とやらの存在すら知らなかったのだから。


「まぁ全員が通ってたわけじゃねーからな。つーわけで、原因は魔力操作っにあるってことか」


「じゃあそれさえ上手くできれば……!」


 智也は希望に満ちた眼差しを向けるが、先生の表情は何故か渋い。


「――とりあえず一回、十一番でいいから撃ってみろ」


「はい!」


 意気込んで。先生に見守られながら、智也は準備に入った。


 体内に流れる魔力を右手に集め、暗闇の中に浮かべるは、先ほどもみた燃え盛る球体。

 そのイメージに合わせて魔力を放出し、引き金に指をかける。


「Reve11【火弾】――!」


 媒体となる魔力量、正確な知識、そして定められた言霊。この三つが揃うことで、初めて魔法は具現化する。

 至極色の書物にも記載されている、魔法の基礎知識だ。


 そうして中途で消滅することなく飛んでいった火球を見て、智也は安堵を胸に先生の顔を仰ぎ見る。その視線に、怪訝そうに眉をひそめられた。


「次は十八番だ」


「……分かりました」


 少しの不満と不安を抱きながら、先ほどと同様に魔力を手のひらに集め、それを八つに分割するイメージを浮かべる。ここが、最重要ポイントだ。

 この魔法の難点は、魔力の分割にある。それが上手くいかないと具現化に失敗してしまう。だから智也は細心の注意を払って、それを作り上げた。


「Reve18【火蜂】――!」


 手のひらから放出された魔力が小さく燃えて掻き消える。

 具現化の、失敗である。


「また失敗した……」


 魔力操作に原因があると聞いたから、その部分を特に意識し、挑んだはずだった。

 それなのに何がいけなかったのだろうかと思考を巡らせても答えは見えず、頭を悩ませる。

 そんな智也を灰の眼が見据えて、


「少し前にも、魔法の具現化が上手くできずに悩んでいたようだが……あれは解決したのか?」


 尋ねられているのは、最初の授業で魔法が消滅していた現象についてだろう。

 あのとき恥を忍んで一歩前に出たことで、智也は今こうして、下手くそなりに魔法が扱えている。

 その旨を伝えると、先生は腕を組んで何かを思案しているようだった。


「なるほどな。見た感じだが、魔力操作の基本はできてるんじゃねーか?」


「そう……なんですかね?」


 何も習っていない身からすれば、基本ができていないと言われても心当たりしかないため素直に頷ける。

 それがむしろ上手くいっているということは、あの日聞いた二人の――国枝のアドバイスが、すごく良かったということだろうか。


「ただ、二つだけ間違いがあるな」


「二つ……」


「まず一つ目だが、お前は致命的な勘違いをしている。十八番の魔法は十一番のように、魔力を放出するわけじゃない」


 立てた二本の指を灰の眼に映して、先生は小さく呟いた。


「【火蜂】」


 瞬間、指の間に炎が生まれるが、すぐに掻き消えてしまう。――いま、智也が失敗したように。

 それで何を伝えたかったのか、その意図を読み取ろうと、自然と智也は頭を回していた。

 その様を見守るかのように、先生は静観している。


「放出じゃなくて、そこに停滞させる……そして、先生のが失敗した理由はまた別の要因――?」


「細かくいやぁ停滞ってよりかは『纏わせる』だな。ちなみに……お前は既にその方式を、何度も使用しているはずだ」


 不敵な笑みが向けられて、智也の脳に電気が走った。


「纏わせる――そうか、強化魔法の要領と同じなんだ……!」


「そういうこった。まぁあえて名前を付けるなら『放出型』と『装備型』って形になるが、初級魔法のほぼ全てが……その前者にある。そういう観点からしても、十八番は扱い辛いってわけだな」


 だが、カラクリが分かればあとは簡単だろ? と言葉を続けて再び口の端を吊り上げる先生に、


「はい! あ、でももう一つの間違いって」


「そうだな……『魔臓』が体のどこにあるか知ってるか?」


 早速試してみようと、動きそうになった体に智也はブレーキをかけるが、そこへ投げられた問いに思考回路が絡まる。


 ――魔臓。


 体の内部にあるとされる、聞いたことも見たこともなかった不思議な臓器。


 前々から、智也はそれを疑問に思っていた。

 この世界の人々は、魔力を生み出す役割となる『魔臓』を有することで、不可思議な力を発現可能としている。それは、つい最近耳にした昔話にも出てきていた。

 実際それで魔法という概念が生まれているのだから、そこは認めざるを得ないし、智也に否定する気はさらさらない。


 では、その奇妙な『魔臓』とやらは、異世界人の智也の体内にもあるのだろうか。


 ――否。それは愚問である。こうして何の不便もなく扱えているのだ、理論的に考えれば智也の中にもその臓器はあると見ていい。むしろそうでなければ、色々と説明が付かない。


 突として、背筋が凍るような寒気を覚え、智也は背後を振り返った。

 誰かが来たわけじゃない。入口の扉も締まっている。


「どうした?」


「いや……? なんでもないです。どこにあるんでしたっけ、マゾウって」


 突然後ろを向いた智也に先生は怪訝そうに眉をひそめ、返ってきた返答に灰の眼を細めた。


「『魔臓』は喉の奥にある」


「喉……?」


 予想と大きくかけ離れた、意外過ぎる場所に面を食らってしまう智也。

 その反応に、やはり先生は怪訝そうな表情を見せるが、特に追及はされなかった。


「さっき放出じゃなく、纏わせる必要があるとは話したが、それだけじゃ具現化には繋がらない。俺が二本指で試したろ、あれがそうだ」


「八つに分割するんですよね」


「そうだ、何事にも型ってもんがある。だから魔法式に組み込まれた方式に反すると、ああして失敗するんだよ。要するに……分割が上手くいっていない可能性がある。ま、魔力の流れが見えるわけじゃねーから、あくまで憶測でしかないけどな」


 智也的には上手く分割できているつもりだったので、首を傾げるしかなかった。

 しかし先生も言っているように、あくまで具現化に成功するかどうかは自分の想造力次第であり、それは己にも視認できないため判断が難しい。


「それで、もう一つの間違いと『魔臓』には何の関係が?」


「あぁ……これはお前の間違いじゃなくて考え方の問題なんだが――分割が上手くいかないのは、魔力が足りてないからじゃないのか? それで魔力の源である『魔臓』を意識すりゃ、何か変わるかもしれないと思ったんだが……」


「え、でも十一番も十八番も、必要な魔力量ってほとんど変わりませんよね……?」


「まぁ……そうだな。一応試してみるか?」


 自分が相談した悩みに、こうして親身になって考えてくれているのだから、智也としては即答したいところではあった。しかし、自分にも分からない謎があるため、すぐには首を縦に振れない。


「――やってみます」


 疑念があったとはいえ、先生がせっかく提案してくれているのだ、断る理由はない。

 それに、もしこれで正解に近付けるのであればこぼれ幸いである。どの道、やって損はない。


「Reve18」


 智也は普段から、魔法を扱う際には全身の魔力をかき集めるよう意識してきた。今回はそれに合わせて、魔力の根源である『魔臓』を感じ取るように意識を集中させる。


 そうして右手にかき集めた魔力を、今度は少しずつ分解していく。

 イメージとしては、細胞分裂が近いだろうか。


「【火蜂】!」


 媒体となる魔力量、正確な知識、そして言霊。それら全てが組み合わさり、一つの魔法が具現化――しない。

 十八番の方式に習って八つに分けたはずの魔力が、形として発現する前に消滅する。結果、智也の魔法はまたもや不発に終わった。


「なんで……」


 教えてもらったことを意識して、改善したつもりだった。

 放出ではなく、纏わせるように魔力を操作し、感覚では魔力の分割にも上手くいっていたはずだったのに。


「他の皆はできてるのに……」


 項垂れて、落ち込む智也の肩を先生が優しく叩いた。


「今できなくても、いずれきっとできるようになる」


「そんなの分からないじゃないすか」


 それに、明日の模擬戦に向けて練習している智也には、今できないと意味がないのである。


「悪いな、力になれなくて」


「先生は……何も悪くないですよ。むしろ自分が不甲斐なくて……」


 きっと先生には、智也の焦る気持ちも、模擬戦に向けた熱い想いも、何もかも見透かされているのだろう。

 それでここまでしてくれて、悪いところなんてあるはずがなかった。むしろ、これ以上なく智也の為に尽力してくれているのに、申し訳なさそうな表情を浮かべる先生に、智也は胸が苦しくなる。


「積み重ねた時間が違えば、その重みが違うのは当たり前だ。焦りも不安もあるだろうが、いま大事なのは努力することだ。他の誰よりも努力して、し続けて……そしていつか俺さえも越えて見せろ」


「できますかね、自分に……」


「できるよ」


 不安に感じていた智也の心が、きっぱりと断ち切られる。

 それは、暗い海の底に沈んでいたはずの智也を、海ごとぶった切って救い出したかのような、そんな力のある言葉だった。


「でも、絶対負けないって思ってますよね」


「おう、負けるつもりはさらさらないぞ」


「なんすかそれ……どっちですか」


 悪戯に笑って見せる先生に、智也も釣られて笑みを浮かべて。

 その際に閉じた瞼から、一滴の雫がこぼれ落ちた。



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