第四十六話 「未来への恩送り」
「何してるっスか?」
「あぁ、七霧か。操作魔法的なのが電属性にもないか、ちょっと調べてるんだよ」
午前に引き続き、模擬戦に備えての準備時間を設けられたA組一同は、各自個人練習にあたっていた。
そんな中、床に広げた『魔導書』と睨み合う智也に、七霧が声を掛けてくる。
「二十九番までが初級に分類されてて、そのうち電属性のものは四つあるけど……それらしき魔法は見当たらない」
と、顎に手を当てながら思案する智也。
なにも自分の練習そっちのけで遊んでいられる余裕があるわけではない。どのみち智也の少ない魔力量では、他の者が練習している間、必ず暇を持て余す時間ができてしまうのだ。
だから魔力の回復ついでに、こうして時間を有効活用しているのである。
「ないなら自分で作れないっスかね?」
突拍子もないことを言い出したと思った。しかしその実、的を射ている考えでもある。
ないなら作ればいい――至極簡単で、単純明快なやり口だ。
「なるほどな。それでそのやり方は?」
「全然分かんないっス!」
七霧に期待を抱いた自分が間違いだったと、智也は後悔しながら項垂れた。
そんな二人を気にするかのように、少し離れたところから、国枝が何度も視線を向けてきている。智也はそれを横目で見ながら、
「でも、なんか嬉しいっス。こんな自分の思いつきに真剣に付き合ってくれて」
「俺で良かったらいつでも付き合うよ」
「……黒霧さんって、なんか頼りになる兄貴みたいっスね!」
七霧にそう例えられるが、智也的にはイマイチしっくりこない。それは、智也が一人っ子だったからなのだろうか。
「俺には兄弟がいないからなぁ」
「じゃあ兄貴って呼んでいいっスか!?」
「やめろよ恥ずかしい」
「えー、駄目っスかー?」
「それはだめだ」
断固として拒否する姿勢を貫く智也に、七霧は不貞腐れるように唇を尖らす。と、そこへ痺れを切らした国枝がやってきて、七霧の肩を優しく叩いた。
「七霧くんー、何してるのかな?」
「べ、別に黒霧さんに相談とか何もしてないっスよ。新しい魔法とか、そんなの全然いらないっス」
「やっぱ何か相談してたんでしょ!」
国枝がそう問い詰めると、七霧は笑みを残してそそくさと逃げていった。その後ろ姿を見つめていた深碧色の瞳が、今度は智也に向けられる。
あたかも何か言いたげな視線だったが、国枝は何も口にせずに去っていく。残された智也は後頭部を搔きながら、苦笑を漏らした。
「さて……俺もそろそろ再開するか」
体力と同様に、魔力も時間が経てば少しずつ自然回復していく。おそらくその回復量とやらも個人差があるのだろう。智也でいうと、大体半時間ほどで復調する見込みだ。
練習ついでに試行していたので、そこは間違いない。と、時計を確認して意気込む智也の元へ、十四人を順に個別指導していた先生が回ってきた。
「順調か?」
「はい。皆と同じような練習はできませんけど、それならそれで、一応遣り様はあるので」
「ほう。藤間には勝てそうか?」
智也の言葉に先生は眉を上げ、それから口の端を吊り上げると、意地の悪い質問を吹っかけてきた。
誰がどう見たって智也と藤間では、明らかな力の差があるのは歴然である。それもその対戦表を組んだ先生が問うてくるのだから、なおさら意地が悪い。
「それを先生が聞くんですか?」
「ハハ。でもお前ら二人は、意外と好敵手なんじゃないかと思っている」
「自分と……藤間が?」
乾いた笑みを浮かべる先生に、智也は訝しげに目を細めた。
先生のことだから何か狙いがあるのだろうけど、それにしたって嫌がらせも同然な組み合わせだ。これがもし降魔恭吾でなく他の人だったなら、間違いなく智也は抗議して、対戦表を組み直してもらっているところだろう。
「お前も藤間も、もちろん他の奴らも、まだまだ未熟な魔法使いだ」
「……久世や水世もですか?」
「そうだ。だからどこかしらに付け入る隙はあるだろう。お前なら、それを見つけられるんじゃないか?」
「それは過大評価ですよ」
頭の後ろに手をやる智也に、先生は「それで?」と言いながら隣に並ぶと、肩に手を回してきた。
「藤間相手にどんな作戦を考えたんだ?」
「先生、なんか面白がってないですか?」
「んなことねーよ」
こっちは難敵相手に頭も目も回して必死に食らいつこうと頑張っているのに、対戦表を組むのも、その結果誰を選抜するのかも好きに決められるのだから、楽なもんだなと智也は思った。
「お前は他の生徒にはない独特な感性を持っている。だからこの先、お前がどういう風に成長していくのか……俺は楽しみなんだよ」
「……」
「特に困ってることはなかったか? ないなら、次を見に行くが」
「先生」
近くにいた紫月の方へ歩いて行こうとするのを、智也は少し逡巡してから呼び止めた。
また、いつの間にか姿をくらましている男を脳裏に浮かべて、その者について話すべきかどうかを迷ったのだ。
結果、そのままの勢いで智也は尋ねていた。
「神童はどこに行ったんですか?」
「んあ? そういや少ないと思ったら、あいつどこ行ったんだ?」
それはこちらが聞きたいのだが、と智也は苦笑を漏らす。
いつもなら、そんな神童に対しての雑な扱いを鼻で笑っているところだが、裏の顔を知った今、そう呑気に笑ってもいられない。
とはいえ、神童が悪事に走ったところを直接見たわけでもなく、当人もそれを否定するような言い回しだった。だからといって神童を信じるわけではないが、智也はずっとその判断をしかねていた。
「神童がどうかしたのか?」
「いや……」
元々どこか胡散臭い男で、信憑性に欠ける発言や立ち振る舞いが多く見受けられていた。
そんな神童を智也は毛嫌いし、信用できない奴だと認識してきた。しかし、あのとき見せた神童らしからぬ悲痛な表情だけは、偽りじゃない、そんな気がしたのだ。
「何でもないです」
「ん。なんかあったら相談しろよ~」
手を挙げて離れていく先生の背をじっと見つめながら、智也は自分でも何を考えているのか分からなくなっていた。
思考を切り替えるためにかぶりを振り、余計なことを頭の隅に追いやる。そうして小さくため息を溢し、
「……今は練習に集中しよう。あんな奴に構ってられる時間も、余裕もないんだから」
✱✱✱✱✱✱✱
「今日の授業はこれで終わりだー。お前ら気を付けて帰れよー」
「やっと終わったっスー! ずっと一人は退屈っスよ~」
学校のチャイムの代わりに、やる気のない声が授業の終わりを告げる。
伸びをしたり壁に凭れたり、その場に倒れたりして各々が疲労の色を見せるなか、それでも笑顔を絶やさない七霧の明るさには、脱帽ものだ。
「個人練習は初めてだったもんね。黒霧くんの方はどうだった?」
「んー。他に練習したいこともあるし、まだまだ時間が足りないかな」
「すごい勉強熱心だね~さすがだよ」
第一体育館を出て、渡り廊下を通って本校舎へ。
正面玄関にある下駄箱で上履きと革靴を履き替えて、校門に向かって歩いていく。
誰が何を言うでもなく、自然と三人が一緒になって行動している。気付けばそれが、当たり前の日常になっていた。
「そういえば」
そんな中、不意にこぼした智也の言葉に、二人が並んで顔を覗かせてくる。それに少し視線を泳がせてから、
「二人は……十一番の魔法だと何回くらい撃てるんだ?」
「【火弾】っスか? 多分六十回くらいじゃないっスかね~」
六十回。通常時の智也と比較して、なんと十倍の数にあたる。
それだけ扱えればむしろ魔力を切らす方が難しいのではないか――なんて智也は考えたが、最初の的あての授業では例に漏れず、七霧も魔力切れで倒れていたはずなのだ。
それはつまり、最低でもそれだけの回数を先生は躱し続けていたことになるのだが、智也は頭が痛くなったので思考を取り止めた。
「おれはたしか三十回くらいだったかなぁ」
「なるほど……」
初めて二人と会話した、仲良くなるきっかけともなったあの授業の日、智也は彼らの魔力量について一度尋ねている。
記憶が正しければ国枝はDランクで、七霧がCランクだったはずだ。その二人を比較させてもらうと、ワンランクしか変わらない彼らでも、それだけの差があることになる。
「となると、Bランクの藤間の魔力量は……」
考えるのも嫌になるくらい、途轍もない差があるのだろう。
やはりあちらの魔力切れを待つのは現実的ではないと再認識して、一人考え込む智也に、国枝と七霧が顔を見合わせる。
「強敵だね」
「あぁ。でも負けるつもりはない」
「応援してるっス!」
「無責任に聞こえるかもしれないけどさ、おれも黒霧くんならきっと勝てるって思ってるよ」
ただ悲観しているわけではないと知った二人が、笑みを交換していた。
きっと自分のことを気遣ってくれたのだろうと察した智也は、彼らの温かい心遣いに感謝しつつ、その応援を糧とした。
「ありがとう。そう言ってくれるだけで、俺は頑張れそうだよ」
今度は三人で笑みを交して、長い長い階段を下っていく。
「――ほんとに、二人と出会えてよかったよ」
「なにか言った?」
小さく呟いた智也の声に、隣の国枝とそれにつられた七霧が不思議そうに首を傾げるが、智也は「なんでもない」と言って照れくさそうに誤魔化した。
「なになに、気になるんだけど」
「なんでもねーよ」
追求しようとする国枝を振り切って、智也は階段を駆け下りていく。激痛で苦しんでいた今朝に比べれば、幾分か筋肉痛にも耐えられるようになっていた。
これなら明日は強歩の練習ができそうだ――なんて呟いて、追いついてきた二人から逃げるように、智也は軽く手を挙げて走り去った。
「じゃあまた明日な」
「あ、逃げたっス。なんか言ってたんスか?」
「なんか、二人と会えて良かったとかなんとか」
なんて声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいに違いない。
✱✱✱✱✱✱✱
「そういや朝練のとき、先生が射的屋に寄れって言ってたけど」
ちょうど店の前まで来た智也は、変に違和感のある扉を眺めつつ、今朝の会話を思い出していた。
細部まで記憶している自身はなかったが、明らかに店の扉だけが改変されている、そんな気がしつつ。
「お邪魔しまーす」
「おう坊主! いや智也だったか。久しぶりすぎて忘れちまったぜ。ガハハ」
「たった一日ぶりじゃないすか……」
「うるせぇ、毎日来やがれってんだ!」
目立つ赤髪に強面な面構え。それに葉巻をくわえる様は一見近寄り難い印象を受けるが、意外と寂しがりやな一面も持ち合わせている、そんな店主に智也はやれやれとため息を溢した。
「そういや……扉のデザインって変えたんですか?」
「あー、昨日壊されちまってなぁ」
「壊され!?」
手近な椅子に腰かけようとして、耳に入ったやけに聞き覚えのあるフレーズに、智也は動揺を隠せない。
まさかこんなところで話が繋がるとは、といった感じだ。
「ちょっと黒ローブの連中がな」
「……! 大丈夫だったんですか?」
「おかげ様でな。あの黒髪の先生、智也が呼んでくれたんだろ? 助かったぜ」
「え?」
今度は身に覚えのない話で、智也の思考回路が詰まる。
黒髪の先生と聞いてすぐに思い浮かぶのは自分の担任の顔だったが、智也は件の連中が店に来ていたことを、いま初めて耳にした。
故に、射的屋の話を持ち掛けたのは智也だが、連中の動向を予測し、そこに先生を派遣したのは智也ではない。店主は何か勘違いしているのだろうか。
或いは、ここに行くよう仕向けた先生が――。
「そうだ、渡したいモンがあるんだよ」
そう言ってカウンターの引き出しから取り出し、渡されたのは、茶色の巾着袋だった。
「なんですか? これ」
「ほんの感謝の印だよ」
感謝と言われ、まさかと思いつつ中身を確認すれば、案の定そこに入っていたのは数十枚の硬貨である。
「いや……倒産寸前のお店に、こんなお金出せないと思うんですけど」
「ガハハ、失礼な奴だな!」
冗談抜きに、こんなへそくりがどこにあったのか不思議でならない。そして、何故そんな大事なものを智也に渡してくるのか、理解できなかった。
「領主様から補助金が下りたんだよ。そいつはその一部だ」
「それなら尚更受け取れませんよ。その大切なお金は、店の存続に充てるべきです」
「明日を生きる金すらねぇガキが、いっちょ前に何言ってんだよ。黙ってもらっときな」
「もらえません」
「もらってけ」
「もらえません」
「もらってけ」
「もらえません!」
「うるせぇ、持っていきやがれ!」
頑なに受け入れない智也に、何故か店主が怒り始めた。しかしそう怒鳴られたところで、智也にそれを受け取る資格はないのだ。
「俺は何もしてないんですよ。黒ローブの連中を捕まえた訳でも、撃退して店を守ったわけでもない。きっと奴らがのさばってるところを見かけても……何もできないような奴なんです」
実際その者の姿を目の当たりにして、智也はただ隠れていることしかできなかった。それがもし何らかの事件現場だったとしても、結果は同じだったに違いない。
そんな智也の苦虫を嚙み潰したような顔を、店主は葉巻をふかしながら静かに見つめてくる。
「だからそんな大事なお金を、貰う資格なんてないんですよ」
「ウチの店の為に、色々と考えてくれたんだろ? だったら、お前がそれを受け取る資格はあるさ」
「いや、でも……」
「ったく頑固だなぁお前は、一体誰に似たんだよ。……そいつは俺の誠意だ。それでも受け取れねぇってか?」
――誠意。つまりは真心だ。
もしかしたら店主は、智也が文無しだと知った上で気を遣ってくれているのではなかろうか。そんな考えが、智也の頭を過る。
「それならいっそ受け取れません」
「まだ言うのかお前、いい加減素直に――」
「気遣ってるんすか、俺に」
「バカ言え、んなわけねーだろ。ガキがいちいち細けぇこと詮索しなくたっていいんだよ」
そう言いながら、店主は智也から目を逸らした。
きっとこれは、智也の単なる当て推量ではないだろう。単純で優しい人だから、嘘をついているのが仕草に現れているのだ。
「それで美味いモンでも食ってくれや」
「それは……」
その優しい声色には、店主から智也に向けられた、純一無雑な思いが込められているような気がした。
彼にとって智也は、ただの街の住人の一人に過ぎないというのに。どうしてそんな智也に、そこまでのことをしてくれるのか。
そう考えたとき、店主が二の句を告げた。
「お前が優しいヤツってことはもう十分理解したよ。だがな、困ってるなら大人を頼ったっていいんだよ」
「……」
「確かに俺はお前の親父じゃないが、俺はもうお前のことを息子のように思ってる。男と男の間に、それ以上の言葉がいるか?」
その言葉に、智也の心が強く揺さぶられる。
店主に見透かされているように、智也は色んな不安を抱えている。
けれど、この異界の地で頼れる人がおらず、ずっと一人で悩み続けてきたのだ。
――頼ったっていいんだよ。
その言葉に、甘えたくてしょうがなかった。
だけど、この人は智也の実の父親ではない。人様に迷惑をかけるのは、許されないことだと智也は思っている。
だから、だけど、でも、
「本当に……何もしてないんですよ……」
「分かってるよ」
「こんな俺に……受け取る資格なんてないのに……」
「俺の誠意だって言っただろ」
そう言いながらカウンターから歩いてきた店主は、その逞しい肉体で、智也のことを包み込んだ。
引き締まった筋肉と、独特なオヤジの匂い。だがその加齢臭さえも、今や智也にとっては懐かしさを感じる温かみがあった。
店主の腕の中でボロボロと涙を流せば流すほど、胸の中に巣食っていた不安が抜け落ちていくような、そんな安心感があった。
「……本当に、いいんですか?」
「しつこいヤツだなぁお前は。良いって言ってんだろうが、いい加減シバくぞ。それともあれか? ウチで遊んでくか?」
「せっかく頂いたお金を博打になんて使いませんよ!」
大口を開けて笑う店主に智也は声を上げてから、「大事に使わさせて頂きます」と頭を下げて、再度感謝の言葉を述べた。
「ケッ、相変わらず堅い奴だぜ」
店主に言われたように、これではただお金を貰いに来ただけになってしまったので、せめてワンゲームだけでも遊べばよかったかと逡巡する。
しかし、大切なお金なのだからそれはできないと、そう考えるところこそが、堅いと言われる所以なのだろう。
「また学校の話でも聞かせにきてくれや」
「はい。本当に……」
「まだ言うのか!?」
「……すいません、ありがとうございます」
「もういいっての。お前が大人になったら、そんとき搾り取ってやるよ」
悪い笑みを浮かべる店主に今一度頭を下げて、その時までこの店が続けばいいなと心から思いながら、智也は射的屋を後にした。
「絶対に、絶対にこの恩は返さないとな」
より一層、模擬戦への熱意が増したところで、智也は貰った巾着袋の中身をもう一度確認した。ずっしり入った赤い硬貨が、およそ三十枚ほど入っている。
智也の計算が正しければ、元の世界でいうところの三万円相当になるはずだ。
「お小遣いで貰える金額じゃないんだが……」
せめてもう一桁少なければ、智也も渋々受け取ることが出来ただろう。
というわけで急いで引き返した智也は、店の扉に手をかけて、鍵がかかっていることに気が付いた。
「くそ、思考が読まれてる……!」
大口を開けて「ガハハ!」と笑う店主の顔が頭に浮かび、智也は力なく扉から手を離す。
それから数歩下がって店の方に向き直ると、深々と頭を下げるのだった。
✱✱✱✱✱✱✱
「おかえりなさい」
「……ただいま」
下宿屋の扉を開けると、カウンターに座っている新井さんが、いつも笑顔で出迎えてくれる。
時間を問わず、見送りや出迎えをしてくれる姿は、まさに母親のそれだ。
「晩ご飯できてるよ、食べるかい?」
その問いに小さく首肯して、新井さんの後を追って智也も食堂に入る。
一人でこの下宿屋を切り盛りしていて、ちゃんと体を休めているのだろうか。なんて勝手な心配をしながら、適当に空いているテーブルへと腰掛ける智也。
「お待たせね。嫌いなものはなかったんだったかい?」
「はい、何でも食べられます」
「健啖家なんだねぇ。よっぽどお母さんの手料理が美味しかったんだろうね」
不意に、心から何かが溢れそうになって、智也は胸を抑えつけた。
「……いただきます」
手を合わせ、丼ぶりの中に箸を忍ばせて、手首を返して引き上げる。
その、眼前に上がったツヤのある麺を口まで運び、弾力のあるモチモチとした食感に、昆布とカツオから出た旨味が染み込んで、優しい風味と共に喉を通っていく。
「……おいしい」
体内に染み渡る温もりは、まるで智也の身体を抱きしめる慈母のようだ。
ちょうど母親が作ってくれた特製うどんが、似たような味付けだったと思い出しながら、智也は無意識に喜びの言葉を口にしていた。
「美味しいです」
「そうかい? そんだけ美味しそうに食べてもらえると、私も作り甲斐があるよ」
横の座席に腰を下ろして、目元に皺を寄せる新井さんは、満足そうに顔を綻ばせている。
「お母さんの手料理は、何が好きだったんだい?」
「レタスチャーハンです。簡単な料理ですけど……その分何か、大事なものが込められていたような気がして、好きでした」
目の前の丼ぶりに視線を落とし、あの日ちょうど食卓に並んでいた大好物を、智也はそこに重ねる。
よもやあれが最後の晩餐になるとは思ってもいなかったので、愛情の込められた母の手料理を、もう少し味わって食べればよかったと、今になって後悔した。
「そうかい、その年でそこまで気付ける子は中々いないよ。立派なもんさね」
「いや、自分はそんな……」
「ゆっくりお食べ。私は部屋にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
「待ってください」
呼び止めた智也の神妙な面持ちに何かを察したのか、新井さんは目元に皺を寄せると、再び椅子に腰掛け、智也が話を切り出すまで待ってくれた。
「これ……」
取り出したのは、渡そうと思ってポケットに入れていた茶色の巾着袋だ。
これまで文無しにも関わらず、ずっと智也に優しく接してくれた新井さんへの感謝の気持ちと、ずっと払えずにいた宿泊代のつもりで、智也はそれをテーブルに置き、差し出した。
その中身を確認した新井さんが、驚いたように目を見張る。
「今まで無賃で泊めていただいてすみませんでした。ほんの気持ち程度ですけど、受け取ってください」
そう、智也は先ほど射的屋の店主から頂いた大切なお金を、すべて感謝の気持ちとして渡したのだ。
そうすれば、結局いまの生活を続けることにはなってしまうが、お金が手に入ったら真っ先に新井さんへ返そうと、ずっと考えていたのである。
「こんなに良いのかい……?」
「はい、それで少しは宿泊費の足しになりますか?」
できることなら、智也はずっとここに居たいと思っている。
異世界転移後、命からがら辿り着いたこの町で、最初に目に入った店を適当に選んだだけに過ぎなかった。でも、いま思えば選んだ宿がここで良かったと、智也はそう思っている。
右も左も分からない世界で、頼れる者の居ない見知らぬ街で、初めて智也に優しく接してくれたのが、新井さんだった。
――だから、
「そうさね~可愛い孫からこんなに貰ったら、お天道様に怒られちゃうわ」
新井さんは笑顔を崩さず、巾着袋から一枚ずつ硬貨を取り出した。そうして並べられた二十枚の赤い硬貨に、智也は戸惑いを覚える。
「え……」
「学食を食べるにもお金は必要でしょう? それは、貴方のお財布にしまっておきなさい」
「でも、それじゃあ……」
新井さんは三分の一しか受け取っていないことになる。
実際ここの宿泊費がどの程度のものか定かではないが、持ち金すべてを受け渡すことに、智也は何の抵抗もなかったのだ。それなのに、
「いいからしまっておきなさい。まだ貴方は子供なんだから、難しいことは考えなくてもいいのよ」
そう言って返された二十枚の硬貨を、智也は震える手で受け取った。
「この町は……いい人ばかりですね」
「貴方も大人になったら、同じことを子供にしてあげればいいのよ。そうやって未来に恩を送っていくの。素敵でしょう?」
その言葉に感銘を受けて、智也は三人の恩人にもう一度、心から感謝したのだった。




