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第四十八話 「呪われた力」



 採光窓から差し込む光が、扉のない部屋を優しく照らしつける。

 その広々とした窓を背に、いかにも高級そうな本革の椅子に腰掛ける優男が、これまた高級そうなティーカップを片手に柔和な笑みを浮かべた。


 その理由は、彼が眼鏡越しに見つめる先――本来なら内と外とを繋ぐ扉がある場所に、突然人が現れたからだ。


「今日も朝早くから精が出るね」


「あのなぁ、知ってるならせめて一声くらいかけろよ」


「すまないね。でも、恭吾くんはこうでもしないと来てくれないでしょ?」


「当たり前だ。あんたに呼ばれていい話を聞いた試しがない」


 強制的に呼び出されて不満を口にするのは、無気力さを感じさせる灰の眼の男。

 心底だるそうな表情を浮かべながら、自分を呼びつけた優男――学園の長である人物を睨んでいる。


「で、今回はどんな面倒事なんだよ」


「こう見えて事を急いていてね。君には今から、隣町までひとっ走りしてほしいんだ」


「嫌だ」


「そんな子供みたいなこと言わないでおくれよ。僕がここから動けないのは、君も知っているだろう?」


 まるで駄々をこねる子供のように自己主張する大の男に、学園長は困り顔を浮かべながらティーカップに口をつけた。

 事を急いていると言った割には、随分と優雅に紅茶を嗜んでいる。そんな学園長に男は白けた目を向けて、ため息を一つ溢した。


「それで、俺である必要はどこにある」


「それはもちろん、一年生の指導を勤める魔導士の中で、君が最も優秀だからだよ?」


「それこそガキじゃねぇんだ、んな子供騙しなんかに煽てられやしねーよ」


「これは手厳しい」


 学園長はそう言って苦笑すると、かけていた眼鏡をそっと折り畳んで机の脇へ。

 そして細めていた瑠璃色の瞳を徐に開くと、灰の眼の男をそこに映した。

 その仕草を見て、自然と男の眼にも力が入る。


「昨日、魔物の討伐で隣町に向かった二年A組の生徒、その四名の安否が不明だ」


「A組……」


「そう、君の教え子だね」


「毎度毎度、俺に対する嫌がらせか?」


 怒りを孕んだ口調で問い質すが、学園長が本意でないことは彼も頭で分かっているはずだ。或いは、その反応を予見していたからこその行動だったのかもしれない。

 そう考えると余計わだかまりを抱きそうだが、


「ともあれ、今回の件も連中が絡んでいると思われるよ」


「またあいつらか……今度はなに企んでやがんだ。つかそもそも、担任は何してるんだよ」


「忘れたのかい? 二、三年の生徒とその受け持ちが、この時期なにをしているのか」


 その問いを受けた途端、男は口を噤んで喋らなくなった。

 言及された通り心当たりがあたるのだろう。しばらく沈黙を挟んでから、観念したようにため息を溢す。


「……俺が不在の間、うちのクラスの授業はどうなる?」


「それに関しては心配に及ばないよ。僕のほうから(きさらぎ)先生に声をかけておいたからね」


「アイツが……?」


「不満かい? 君たちは昔から気の合う仲だと思っていたんだけど」


「俺と鬼とじゃ考え方がまるで違う。あんな自己犠牲精神まるだしの奴と、合うとこなんざ一つもありゃしねーよ」


「随分と冷たいね。彼は君のことをよく――――」


 無駄話が始まるとみてか、男はそれ以上耳を貸さずに踵を返して部屋の角まで歩いていく。

 そこにあるのは扉のない壁と、床に描かれた魔法陣だが、前回来たときと異なり魔法陣の光は失われている。


「無駄話のために呼ばれたのなら俺は帰るぞ。だが……事は一刻を争うんだろ。だったら早く転移させてくれ」


「生徒思いの素晴らしい先生で僕は誇らしいよ。おっと、そう睨まないでほしい。こう見えていま、別の転移陣を書いているとこだよ」


 書いていると言った割には手が動いていない。

 椅子に腰掛けたまま、ただ微笑を浮かべているだけだ。


 と、何の前触れもなく灰の眼の男の足元に新たな魔法陣が浮かび上がる。


「すまないが、不熟な僕の力では遠くに飛ばすことはできない。その代わりと言ってはなんだけど、すぐ走れるように正門に繋げておいたよ」


「……脳内で魔法陣を描いて完成させてる時点で円熟してるだろうが」


「何か言ったかい?」


「別に。なるべくすぐ戻る」


 そう言い残して、灰の眼の男は光に包まれて消えていった。

 対象を別の座標へと移動させることのできる、転移魔法だ。


「気を付けてね、恭吾くん」


 霧散していく光の粒子を見つめながら、学園長が小さな声でそう呟いた。


 その後、いきなり光と共に正門に現れた男に二人の門番が慌てて槍を構え、危うく襲われそうになった男が外から学園長室を睨んでいたのを、本人は知る由もない。



 ✱✱✱✱✱✱✱



「先生遅くないっスか?」


「確かに。いつも時間ギリギリに来るけど、授業に遅れたことは一応なかったよね」


 一年A組の教室。

 前の席の国枝と、そこに寄ってきた七霧がそんな言葉を発した。

 智也は二人の会話を静かに聞きながら、朝練でのことを思い出す。


 突然現れた魔法陣――おそらく『転移魔法』であろうそれによって先生が飛ばされたのは、今日で二回目となる。

 ただ呼び出すだけにしては強引な手段だと智也は思っていたが、前回は特に何事もなく、先生は授業までに戻ってきたはずだ。


「もしかして伝達ミスで、先生一人で体育館に待ってたり……しないよね?」


「有り得そうっスね」


 普通、クラスに十五人もいて誰も知らないというのは考えにくいが、それがあの先生だとむしろ否定できないのが困るところだ。

 そうして智也たちが判断に困っていたところ、教室の引き戸があいて先生が入ってきた。


「なんだぁ、来たじゃないっスか……誰?」


「魔武器生成のときにいた先生……だよね?」


 老いて色素の抜けた髪に、長く伸びた白い髭。以前は高かったであろう背丈は腰から曲がっており、手に持つ杖で体を支えている。入学式の日に見かけた、年配の魔導士だ。

 話によれば一年C組を受け持つ先生らしいが、なぜ他所の担任がこの教室に入ってきたのか。


「さすがに呆けて間違えた訳じゃないよな……?」


 そう思いたかったが、中々威厳のある風貌に反し、中身が抜け落ちているのを件の日に確認済みだ。

 傍から見ても衰えが分かるくらいのご年齢だが、それで教師が務まるのかは些か疑問ではある。もしかしたら智也たちが知らないだけで、今までも何度か教室を間違えたことがあったのかもしれない。


 そんな失礼なことを考えている間に、教壇に上がったご老人が生徒の顔を一頻り眺め、


「なんじゃ、いつもと違う顔に見えるわい。老眼かのう……」


「降魔先生……じゃない、年老いた降魔先生……?」


「栖戸っち、さすがにそれは無理があるって。てゆーか先生、教室間違えてない??」


 皺くちゃな手で自分の目を擦るご老人を見て、智也は肩を落とした。

 そうして意想外な展開に混乱するA組の生徒たちに、ご老人は何か思い出したように手を叩いた。


「そうじゃったそうじゃった。今日は降魔先生がおらんので、儂が代わりに来たんじゃった」


「えー! 降魔先生はどこほっつき歩いてるんスかー?」


「降魔先生がいい……」


 さり気なく栖戸に拒絶されるご老人と、仕事を放棄して怠けていると思われた先生に、智也は苦笑する。


「降魔先生はのう、ちょっと用事でしばらく帰ってこれんらしい」


「用事ってなんスか?」


「ちょっとばかし、隣町までいっとるだけじゃよ」


「――黒霧くんは何か聞いてた?」


「いや……」


 七霧がご老人と会話する横で、国枝が小声で話しかけてくるが、智也も今初めて聞いたと首を横に振る。

 もしかすると、学園長に呼ばれたのと何か関係があるのかもしれない――と思案して、脳裏を掠めたのは二日後に控える模擬戦と、その為の練習の心配だ。


 クラス対抗戦の出場を狙っている智也は五人の枠に選ばれるために、どうしても今回の模擬戦で勝ち星をあげる必要がある。

 しかし、余所者の智也と他の生徒とでは圧倒的な経験の差があり、出遅れている身としては一分一秒が惜しいところ。

 その上、大事な大事な模擬戦の相手が藤間ときた。それが余計に、智也の不安と焦りを掻き立てているのだ。


「儂のことはきさらぎ先生と呼んでください」


「じゃ~鬼先生、今日の授業はどうなるわけ??」


 手を挙げて質問する東道に、鬼先生は顎髭を触りながら「そうじゃのう……」と悩んでいる様子。

 そもそも鬼先生がここに居るということは、C組の生徒は今どこで何をしているのだろうか。


「少し昔話でもしようかのう」


「えぇ……ウチ歴史とかあんま興味ないんだけど……」


「そう言いなさんな。キミたちは、魔法というものがどうやって生まれたか知っておるかの?」


 唐突に歴史の勉強が始まりそうになって、東道がしかめっ面を浮かべた。

 正直なところ身体を動かしたかった智也も不満には感じたが、元の世界にはないその概念が、どういう経由で生まれたのか、気にならないわけではない。


 それに覇気のない方の先生だと、そういった話を聞ける機会もなさそうで、むしろ「俺も知らない」で終わりそうな予感すらした。

 そう考えれば、たまにはこういう授業も悪くはない……と、智也は焦る気持ちを無理やり落ち着かせる。


「魔法ってさ、結構大昔からあったんだよね?」


「うん、私たちのお爺ちゃんのお爺ちゃんの、そのまたお爺ちゃんの時代からあるって聞いたよ~」


「そうじゃ。魔法というのは今からおよそ、三百年前に生まれたと言われておる」


「なんか、思ってたより昔じゃないね」


 歴史の話になった途端、智也はクラスの空気が変わったように感じた。

 具体的に言えば普段から積極的に喋っている東道や七霧が、にわかに静かになったのだ。やはり誰しも興味がない話には気乗りしないのだろう。

 そうして活発的な二人が口を塞げば、自然と他の誰かが喋りだす。その変化が、智也には何となく面白かった。


「詳しいお話をする前に、キミたちの顔と名前を覚えたいので、一度席についてくれるかな?」


「なんか自分、既に眠くなってきたっス」


「あはは……また後でね」


 あくびをしながら自分の席に戻る七霧。他に立ち歩いていた者も、すぐに着席していた。

 そんな光景を後ろの席から眺めていて、智也は少し感慨を覚えた。

 各組に在籍している生徒の、その全てを把握しているわけではないが、少なくともB組には荒っぽい者がいる印象を受けている。

 それと比べると自分のクラスは随分真面目なんだと、今になって気付いたのだ。


「えーキミが五十嵐くん」


「いえ、久世ですが……」


「あーキミが時雨くん」


「虎城です」


 袖と裾に金刺繍が入った白いローブの、その懐から取り出したメモ帳らしきもの見ながら名前の確認を行っているようなのだが、どう考えてもそこに記されているのはC組の生徒名簿だ。


「あの先生、それC組のじゃないですか?」


「おぉ、そうじゃったわい。うっかりしておった」


「……あんまりこういう事言っちゃだめだけど、あの先生大丈夫なのかな?」


「まぁ、最初見たときもあんなだったしな……」


 一連の流れに千林が苦々しく笑い、そのやり取りを見た国枝が不安そうに後ろを向いてくるが、正直智也もまともな授業ができるのか不安であった。

 そもそも、この学園の教師は風変わりな人しかいないのだろうかと、ちょうど思っていたところである。


「そういうわけじゃ、名も知らぬ若人たちよ」


「あ、覚えるの諦めた……」


「まぁまぁ。イイんじゃない? どうせすぐ先生戻ってくるだろうしさっ」


 そう呟いた東道に視線が集まる。

 確かに、先生がいない間の代理として来てくれているだけなのだから、無理して名前を憶えてもらう必要はない。ただ、もしこのまま先生が帰ってこなければ――、


「そう……だよね」


「なになに、やっぱ千林さんも降魔先生のがいいわけ??」


「いやぁ、普通そうじゃないかな?」


「そりゃそうだよね!」


「お主ら、いま失礼なこと考えておっただろう」


 まだ日が浅いとはいえ、ようやくあの覇気のない男の顔と、怠慢な態度に慣れてきたところである。

 それにガワがそんなでも意外と頼りになるところや、生徒思いなところなど、知らない一面も少しづつ見えてきて、そんな先生と過ごす日々が楽しいと、そう思っていたのは智也だけじゃないはずだ。


 だからこうして会えなくなると、寂しく思う者もいるのだろう。とはいえ鬼先生には鬼先生のいいところがきっとあるはずで、逆の立場なら、C組の生徒だって同じことを言うに違いない。


「オホン、では昔々のお話を始めようかの。これは学園の図書館にもある、歴史の本に記述されている内容じゃよ」


 その内容が頭に入っているのか、歴史の本とやらを用いることもせずに、鬼先生は黒瞳を細めてゆっくり語り始めた。



 ✱✱✱✱✱✱✱



 それは、数百年前に起きた些細な出来事。


 世界のどこかの、誰かのちっぽけな不幸。


 今となっては誰も知り得ない、知る由もない、まるで無縁で無関係な、誰かの悲痛な叫び。


 ただの歴史の一ページに過ぎない、一人の赤子の悲運。


 ――すべては、そこから始まっていた。



 ✱✱✱✱✱✱✱



 そこは小さな村落だった。

 二千人にも満たない人口だが、山に囲まれた緑豊かな地で村人たちはひっそりと暮らしていた。

 そう。平和で長閑な暮らしを送っていたのだ。少なくとも、あの日までは。


 ――赤子の泣き声が聞こえてくる。


 最近若い夫婦の間に産まれた、元気な男の子の声だ。

 今と変わらぬ大きな産声を上げたときは、両親はもちろん村中が感動し、新たな生命の誕生を一晩中祝ったものだ。


 特別若者が少ないわけではなく、赤子が生まれる際にはいつもそうして村全体で祝福祭を開いていた。

 なにぶん人口が少ないので、この村にとって新しい命が芽生えることは、何よりも祝福されることだったのだ。


 そんな両親と村人たちの優しい温もりに包まれながら、大切に大切に育てられた赤子は、すくすくと成長していった。

 しかし半年ほど経ったころ、赤子の身に異変が起きた。


 最初はほんの些細なことだった。

 赤子の寝床や照明が突然揺れ出したり、泣き喚いていたその子が急に笑ったり、よくわからない言語を口にしたりなど、どれもこれも赤ん坊らしいといえばそれで収まる現象だった。


 だから夫婦は気にしないようにしていた。寝床が揺れても小さな地震と思い、宇宙語のような発言をするのも、普通の赤ん坊と変わらないものだと思い込んでいたのだろう。或いはそれは、現実逃避だったのかもしれない。

 そんな夫婦の不安を煽るかのように、怪奇現象は赤ん坊の成長と同調、比例し、進化していった。


 ――それは、突然の自然発火であったり、

 ――少し目を離した隙に赤ん坊の体が水浸しになっていたり、

 ――戸や窓を閉めているにも関わらず家内には風が吹き起こり、


 他にも寝ている夫婦の耳に誰かと会話する声が聞こえるなど、怪奇現象の内容は様々だった。

 しかしそれらはまだ、育児の疲れによる幻聴や幻覚だと、無理やり納得することも出来た。


 ――だが、さすがに宙に浮く赤ん坊の姿には、二人も目を背けている場合ではなくなった。


 困惑を通り越して何かを察した夫婦は、真剣にこの現実と、我が子と向き合わなければいけないと、そう心に決めたのだ。


 それから夫婦は家に籠ることが多くなり、村人を招き入れることもなくなった。今の息子を見られるのは、マズイと判断したからだ。

 人は、普通と少し違うだけで簡単に差別をする生き物だ。いくら親しんでいた村の人たちとはいえ、結局は他人。ちょっとしたキッカケで今までの関係など容易く崩れてしまう。


 要するにこの夫婦は、村の人々を信用できなかったのである。

 なにも全員がその子に対して白い目を向けるとは限らない。自分たちと同じように受け入れてくれる人だって、きっといたはずだ。もしかしたら、誰もそんなことを気にしなかったかもしれない。


 結局のところ、一番その子を差別視していたのは両親だったのだ。


 そうして突然閉鎖的になった夫婦を村の人々が怪しまない訳もなく、何か隠し事をしているのではないかと探るようになり、次第に二人の知らないところで噂話が広がっていった。


 その間にも、件の赤子は少しずつ成長してき、怪奇現象については明らかに「その子が起こしている」と見て取れる程に変化していた。


 我が子の事を想い考え、今後について話し合う二人の傍らで、何も知らない赤ん坊はいつも楽しそうに遊んでいる。

 その一環が、空中浮遊による散歩だ。まだ這いずり回ることもできないというのに、寝転んだまま宙に浮いてヘラヘラ笑っているのだ。

 こんな赤ん坊が他に居るだろうかと、両親は嘆息する。それでも若干その光景にも慣れつつあるのか、両親は笑顔を見せながら、浮遊中の彼を優しく抱え込むと、自然な流れで寝床へと寝かし付けた。


 寝床の中で無邪気に笑う赤ん坊を見て、二人は穏やかに微笑む。こうして何も考えず、ただ笑って楽しく過ごせれば良いのに、と。

 けれどこうなってしまった以上、二人の淡い夢は、もう夢物語でしかない。


 どこから出たのか、いつしか奇妙な赤子の噂は町全体に広がっており、夫婦は奇異な目で見られるようになっていた。


 ――あの家では最近妙な事が起きているらしい。恐らく原因はあの赤子だ。

 ――絶対何かに取り憑かれているのよ。呪われた赤子だわ。

 ――近づくと呪いが移るぞ。いっそ村から追い出しちまえ。


 夫婦がその噂を耳にしたのは、食料を補充しに家から出た日だった。

 村を歩くだけで周囲から冷たい視線を受け、村の子供達にまで指を差されて陰口を叩かれ、時には気味悪がられることもあり、目に見えて避けられているのが分かった。


 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 何故自分の子だけが変わっているのか。何がいけなかったのか。全部打ち明けるべきだったのだろうか。そうすれば、あの子も自分たちも、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。

 まともに買い物もさせてもらえず、来た道をそのまま引き返した二人は、そうして泣き崩れた。


 それから再び、巣ごもり生活と周りの白い目に耐える日々は続いたが、それも二ヶ月ほど経って、幸いにも終わりを迎えた。



 その日は朝早くから、赤子がいつにもまして大きな声で泣き喚いていた。


 まだ夢の中にいた隣人の男は、村中に響き渡るようなけたたましい声に起こされ、怒鳴りながら飛び起きた。

 薄くなった髪を掻き毟り、一向に鳴り止む気配のないその騒音に、文句の一つでもつけてやろうと家を飛び出る。

 と、男と同じように駆け付けた村人たちが、既に家の前で数名ほど集まっていた。


 先に来た者曰く、先程から何度も扉を叩いて呼び掛けているのだが、全く応答がないという。

 男は怪訝な表情で扉を凝視するが中までは見えず。家の前に近付いたことで、より一層響く泣き声に鼓膜を通して脳が揺さぶられる。


 いよいよその音に耐えきれなくなった隣人の男が、扉を壊そうと近くに落ちていた薪を手に取るのと同時に、先頭にいた小太りの男が、扉の鍵が掛かってないことに遅れて気が付いた。

 その者に冷たい視線を向けながら、隣人の男が前に出て、扉を開け放つ。


 ここまで赤子が喚いているのに、一体親は何をしているのか。一先ず五月蝿いアレをどうにか止めて、日頃からの鬱憤も合わせて文句を言ってやろうと、先陣を切る。


 内装は特段男の家と変わりはなく、玄関土間から入って、囲炉裏を中心とした板の間がある。

 しかし居間には姿が見当たらず、襖の奥から騒音が聞こえるところ、赤子と両親はそちらに見えるのだろう。

 隣人の男は何の遠慮もなく草履を脱ぎ捨て居間に上がり込むと、ずかずかと襖に近付いていって躊躇なく手をかけた。


 ――突然、異臭が鼻孔を貫いた。


 あまりの激臭に、男は室内にも関わらずそこら中に唾を飛ばして嘔吐いた。

 どうしてそれまで気付かなかったのかと疑問に思いながら、手で口元を塞ぎながら部屋の中に視線をやり、目を見開いて、その場で尻餅をつく。


 いまさっきまで怒りを募らせていたことも、異臭を嗅いで吐いたことも忘れ、ただその身を震わせている。


 その異常な様子に、玄関で立ち止まっていた一同は顔を見合わせ、首を傾げた。

 何があったのかと、小太りの男が声をかけようとするが、尻餅をついていた男は慌てて立ち上がると、彼らを押し退け、そのまま家から飛び出していった。


 取り残された者たちは理解ができず、ただ呆然と立ち尽くす。

 未だ泣き止まぬ赤子と、男の豹変ぶり。そして、突然異臭に侵された嗅覚。残された彼らも、ようやくこの場の異常な空気に気が付いた。


 もはや騒音がどうとかよりも危機感から、自分たちもこの場から離れるべきだと引け腰になる中、一人の勇気ある若者が、意を決して足を踏み入れる。


 怖気付いた他の者たちが制止すべく声をかけるが、男は真相を確かめる為にそれらを振り切り、泣き喚く赤子の元へと向かっていった。


 襖の奥の部屋の隅、木の柵で囲まれた簡易ベッドのような物の中で、その子は泣いていた。しかし男はそちらよりも、足裏の違和感に意識を持っていかれそうになる。

 そこには何かが、大量に溢れていた。


 やけに生温かくて、ヌメヌメとした感触だ。それに、固い何かを踏んでいることにも気が付いた。

 恐る恐る足を上げて確認すれば、真っ赤に染まった足裏が見えて。そのまま足下に視線を落とせば、どこから溢れ出したものなのか判別できぬ程の血の海が広がっており、そこに若い男女の亡骸が転がっていた。


「うわああああああああああ」


 男の悲鳴に釣られるように、赤子は一層声をあげて泣き喚いた。

 現場に居合わせたのはその赤子一人だが、まだ幼い彼は泣くことしかできず、それが何を示しているのか、誰にも解らない。


 ただ、柵に守られた簡易ベッドだけは、赤い海に浮かぶようにして、唯一汚れのない綺麗な状態を保っていた。


 ――その日、村は大騒ぎとなった。


 赤子の家から帰った者たちの報告を受け、村長が全村人を収集して緊急集会が開かれたのだ。

 その座談の中で、あの夫婦を殺したのは例の呪われた赤子だと判断がされる。


 証拠はないが、赤子に妙な力があることは既知の事実であった。

 どうせ殺したのは奴だろう、やはり呪われていたのだと、村人は恐れ戦き悪霊払いすら始める始末。

 それに今は眠って大人しくなったとはいえ、そもそも赤子と対話が成立するはずもなく、彼は異議を唱えることもできやしない。


 よって、身に降りかかる火の粉を恐れた村人たちが我が身可愛さに「呪われた赤子を処分する」と決めたところで、赤子に抵抗する統べなどありはしなかった。

 もう誰も、彼を守ってくれる人はいないのだ。


 処分はその日すぐに行われた。

 村の代表として村長が事を下すことになったが、近寄ることさえ懸念された赤子の始末は、家ごと焼却することで決まった。


 真っ赤に燃える家の中で、二人の亡骸と共に呪われた赤子は焼かれていく。

 幸いにも眠ったままだったのか、最後は泣き喚くことなく天に召されていった。


 こうして呪われた赤子とその一家は無事に祓われ、小さな村は再び平和で長閑な暮らしを取り戻した。

 ただ一つ、変化があったとすればそれは、神様からの不思議なプレゼントだろうか。


 或いは、死んだ赤子の呪いだったのかもしれない。







 あの日を境にして、村で生まれる子供たちの体内に『魔力』が宿るようになった。



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