第四十七話 「握り飯一つ」
――暗い世界。
見渡す限りの『黒』が広がる、何の変哲もないつまらない世界。
何者も、何物も存在しないはずのその世界で、唯一の例外が在った。それは小さな――いや、少し大きくなった『光』だ。
質素な世界にたった一人で生きる可哀想な存在。そんな『光』はしかし、楽しそうに揺れ動いていた。
少しだけ大きくなった体格。
ただの光に対してそう表現するのも妙な話だが、はしゃぎ回り、疲れては寝て、日々成長を遂げていく様はまさに人の子のそれである。
その大きく成長した体で、再び『光』は暗い世界を流浪する。
黒でしかない世界では上下左右の方向すら曖昧で、自分がどこを見ているのか、どこから来たのかさえ分からなくなる。
そういう意味ではこの世界に生まれ落ち、初めの一歩を踏み出した時点で、文字通り漂流していたわけか。
そんな意識が『光』にあるのかはともかくとして、一際大きくなった体で広大な、無限とも呼べる世界を進んでいった。
しかし、いくら成長したといっても、この世界に比べればちっぽけな存在である。進んでも進んでも黒い景色は変わらず、そもそも進んでいる感覚すら抱けやしない。
それでも『光』は歩み続けた。そこには、何らかの『意思』があるような気がして。
意図してその方角を選んだのかは定かではない。
だが『光』の行く先――上方にて、水面のように揺らぐ何かが見えた。
――それは、黒一辺倒の世界で初めて見つけた、自分以外の光る存在だった。
もしかするとそれは、この世界の出口なのだろうか。
揺らめく光が上方に在ったことから考えると、言うなればこの世界は暗い海のようである。
その眩い光を目指し、『光』は懸命に進んでいった。
だが一向に水面には近付けず、やがて力尽きたのか『光』は歩みを止めると、暗い、暗い海の底へと沈んでいくのだった。
✱✱✱✱✱✱✱
「あ、治ってる」
目覚めた直後に智也が感じたのは、脚の筋肉痛が消失した感覚だった。
これで昨日のような惨事はもう起こるまいと、ほっと一安心する。
ベッドから起きて洗面所に向かい、いつものルーティンを行いながら、智也は朝の高揚感を味わう。
朝といえば憂鬱な気分に陥りやすい人が多いが、目覚めのいい智也の脳と体は、すぐにエンジンがかかるのだ。
もちろん朝一で取る行動といえば、もっぱらゲームの起動だったわけだが。
「まさかそんな俺が、ゲームなしの生活に慣れるなんて思いもしなかったな」
あれだけのめり込んでいたゲームへの熱量が、果たしてどこへ行ったのか。それは論を俟たない。
朝の支度を一通り終えて食堂へ向かう智也の足取りは、昨日までと一変して羽根のように軽い。
何故ならこれまで抱いていた罪悪感や不安といったものが、昨日の一件で多少は払拭されたからである。
まだあれで全てが解決したわけではないが、周りの人たちのおかげで、少なからず以前より先の見通しがよくなったのだ。
「あら、おはよう。今日も早いのね」
「おはようございます」
智也の顔を見て、新井さんが含み笑いを浮かべた。その意味が分からず目を丸くしていると、歩み寄ってきた新井さんが智也の手を取り、何かを渡してくれた。
見れば、それは朝ご飯として定着しつつある握り飯である。
「すいません、いつも」
「いいのよ。一応作っておいて正解だったかしらね」
「本当にありがとうございます」
「気を付けていってらっしゃいね」
再度、含み笑いを浮かべる新井さんに見送られながら、智也は朝の町へと飛び出す。
「今日は昆布と、こっちは梅かな?」
新井さんお手製の握り飯を頬張りながら、いつも通りの道を歩く。
大体同じ時間に出ているのもあるが、相変わらず早朝の町は人っ子一人歩いておらず、まるでこの世界に自分だけしかいないような、そんな錯覚に囚われる。
「……」
そんな中、広場から路地へ入った智也の視界に、いつも通りじゃない光景が映る。
数メートルほど先で、貧相な身なりの少年が、廃棄物らしきものを漁っているのだ。
焦げ茶色の頭髪は伸びきっていてボサボサで、元々純白だったと思われるシャツは薄汚れて、穴だらけになっている。
細身だが背丈は智也よりも高く、年は同じか少し上くらいだろうか。
その少年は、智也に気付くと煉瓦色の瞳に警戒心を宿し、即座に臨戦態勢に入った。
「待ってくれ! 何もするつもりはない」
「……」
目をギラつかせ、今にも襲い掛かってきそうな少年に、智也は自分が無害だと訴える。
しかし少年の目は猜疑心に染まっていた。まるでこの世のすべてを疑い憎むような、そんな目つきだ。
こんな早朝に路地裏で何をしていたのか。それは、見て感じた通りのことだろう。と、少年の視線が僅かに上を向く。
視線の先、智也の右手には、先ほどまで口にしていた食べかけの握り飯がある。
「――そうだ、これ食べるか?」
そう言いながら、智也はポケットの中から包み紙を取り出した。
新井さんに作ってもらった、もう一つの握り飯だ。本当は朝練のあとに食べようと思っていたが、こうなっては致し方ない。
それで警戒心を解いてもらえるならと智也は慮ったが、少年は迂闊に近寄ろうとしてこない。こちらも不用意に近付けば、その手に隠し持ったガラス片で襲われるだろう。
「まぁ、警戒するのも無理はないが……毒でも入ってると思ってるのか? 俺なら、不味いもん食って腹壊すより、美味いもん食って死んだ方がマシだと思うけどな」
ちょっと話が大袈裟すぎただろうかと思いながら、智也は少年の反応を待った。
やはり背に腹は代えられないのだろう。少年の足が、少しだけ動く。それに智也は気付かないふりをして、近くにあった段ボールの上に、そっと握り飯を置いた。
「ここに置いとくから、良かったら食べてくれ。――実は俺、お金がなくてさ。周りの人のおかげで生き長らえてるんだよ」
「……」
「ちょうど教わったばかりの言葉があるんだけどさ、『恩送り』って知ってるか? 誰かに受けた恩を、別の誰かに送ることらしい。だから俺も周りの人達から受けた優しさを、他の誰かに分け与えられたらなって、そう思ってたところなんだ」
照れ隠しで苦笑する智也を、少年の鋭い視線が値踏みするよう見つめてくる。
正直智也も、なんでこんな話をしているか分からなかった。
もしかすると、少年の姿に親近感を抱いたのかもしれない。或いは智也も、新井さんや千林さんやあの先生に出会っていなければ、きっと目の前の彼のようになっていただろうから。
そうして一人語りする智也に警戒を残しながら、少年は握り飯を素早く取ると、再びこちらに視線を向けてくる。
「まさか、これもか? 俺の食べかけだけど……」
もう半分も残っていない握り飯を差し出すと、少年は智也の手からそれを奪い取り、踵を返して背を向けた。
「……感謝する」
最後に、小さくそう呟いて少年は路地の先へと駆けていく。
たった一日。たった一食分の、腹の足しにもなるか分からないものだ。それを智也が分け与えたところで、明日の少年が空腹に苛まれることに変わりはない。
しかしその握り飯一つが、今日を乗り越える為の力になればいいなと、智也はそう思った。
✱✱✱✱✱✱✱
「来たか」
第一体育館に着くと、既に一頻り汗を流したであろう先生が、道着と袴に身を包んで待っていた。
「前から思ってたんですけど、なんで朝練のときだけその恰好なんすか?」
「んあ、この方が身が引き締まるんだよ」
「普通逆じゃないすか? でも、意外と似合ってますね」
「だろ?」
そう言って笑う先生には、いつもと違う爽やかな印象を受ける。それはある種、このときにしか見せない特別な顔とも言えるので、他の人が知らない一面を知っているようで、智也はちょっとした優越感があった。
「先生っていつも何時に来ているんですか?」
「なんだ、今日はやけに知りたがるな」
「いいじゃないですか、教えてくださいよ」
実際、智也ですら六時には起きているのに、学園に向かう頃にはこうして鍛錬を終えて待っているのだから、相当早い時間に来ているのだろう。
「男の努力ってのはな、見世物じゃねーんだ。影で努力するからこそ……そいつを男たらしめるんだよ」
「つまりそれも、男らしさの極意ってことですか」
「そんなところだ」
生真面目に傾聴する智也に、先生は薄笑いを浮かべた。
「さて、今日はどうする?」
「そうですね……筋肉痛も和らいだので、【強歩】の練習をしたいんですが」
そもそもあのときちゃんと忠告をしてくれれば、もう少し使用を控えたのに。と心の中で文句を付け足しつつ、智也は準備運動を始める。
それを腕組みしながら眺める先生は「【強歩】の練習か……」と呟いて、
「それならいい方法があるぞ」
と、不敵に笑った。
「――それで、何をするんですか?」
「今からやることを説明するためには、もう一度【強歩】について説明する必要がある」
「【強歩】の説明……」
何故か体育館の隅に立たされた智也は、顎に手を当てながら一昨日の授業を思い返す。
――強歩。脚力を強化する補助魔法で、足に魔力を集めることで発動できる、比較的簡単な魔法。
そんな手軽さとは裏腹に凄まじい速度を手にすることができ、踏み込みの強さによっては、更なる境地へ達することも出来る。もはやそれは、走行を越えて飛行していると言ってもいいほどの域だ。
絶対に元の世界では有り得ない現象――まさに、単純にして最強の魔法といったところか。
「つまり、使用者の限界を超えた脚力を付与させる魔法ってわけだ」
「確かに自分の身体が風になったみたいな感覚でした」
「それが答えだ。【強歩】を使いこなす為にはまず、その現実的じゃない速さに慣れる必要がある」
だから、走れ。と指で示す先生に、智也は今から始まるのが地獄の再来だと察して、魂が抜けるような錯覚を覚えた。
「Espoir3――【強歩】!」
詠唱と共に足に意識を集中させ、魔力を流し込むイメージ。
腰を落として床を蹴れば一歩で体が前に飛び、四十メートル近く離れた壁が、すぐ目の前まで迫ってくる。
ぶつかる前に反射的に身を捻り、足から壁に着地。軽く床に降りようとするが、頭で考えているより体が前に進み、脳が混乱して足が絡まりそうになる。
やはり、速さに頭と体が慣れていないということか。と、元の位置に帰ってきた智也が壁に手をついて休もうとすると、先生は腕組したまま首を横に振った。
「黒霧、往復じゃなくて一周だぞ」
「えぇ……マジすか」
真顔で、目の輝きを失ったその灰の眼で見つめられると、恐怖すら感じる。
しかも先生は冗談でもなんでもなく、本気で言っているのだ。真っ直ぐ猪突猛進にしか走れない智也に、それが出来ないと分かった上で。
鬼コーチっぷりを発揮する先生に顔を引き攣らせながら、智也は所定の位置まで戻る。
まだ【強歩】の効果は切れていないはずだが、一周するとなると、今度はかなり速度を落とす必要がある。と独り言ちて、
「黒霧、やるなら全力だ」
「は、はい……」
どうも思考が読まれていたようで、智也は恐怖に引き続き、寒気を覚えた。
呼吸を整えて、一意専心で正面の壁を見据える。
一度走り出せば、自分が感じているよりも早く体は前に前に進んでいく。となればいっそ、走り出した直後に舵を横に切るのはどうだ。
「――ッ!」
二度目の疾走。加速を得た体は一気に風となる。
壁が迫ってくる前に体を左へ、足を、左へ、動かない。風となった自分の身体を制御できず、智也はそのまま衝突した。
――伸縮性のある何かが全身に纏わりついて、壁にぶつかる前に智也の体が後ろへ押し戻される。
背中からふわっと床に倒れる智也。
目を丸くさせながら上体を起こせば、そこにあるのは見覚えのある、網目状に張り巡らされた白い糸だった。
「すみません、助かりました」
「安心しろ。サポートはしてやるから、お前は何も気にせず粉骨砕身すればいい」
「……大丈夫ですよね? 余所見してて反応が遅れたとか言って、文字通り身を砕く羽目にはなりませんよね?」
感情のない目で安心しろと言われても、欠片の信頼も寄せられない。むしろ、不安を払拭してほしくて確認したのに、無言の微笑が逆に不安を煽り立ててくる。
「なんにせよ、やるしかないんだが……」
そもそも、先生を当てにできないのなら、智也が次で成功させればいいだけの話だ。――それが中々難しいから、手こずっているわけではあるが。
何かにチャレンジしようとするとき、失敗を恐れていては成功できない。それこそ男に生まれたのならば、粉骨砕身の覚悟で励むべきだろう。
この場合、失敗すればただでは済まないのだが。と、悪い方へ傾いた頭を振って、思考を切り替える。
「Espoir3【強歩】」
今度こそ決める。ただそれだけを考えて、智也は地を蹴った。
✱✱✱✱✱✱✱
「ただ曲がるだけなのに……」
累計で十回ほどチャレンジしたものの、その全てが失敗に終わった。幸い、先生がちゃんとサポートしてくれたので大事には至らなかったが、ただ曲がる――それだけの動作が難しい。
「まぁ俺も、全力でやったら曲がれないけどな」
「はい?」
だったら何のために身を砕く覚悟までして奮闘していたのか。そんな不満を抱きかけたとき、智也は自分が失念していたことに気が付いた。
地獄鬼であの『瞬間移動』を目にした際に、それが最短距離でしか走れないと分析したのは、他でもない智也だというのに。
我が身を粉にして試した通り、全速力で走ると風の抵抗が強すぎて、直進しかできなくなる。
つまり先生の全速力――あの『瞬間移動』でもそれは変わらず、進行方向を曲げるときは、前もって必ず速度を落としていたのだ。
後半戦の開始直後が、まさにそれだった。
では、なぜ智也にあえて全力で走らせたのか。それは、
「全速力に慣れることで、速度を落とした際により走りやすくさせるためってことですか」
「そういうことだ。だから、十回走らせた」
つまりはここからが本番だということか。
「憎いやり方しますね」
口の端を吊り上げる先生をじっと見つめてから、智也は再び所定の位置へと向かった。
「Espoir3【強歩】」
魔力を足に集め、腰を落とし、地を蹴らない。
重力を利用することで、体を軽く倒せばそれで足は自然と前に出る。そうして脱力することで、智也は過剰な加速を抑えようと試みた。
とはいえ脚力を強化している以上、通常通りとはいかないだろう。そこで、先程の成果が活きてくる。
自分の全速力にある程度慣れた――慣れさせれた智也には、今の速度はぬるかった。
「曲がれる……!」
一度曲がれば後は同じことの繰り返しだ。深いことは考えず、いま得た感覚通りに走り続ける。
そうして二回、三回と角を曲がれば、ゴールを作って待ってくれている先生の姿が見えて、直後、智也の身体は白い糸に包まれた。
「よくやった」
「ありがとうございます……先生のお陰です」
紆余曲折あったものの、おかげ様で猪突猛進しかできない猪から卒業できたわけだ。
ただ、実際に猪が直進しかできないのは迷信な上に、智也自身もまだ完全に【強歩】を使いこなせているわけではない。
それこそ本来の猪みたく自由自在には走れないし、先生の補助なくしては、まだ自分の足を止めることもままならない。
地獄鬼の際は闘技場が広かったため、たまたま良いタイミングで効果が切れてくれたが、走り出したら止まれない状況というのは、言ってしまえばあの時と何ら変わっていない。
「次のステップは、止まる練習ですか……」
「さすがの理解力だな」
そう言って先生は不敵に笑うが、智也は既に体力も魔力も使い切っていて、喋るのがやっとな状態だ。しかも、前回の使用が四回なのに対し、今日は既に六回も使っている。
魔力は休めば回復するが、脚への負担は蓄積されるばかりだ。またあの激痛に襲われることを考えると、既に憂鬱になりそうではあるが。
「そもそも、自分の限界を超えた速度で走って、筋肉痛で済むものなんですか?」
「筋繊維がぶっ壊れるって言いたいのか?」
休憩がてら脚の筋肉をほぐしつつ、ずっと感じていた素朴な疑問を投げるも、敢えて避けた直接的な表現をされて、智也は苦い顔になる。
「魔法ってのは不可能を可能にする力だからな。まぁ、それじゃお前は納得しないか。――そうだな、脚力を強化するというより、脚の筋力を強化すると言った方が分かりやすいかもな」
「でも、特段筋肉量が増えた感じはしないんですけど……」
「見た目はな。使うとき足に魔力を集めるだろ? その魔力が筋肉を覆って丈夫にしてる……みたいな感じだ」
「なるほど」
自分の足を見つめながら、不可思議な力を今一度実感して、智也は感嘆の息を漏らした。
「とはいえ、今日はもう【強歩】は使わない方がいいだろう。自分が一番分かってるだろうけどな」
分かっているつもりではあるが、模擬戦までもう日がないのも事実。今日練習しなければ明日やるしかなく、しかし筋肉痛のことを考えると、今日中に完成させておくのがベストである。
そんな智也の焦燥感を見透かすかのように、灰の眼が見定めてくる。
「お前が何をやろうとしてるのかは分からないが、いま無理しても後に響くぞ」
「ですけど……」
「今日の練習が無駄だったわけじゃないだろ? だったら、それを活用して次善策――いや、お前なら最良の策を考えられるはずだ」
今日の練習が無駄だったなんてとんでもない。先生を頼ったのは智也だし、そのお陰で短時間にも関わらず、成長を感じることができた。だから不満を抱くなんて以ての外で、むしろ智也は感謝しているのだ。
その、やけに高まっている期待に応えられる自信はないが、智也は智也なりに最善を尽くすつもりである。
「とりあえず少し休憩するか。授業までまだ時間はあるし、休んでから魔法の練習を――」
不意に、先生の足元に魔法陣が展開して、二人は息を詰まらせた。
「おいおい今度は確認もなしかよ。すまん黒霧、戸締りは放っといていいから適当に休んだら教室……」
――強い光に包まれて、先生の姿があっという間に視界から消える。
一人取り残された智也はしばらく呆気にとられていたが、以前にもあった学園長の雑な呼び出し方に、先生の気持ちを忖度して苦笑を浮かべた。




