第四十九話 「内に秘められし力」
「あ~疲れたっス~」
「七霧くんほとんど寝てたよね?」
「だってあの先生の話し方眠いんスもん」
鬼先生による歴史の授業を終えた智也たちは、食堂に足を運んで羽根を伸ばしていた。
よほど退屈だったのだろう、話が始まってすぐ七霧が机に突っ伏したのを、智也と国枝は笑いながら見ていた。その際、腕を枕代わりにしていたせいか、おでこに跡がついている。
「昔話は得てして眠くなるよな」
「そうっスよね!」
「っ、でも、昼からまたあの先生なんでしょ?」
一応七霧にフォローを入れる智也の横で、国枝が彼の額を見て笑いを堪えている。
本人はその意味に気付いておらず、一瞬呆けた顔になったあと「もう歴史の話は聞きたくないっスよ~」と言って肩を落とした。
正直なところ、今回は興味の惹かれる題材だったから良かったものの、そうでなければ智也も七霧と同じようになっていた可能性は高い。
そんな中で、授業の始まる前に鬼先生が話していた言葉を思い出し、
「隣町ってさ……遠いのか?」
何も知らない智也は、二人を頼りにそう尋ねてみた。
異世界転移したあの日、大平原に降り立った智也は辺り一面に広がる緑の景色を目にしている。
そこから北に真っ直ぐ進んできたはずだが、その道中には隣町どころか、建物の一つもありはしなかった。或いは別の方角か、学園を越えて更に北に向かえばその隣町とやらがあるのだろうか。
どちらにせよ、隣と呼べるほどの範囲には何も見当たらなさそうだったが。
「おれも行ったことはないけど、徒歩で半日以上はかかるって聞いたよ」
「半日!?」
予想以上の遠さに智也は動揺を隠せない。
元の世界でなら、隣町なんて十分前後で辿り着く距離にあるというのに。
それだけ遠いということはつまり、出張した先生の帰りも相応に遅くなってしまうということになる。
往復するだけで丸一日だ。何用で駆り出されたのかは知らないが、その用件がすぐに終わるとも限らない。ではその間、先生の代わりは誰がしてくれるのか。
「えー! じゃぁずっとあの先生の授業なんスか!?」
いつも笑みを絶やさないでいる七霧が、嫌そうな顔になるのも無理もない。さすがに智也だってあの授業が長く続くのは耐えられない。
しかもその場合、模擬戦はどうなるのか。それが今の智也にとって一番の不安要素だった。
「降魔先生にはなるべく早く帰ってきてもらいたいね……」
「ククク……辛気臭い顔をしてどうした、漆黒の使途よ」
国枝が苦笑いを浮かべ、智也と七霧が項垂れているところ、独特な話し方をする妙に聞き覚えのある声が耳に入った。
首を動かさず視界の端でその姿を捉えれば、やはりというべきか、左手で顔を覆って格好を付けた、黒紅色の髪の変人がそこにいた。
国枝と七霧は顔を見合わせ、知らない人だと首を傾げているが、変人の視線を辿れば、その蒼い瞳に映されているのが智也だと分かる。
「黒霧くんの知り合い?」
「やめろ、目を合わせるな。俺は無関係だ!」
「え……」
反応に困ったような表情になる国枝と、未だに首を傾げたままの七霧。そんな二人に伝わらないジェスチャーを送りテーブルに肘を立てた智也は、それを変人を視界に入れない為の壁とした。
そのあからさまに避けようとする態度を見るや否や、変人は顔を覆っていた手を外すと、蒼い瞳に驚愕の色を浮かべた。
そしてすかさず左手を智也に向け、真剣な表情で叫ぶ。
「なっ、バビロンの城壁だと……!? ならばこちらはロンギヌスの槍だぁ!」
「お前ほんとに何言ってんの? 恥ずかしいんだけど……」
周りの視線を気にしながらため息を溢す智也に、変人は誇らしげに笑みを湛えた。
どうしてこうも事あるごとに絡んでくるようになったのか。
おそらく最初の邂逅を誤ってしまったのだろうと、智也は後悔した。
「そう臆することはない。恥じらいという感情など、不要の産物だ。そのような感情を抱いていては何も成し遂げられん。故に我には、恥など存在しないのだ!」
「同じことが五年後にも言えたら感心するよ」
「――待つのだ。貴様らに鬼先生から言伝を預かっておる」
声高々と明言する変人をあしらって、智也は席から離れようとするが、言伝と聞いて足を止めた。
「言伝? もしかして鬼先生の生徒さんなの?」
「ククク……いかにも。我こそが一年C組の、学級委員長である」
「へーそうなんだ。……あれ? そんなのあったっけ」
「今考えた」
「国枝。こいつとまともに話し合わない方がいいぞ」
サムズアップする変人にやれやれとため息を溢しながら、国枝の肩を叩いて忠告を入れる。それから「言伝ってなんだ」と催促する智也に、変人は再び顔の前に手をやってから口を開いた。いちいち無駄な動きが多いのはこの際、目を瞑っておこう。
「午の下刻、西の館にて貴様らを待つ。これが鬼先生からの言伝じゃ」
「絶対言葉変えてるだろ」
「馬……? 西……?」
冷たい視線を向ける智也の傍ら、さっきから話についてこれていない七霧が、混乱したようにうわ言を呟いている。その七霧の額を見た変人が、何故か目を輝かせた。
「貴様、その額の傷……。よもや紅の刻印を持つ者が、他にもいたとはな」
「え、額っスか?」
「喜ぶがいい、同じ紋章を刻みし者よ。我と貴様は同胞じゃ」
そう言って前髪をあげた変人の額には、七霧と同じ類の跡がついていた。
その紅の刻印とやらを誇らしげに見せる変人に、七霧は最初こそ困惑していたが、すぐに笑みを取り戻した。
「なんか分かんないっスけど、仲良くなれそうっスね!」
「待て待て、こんな変人と仲良くしちゃ駄目だって!」
「なんでっスか?」
握手しようと差し出した七霧の手を掴んで、智也は慌てて制止させた。
危うく大切な友人が、魔の手に落ちるところだったと息をつく。変な輩と関わったせいで、七霧までそっちに持っていかれては適わない。
彼は周りの影響を受けやすいタイプなのだからと心配する、そんな智也の肩を不意に誰かが触れて背筋が冷える。
「ちょっと、誰が変人ですって?」
振り向けば、そこにいたのは柑子色の髪を頭頂部で丸めた、お団子頭の女生徒――変人もとい不知火の友人である。
切れ長な目をつり上げてこちらを睨むその人物は、以前も不知火のことを小ばかにしていた際に現れたので、智也は勝手に親衛隊と呼ぶことにしていた。
「あぁ、親衛隊か」
「は? 親衛隊? 私には白葵って名前があるの。変な呼び方しないでくれる?」
「すいません」
思わず心の声を漏らしてしまい、苦笑を浮かべる智也に白は「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「桃ちゃん大丈夫だった? またこの人に変なことされたんじゃない?」
「人聞き悪いな、俺は別に何も」
していない。と言いたかったが、こちらを睨みつける蒼い瞳を前に、声が出ない。
「聞いてよ白ちゃん、我に新しいお友達ができたのだ!」
「そうなの?」
「彼女だ」
そう言って不知火が紹介したのは、まさかの七霧だった。
今さっき顔を合わせたばかりのはずだが、それがどうしてこの短時間で友達になれるのか。いやそれ以前に、七霧は女ではない。
「かわいい~! 何組の子なの? お名前は?」
「え、自分……っスか? A組の七霧零っス……」
「レイちゃんっていうのね。私は葵で構わないわ、よろしくね!」
笑顔で差し出された手を、七霧は戸惑いながらも握り返す。
確かにその指は華奢で体つきも男にしては細い。加えて顔は童顔で色も白く、声も智也たちよりやや高めだ。
とはいえ、実際智也も似たような第一印象を受けてはいたが、まさか女子の目を眩ませられるほどとは思いもしなかった。
「なぁ、いいのかあれ」
「七霧くん、確かに女装とか似合いそうだもんね」
「いやそうじゃなくてさ、放っておいていいのか?」
「うーん、どうしよう?」
智也が国枝に相談している間も、七霧は女子に挟まれてチヤホヤされている。特段本人が嫌そうな顔をしているわけではないが、誤解させたままなのもどうかと考えていたところで、
「桃ちゃん、伝言のこと他の人には話したの?」
「ううん、こやつらが初めてなのだ」
「じゃあ早めに伝えないと。レイちゃん、また後でね!」
「ふむ。じゃあまた……再び相見えるとき、貴様らの魂は我が手に落ちるだろう。ハーハッハッハッハッ」
まさかあの不知火がつなぎ役を担っているのだろうか。
声高らかに笑いながら去っていく背を眺めて、智也はクラスメイトがちゃんと言伝を理解できるかどうか、不安になった。
「結局……鬼先生の伝言ってなんだったの?」
「おそらくだけど、午後からは第二体育館に集まれってことだと思う」
と、早速あの回りくどい言い回しに頭を悩ませる者が一人。
ただ単に第二へ集合しろと伝えるだけの話を、どうしてああも難解に出来るのか。むしろ智也にはそちらの方が疑問であった。
しかしながら本当に言伝通りであるならば、教室で待っていても仕方がない。と、少し不安は残るものの、智也たちは昼食を終えたあと、第二体育館へと向かうことに。
✱✱✱✱✱✱✱
「えーそれでは、午後の授業を始めますぞ」
いつもと違う空気。いつもと違う場所。そして聞き慣れない声に、見慣れない顔揃い。
智也は、どこか初めて授業を受けたときのようだと感じていた。
いつもの覇気のない声ではなく、優しげなしゃがれた声での幕開けだ。そんな慣れない空気感に、胸がぞわぞわする。
「えー今日はA組の先生が不在とのことで、合同授業をすることになりました」
「先生。憎きA組との決戦は、対抗戦にて行うのでは?」
本紫色の髪の男が、一歩前に出て問いを投げかけた。
して、いつの間にA組は憎まれていたのか。恨みを買うどころか関わりすらなかったはずだが、と智也は目を丸くする。
「なに、今日やるのは決闘でも競争でもない。キミたちには今回、少し変わった技術を教えようとおもってのう」
「変わった技術、ですか?」
「そうじゃ。A組の子らは、もしかすると見たことがあるかもしれんがの。五十嵐くん、ちょっと前へ来てくれるかな?」
五十嵐と呼ばれた本紫色の髪の男が、智也達の前で鬼先生と向かい合わせに立つ。
形のいい眉に筋が通った鼻。紺の瞳は夜空を映しているかのように深く、目の輝きはさながら星のよう。
どのパーツをとっても美しく、誰が見ても美形だと頷ける顔立ち。そんな五十嵐の顔を眺めて、ちょうど自分のクラスにいる、いけ好かない男と似た印象を智也は受けた。
「まずは説明より、その目で見て確かめた方が分かりやすいじゃろう。五十嵐くん、撃って来なさい」
「分かりました」
何の戸惑いもなく、短く答えた五十嵐が十一番の詠唱を唱える。鬼先生はそれに対し動きを見せず、杖をついたまま笑みを湛えていた。
やがて具現化した火球がご老人に迫り、衝突して、弾け飛んだ。
キラキラと輝きながら、粒子となった魔法が霧散して消えていく。鬼先生は先程と変わらず、杖をついたまま笑みを浮かべている。
「魔法が消えた……?」
「防御魔法か何かっスかね?」
「いや、あれは――」
記憶の片隅にあった不可解な現象が、いま智也の脳裏に蘇る。
鬼先生が言及していた通り、確かに智也たちは、何度か同じものを目にしている。それは地獄鬼で、水世が先生を追い込んでいた時のことだ。
素早い身熟しでもなく、残像でもない。着地の隙を狙われた際に、先生は腕を振って攻撃を凌いでいた。
さしもの先生も、地に足がついていなければ機敏な動きは取れまい。だからあのとき腕を振ったのは、咄嗟の防衛反応だったのだろう。
しかし、先生には三度しか魔法が使えないという縛が、自ら課した制限があったはずだ。ならばそのルールを先生は破っていたのか。その自問自答に対し、智也は否と答える。
――続く言葉を待っていたのか、考えに耽る智也の横顔を、国枝と七霧が見つめている。その二人に根拠のない理由を説明しようとして、智也より先に鬼先生が沈黙を破った。
「今見せたのは魔法ではないぞ。これは単なる魔力の放出じゃ」
「魔力の放出……」
「うむ。キミたちも日頃、魔法を扱うときに自然とやっているはずじゃ。体の一部に魔力を集め、言霊を唱える。そうして魔法が具現化するとき、体内から体外へと魔力は放出される」
言われてみれば、と感じた者が多かったのだろう。その感覚を確かめるために、数人が壁に向かって魔法を打っている。
智也も行動にこそ移さなかったが、脳内でイメージを浮かべて納得した。
「さしずめ、内に秘められし魔の力を解き放つといったところか」
「そうともいう」
「いや、ただ魔力を放出するだけだよな?」
いちいち癖のある言い方をする不知火と、それに悪ノリする鬼先生に智也は苦笑する。
「では、少し時間を設けようかのう。怪我だけはせんようにな」
――そうして鬼先生の指導の下、魔力のみを放出するという練習が始まった。
「ふっ、やってやるぜ。うおおおおおお!」
一際やかましい声が第二体育館に響く。
無駄に気合の入ったその声を智也は疎ましく思ったが、如何せんそれを防ぐための術がない。
特定の音だけを遮れる魔法があればいいのに、なんて思いながら、その者を見つめて顔を顰めていた。
そうして大声で叫び、左手に力を込める神童。
その力んだ体から放出されたのは魔力ではなく、放屁だった。
「ちょっとアンタ、なんでこっちに向かってやるのよ! 死にたいわけ!?」
「臭っせー!!」
「えっ、何あの人……臭っ」
結果。水世や虎城、それに初対面のC組の女子にまで煙たがれる始末。いつもと変わらない、普通の光景である。
まるで黒ローブの者と密会していたことなどなかったかのようなその素振りに、智也は白い目を向けてから視線を外した。
「ふんぬぬぬぬぬぬぬ」
「ってこっちもか……」
正面に向き直れば、バカに次いで七霧までもが顔を真っ赤にして踏んばっていた。人の影響を受けやすい子とはいえ、さすがに感化されすぎである。
そして、確実にやり方を違えているはずなのだが、真剣な七霧に智也の声は届かない。
「っぜぇ、ぜぇ……難しいっスね……」
「力み過ぎなんじゃないの?」
「どれ、これを使ってみるといいじゃろう」
そんな二人の会話に、歩み寄ってきた鬼先生が倉庫から何かを引っ張り出してきた。
どうやらそれはボールケースのようで、中には大量のゴムボールが入っている。
「こうやって掴んだまま、腕を使わず、魔力を放出することで飛ばすんじゃ」
皺の寄った、しかしどこか力強い手でボールを一つ掴むと、ひとりでにボールが飛んでいく。まるで肩を回して投げたかのようにだ。
「すげー! 何もしてないのに飛んだっス!」
「よし、先ずは僕が代表して試そう。君たちは控えていたまえ」
「先陣を切るのは我だぁ! 五十嵐くん、どいて!」
今のお手本を見て感銘を受けたのか、皆が我先にとボールを取りに来る。
一番近くにいた五十嵐は、優雅な手つきで前髪を撫でてから、ボールを掴もうと手を伸ばすが、物凄い勢いで走ってきた不知火に突き飛ばされる。
「え、ちょっ」
「桃ちゃん待ってよ!」
「邪魔よ」
「ちょっとどいて!」
あとからきた人にどんどん後ろに追いやられ、五十嵐は最後尾でへたり込む。その肩を神童が叩いて慰めているが、彼も神童だけには同情されたくなかろう。
「今度は国枝さんがやってみてくださいっス」
「え、うん。力まず……よし、いくよ」
右手に意識を集中させて、一度閉じた深碧色の瞳が開かれる。そして、小さな息が漏れるのと同時に、ボールがぽとりと床に落ちた。
「出来てないじゃないっスか~」
「あはは……意外と難しいね、これ」
そんな彼らのやり取りを傍目に、智也も挑戦してみようとボール片手に集中する。今度は二人がその様子を眺めているが、智也は気付かない。
――魔力の放出。
そもそも魔力のコントロール方法を知らなかった智也は、当初魔法の具現化が上手くいかず、中途で消滅してしまっていた。誰もができる当たり前ができない、そんな己をずっと恥じていた。
そんな中行われたチーム戦で二人と行動を共にし、その優しさに救われた。彼らならば自分の悩みを打ち明けても、きっと馬鹿にはしないだろうと、そう思えたのだ。
だから智也は意を決し、二人に相談を持ち掛けた。結果、貰ったアドバイスで魔力のコントロールは成功し、今や少ない魔力量ながらも、安定して魔法を扱えている。
「……」
魔力を右手に集めながら、智也は自然とその時のことを思い出していた。二人に対し心の壁を取り払えたのも、確かそれがきっかけだったなと思いながら。
癖で【火弾】と言いそうになるのを堪えつつ、いつの間にか定着していた習慣に、思わず口元が緩みそうになる。
そうして内から外へ漏れた魔力が、ボールを手のひらから剝がして真下に落っこちた。チャレンジ失敗である。
「あ……」
「えー! 今のは成功する流れだったじゃないっスかー!」
「すっごい集中してたから、おれたち期待して見てたのになぁ」
「お前らだって失敗してたじゃねぇか!」
今やこんな冗談も言い合える仲だ。それもこれも、降魔先生の采配あってこそ生まれたものだと言っても過言ではない。
二人に対して感謝の気持ちが芽生えるのと同時に、智也は先生にも同等の気持ちを抱くのだった。
「降魔先生……」
遠い地へ向かったとされるA組の担任。
その目的は不明だが、わざわざあの先生を赴かせるのだ、隣町とやらに何かが起きているのは間違いない。それこそ――黒ローブ絡みの可能性だって十分に考えられる。
そう思ったとき、智也の中でなにか言い知れぬ不安感が募った。
なるべく早く何事もなく帰ってきてほしいと願ったが、脳裏を掠めた嫌な予感が、ずっと拭えない。
体育館の窓から見える空を眺め、その青空の下のどこかにいるであろう先生の身を案じ、ただただ無事を祈ることしかできなかった。




