第三十六話 「残像を残して」
「お前らー、準備はいいかー?」
円形闘技場に散り散りになった十五人の生徒に向けて、そう声が発せられる。
距離が離れているのに鮮明に聞こえるのは、おそらくメガホン代わりとなるような補助魔法を用いているからだろう。
闘技場に二つある出入り口――その西側の方に先生が待機しており、距離的に最も遠い東ゲートに、自然と人が集まっている。
そこにいるのは国枝のCチームと七霧のEチーム、加えて単独の雪宮だ。
対して二つのゲートの中心――闘技場のど真ん中に堂々と佇んでいるのが、久世の率いるBチーム。
強者の余裕なのか、誰も考えつかないような位置取りだ。神童に至っては、その場で寝転んでいる始末。
「真っ先に捕まればいいのに」
「ん? 智也くんなんか言ったー?」
そしてBチームを中心にして、南にいるのが智也。少し離れて南東に紫月がいる。
そちらに首を向けてなんでもないことを伝えると、智也は正面――北にいる女子三人を見やる。
チームによって色んな作戦があるだろうが、どうやら初期位置をバラけさせたのは智也たちだけのようだ。
それが吉と出るかどうかは、まだ分からないが。
「ぼちぼち始めんぞー」
締めていたネクタイを解き、その場に放り捨てる。
上着は始まる前に脱いだようで、続けてワイシャツの首元と袖口のボタンを外すと、袖をまくって筋肉質な腕を露出させた。
本来、気を引き締めるために行う手順と真逆のことをやっているが、機動性を考えるとそちらの方が都合がいいのだろう。そもそも彼は、スーツを正装だと思っていないようだし。
と、左手に付けた腕時計を確認し、灰の眼が正面を向いた。
その腕が、その足が、直後にどう動くのか智也は目を凝らして警戒する。
「地獄鬼、スタートだ」
腰を落として、地を蹴った。
先生が走り出したのは――、
「こっちかよ……!」
同じく地を蹴って、智也は全力で駆け出す。
まさかの、いきなり追われる形での開戦となった。
✱✱✱✱✱✱✱
「智也くんっ!」
「走れ!」
言いながら、全力で走る智也。
先生とはある程度離れていたとはいえ、生半可な走りではすぐに追いつかれるだろう。
――いきなり読みが外れた。
追われる可能性を考慮していなかったわけではないが、開幕速攻で仕掛けてくるという智也の読みは、外れる形となった。
まだ油断をさせて不意をついてくることも考えられるが、そもそも予想以上に快足である。
紫月に並走しながら一度後方を確認した智也は、その脚力に目を剥いた。
「近っ……!?」
思いの外、距離を詰められている。
紫月は必死に走っているが、今のままでは確実に魔の手にかかる。
とはいえさらにペースを上げて、それに紫月がついてこれるかどうか。
――ここで使うべきか?
智也の魔力では素で六回、節約したとても十二回前後しか魔法を使えない。使用する場面はちゃんと見極めないと、あっという間にガス欠になってしまうのだ。
九十分という長い戦いを生き残るためには、絶対に無駄打ちは避けねばならない。
「だがこのままじゃ、どのみち終わりだ」
ここで一発目を使って、少しでも先生の足を止める。
最悪【強歩】を使えば、囮となっても逃げ切れるはず。
「……っ、智也くん」
「そのまま走ってくれ」
不確定要素が多いが止むを得ない。そう思って背後を振り向こうとした智也の顔の横を、熱い何かが過った。
反射的にソレを目で追う。後方へ飛んでいったのは、小さな八つの球体だった。
「おっと、早速来たか」
放物線を描いて飛ぶそれらを、先生は身を躱してやり過ごす。
その軽い身熟しに驚かされながら、智也は今のが雪宮のくれた援護だと理解した。
だが先生の足は止まってくれない。再び距離を詰めようとするのを見て、智也も走りながら手のひらに魔力を集める。
――そして、避けたはずの八つの球が、先生の背後から迫るのが見えた。
「……!」
「──雪宮か」
先生はその奇襲にすぐさま反応。姿勢を低くすることで、雪宮の魔法が頭上を通り過ぎる。
「雪宮のところまで走れ!」
「う、うん!」
智也が叫んだと同時。明らかに軌道を変えたそれらが、今度は正面から先生に迫る。
左右に体を振り、屈んで、飛んでと素早く動き回るが、彼の魔法はしつこく纏わりつく。
まるで生き物のように追いかけ回すそれらから距離を離そうと、先生が後ろへ飛んだところを捕捉。八つの球の一つが足に触れる寸前で――小さな粒子となって消えてしまった。
「消滅、した……?」
小走りで駆けながら時折後ろを確認して、ちょうど魔法が消える瞬間を智也は目にした。
先生がなにか仕掛けた様子はない。となると、雪宮の方に問題があったのだろうか。
それにしても、
――明らかに優れた追尾性能を持った魔法だった。
しかしそんなものは、少なくとも初級魔法には存在しないはず。それに、あれはどう見たって十八番の攻撃魔法だ。
十八番の【火蜂】は、八つの球を散らして広範囲を攻撃する魔法。
それがあれだけ高性能な追尾力を得ていたのは、雪宮が操作系の魔法を扱えるからに違いない。それで、色々と辻褄も合う。
「だからあのとき、久世の魔法を凌げたんだ」
昨日のチーム戦で、一度だけ魔法の軌道が不自然だったことがあった。まず間違いなく、雪宮の仕業だ。
そして、射的屋で耳にした妙な魔法の正体も――。
「ゆ……雪宮くん、すごいね……はぁ」
「……悪い、助かった」
東ゲート付近で待機していた雪宮と、智也たちが合流する。
彼の見事な援護射撃は、二人の逃げる時間を稼ぐのに一役買ってくれた。おかげで少ない魔力を節約できたうえに、追うのを諦めたのか先生の足が完全に止まっている。
紫月は既に肩で息をしており、あれ以上は持たなかったことが察せられた。智也自身も、呼吸を整える時間が作れたのは有難い。
「けど、まだ油断はできない」
常に先生から最も遠い位置を陣取るのが一番の安全策だ。そこら辺を特に意識しているのが、CとEチームなのだろう。
距離を取りながらでも休憩はできる。だから紫月に先を歩かせつつ、智也たちもなるだけ先生から遠ざかった。
「やれやれ、舞属性は厄介だな。先に油断してるほうから狙いに行くかー。はぁ……組み分けミスったな」
遠くのほうで、先生が腕時計を確認しながらなにか独り言ちているのが分かる。
そうして気怠そうに頭を掻いているが、次の瞬間には目の前に迫っている――なんてことが普通にありそうで智也は怖い。
と、早速先生に動きがあった。それまで智也たちに向いていたヘイトが、急に他所へ変わったのだ。
「よかったぁ……先生、別のとこ行くみたいやね……」
「俺たちを油断させようとしている可能性もあるな。――それに、あの位置はまずい」
ど真ん中で悠然と構えるBチームへ向かって、先生がにじり寄っていく。
鬼視点で考えた場合、先程のように外周を走るより一度真ん中を陣取り、そこから各方角へと詰め寄る方が得物を追い込みやすいし、体力も温存できる。
その反面で逃げる側は退路を塞がれないように注意しなければならないのと、闘技場が円形である以上、距離を置くという手が打てなくなるのだ。
そう思うと、Bチームは案外いい役目を担っていたのかもしれないが――、
「先生こっちに来るよ、久世さん」
「そのようだね。予定通りにいこう」
「了解!」
「よっしゃあ、やってやんよ!」
久世が広げた両手に特大の火球を具現化させ、虎城が風の刃を生成して身構える。そして、寝転んでいた神童は飛び起きて、
「Reve20【水鞠】!」
雫のように手のひらから滴る魔力が、塊となって地へ落ちる。
弾力性のあるその水球は、鞠のように跳ねて神童の頭を越えると、再び落下するタイミングで蹴りを入れにいった。
「すごい、神童くんってやればできるんやね」
「……どうだろうな」
遠巻きに見ていて、紫月は感心したようだが智也は首を捻った。
午前中は上手くやれていたようだが、あれは下心ありきのものだ。
むしろできない男でいてくれるほうが智也的には嬉しいので、期待を裏切ってくれるなよと期待する。
「おっとっと、あっるぇ? おかしいなちきしょう。うりゃあ!」
その期待通り、彼の蹴りはものの見事に空を切っていた。
醜態を晒す神童に仲間の久世が呆れたように嘆息して、目配せされた虎城が風の刃を片手に駆けだした。
「おっ、自ら捕まりにきたか?」
十三番の魔法は、具現化させた抜き身の短刀を用いて接近戦を行うためのものだ。
魔法と呼ぶには些か原始的だが、いくらでも替えが利くという利点がある。ただし、刀の扱いに慣れていないと真価は発揮できないが。
つまるところ先生は、ナイフに近い刃物の切っ先を向けられているというのに全く恐れる気配がなく、泰然と構えていた。
向かってくる虎城に先生の右手が伸びる。
虎城はそれを屈んで躱すと、がら空きになった腹部へと得物を突き刺すように見せかけて手放し、体を回転させつつシャツの裾を掴んで背後へと回った。
「うおっ」
「捕まえた!」
腰に飛びつき全体重をかける虎城に、先生の体がぐらつく。まさかの、鬼が逆に拘束されるという状態である。
あのまま風の刃で攻撃していれば、それでBチームは勝ち抜きできていたかもしれないのに、わざわざ回りくどいことをしているのは、
「貴方はこうでもしないと逃げるでしょうからね」
「いやー、今のは狙えば当たってたぞ」
嘘か真か、悪戯に笑う先生を見据えたまま、久世が両手の火球を撃ち放つ。
どうやら彼らの狙いは、二つ目の勝利条件にあるようだ。
前回は捕らえ損ねていたとはいえ、やはり久世ほどの魔力があるならば、だらだら九十分を逃げ回るよりそちらを選ぶ方が賢明なのかもしれない。
あの機動力が強化魔法の恩恵であるならば尚の事だ。
そして、そのBチームの作戦に便乗するかのような動きが、Dチームにみられた。
「Reve12【水風船/雨燕】」
「Reve11【火弾】!」
「Reve16【半月切り】」
特大の火球に加え、三種類の魔法が横合いから放たれる。
いつもの先生ならそれさえも容易く捌いてみせたかもしれないが、今は重りが付いている。さすがにその状態では、あの素早い足捌きも思うようにできまい。
「逃がさないですよ、先生」
「参ったな」
足枷の役割を果たす虎城に先生が背中越しに苦笑を向けて、その表情が一瞬消える。その瞬間、智也は戦慄を覚えた。
虎城を腰にぶら下げたまま、前屈みになった先生がすぐさま地面に手を付けたのだ。
間違いなく、切り札の一つをここで使うつもりなのだと智也は確信した。
「Espoir59【炎獄】」
「――まさか、二人とも引いて!」
いち早く身の危険を察した水世が叫びながら後ろへ飛ぶが、他の二人は反応が遅れている。
咄嗟に水世が手を伸ばそうとするも、その先は燃え盛る炎によって阻まれた。
「くっ、盲点だった……! 私のせいだわ」
「水世さんのせいじゃないよ、こっちこそごめんね」
「……あとはお願いします」
炎の檻に囚われた千林と七種に、水世が申し訳なさそうにそう呟く。
先生は三人からの攻撃を誘い、あえてカウンターを狙ったのだろうか。
使い方を変えれば全方位からの攻撃を守る、一種の結界にもなると智也は思ったのだが、あの状況ではそうしなかった。
おかげで、一緒くたに閉じ込められた三人の魔法が炎に飲まれて塵と化している。
ただ、久世の放った魔法だけはその範囲外だ。
――その特大の火球に対し、あろうことか先生は背を向けていた。
後ろに張り付いていた虎城は身代わりにされると思ったのだろう。慌ててしがみついていた力を緩めてしまい、先生の拘束が解かれる。
すると、素早く向き直った先生が虎城を抱きかかえて横に飛び、間一髪のところで火球を回避した。
「あー七種と千林、あと虎城も脱落な」
「あ……」
虎城が口を開けたまま、間抜けな表情で固まっている。
まさか、触れられたら終わりだということを失念していたわけではあるまい。
あれだけ鬼に接近すれば捕まるリスクも当然跳ね上がる。
先生の行動を制限できるのであれば見返りのほうが大きいが、それをうまく活かせないままでは虎城の努力が骨折り損だ。
「――まだだ」
そう呟く久世の周囲に、いくつもの水泡が浮かび上がっていた。
射線上にいる虎城は急いでその場を離れて東ゲートへ、先の二人は西ゲートへとそれぞれ避難。その二か所が、捕まった者の待機場所とのこと。
「Reve12【水風船/芍薬】!」
軽く二十を超える数の水泡――いや、水球と呼ぶべき大きさに膨れ上がったものが、ものすごい速さで射出される。
速さと言えば、水世がよく使う『改造魔法』と似ているが、あれは単に『速度』を強化したものだ。
対して久世のはそれに収まらず、『強度』や『範囲』までもを改造していて、極限まで魔法の性能を引き上げていることが察せられた。
そんな文字通りの魔改造をして、デメリットがないはずがない。
それらの性能が極限まで高まっているのであれば、『なにか』が犠牲になっているはずなのだ。
――そう。おそらくアレは、消費魔力を度外視しためちゃくちゃな魔法なのである。
常人なら燃費が悪すぎて使いこなせないものでも、彼ならそれを実現でき得るスペックを持っている。
つまり、初級のみと制限されたことこの授業において、それは最強の魔法ということになる。
――まるで花が咲いたように膨れあがった水球が、左から右へと広範囲に射出される。
先の特大の火球を避ける際、先生は壁際へ飛んだせいで逃げ道が左手にしか残されていない。おそらくそれも、久世が意図した誘因策だったのだろう。
思惑通りに逃げる先生の後方で、壁や地面に着弾した水球が耳をつんざくような破裂音を奏でる。
そして、
「ふっ!」
小さく息を吐いて、いつまでも跳ねるだけでいた神童の魔法を久世が蹴り飛ばした。
あえて逃げ道を残すことで、久世は先生を誘導させたのだ。最強の魔法さえも囮に使い、真の本命を当てるために。
「まぁこれは? これこそが俺の真の狙いだったと言っても過言ではないわけで? つまりこれこそが俺の作戦――」
二十を超える水球が息つく暇もなく襲いかかり、それを避けきった先で、蹴り飛ばした本命が先生に直撃して破裂する。
完璧に捉えた。
そう思った先生の姿はそこにはなく――、
目を剥いて呆然と立ち尽くす久世の肩を。
尻尾を巻いて逃げる神童の背を。
そしてその姿は、瞬く間に延長線上にいた二チームの元へと移動しており、七霧と国枝が声も出せぬまま、その手に捕まっていた。
誰も、あの久世ですら反応出来ない速度で。
「な……!?」
「え?」
「ちっ! こっちに来い!」
確かにあった感触を確かめるように、しかし未だ信じられないといった表情で、久世が自分の右肩に触れる。
一方、状況は飲み込めずとも真っ先に体を動かしたのが藤間だ。こちらは驚愕の表情を浮かべつつも、生き残ったチームメイトへと声を飛ばしている。
「栖戸っち、逃げるよ!」
その声にハッとして、東道が栖戸の手を引いて反対側――智也たちの方へと逃げてくる。
そして智也は、より一層警戒態勢を強めようと、
「警戒するったって、あんなの一体どうやって対処すればいいんだ……」
「私、速すぎてなんも見えへんかった」
「……」
まさか久世が、こんなにも早く脱落するなんて智也は思いもしなかった。
他と一線を画すような魔力を保有しているのだ。その有り余る力を駆使すれば、先生を近寄らせることなく勝つことだって可能だと思っていた。
三度しか使えない切り札も、立て続けに使用される可能性を考慮していなかったわけではない。
しかし、よもやここまでのものだと誰が予測できたか。
「思慮が浅すぎた」
午前の授業で脚力を強化させる魔法を教わったとき、最初の的当ての授業はこれを使っていたんだと智也は悟った。
凄まじい動きだった。十四人からの集中砲火を受け、それを延々と躱し続けたのだ。そう思うのが妥当である。
だが今の惨事を見て、その推測が誤謬だったと思い知らされた。
あのとき先生は、魔法なんて一つも使っていなかったのだ。
「いまのが、先生の【強歩】……」
自分はともかく、あれを使いこなしていた藤間と比べても、そのレベルがかけ離れていると分かる。
脂汗をかいて必死に頭を回転させるが、目で追えぬ速度で移動されては、対処のしようがない。
幸い、先生の勢いはそこで止まっているようで、困惑したままの国枝と七霧に避難するよう指示を出し、一息ついている様子。
いまのうちに、なんとかする方法を捻りださなければならない。
「先生はまだ、あと一度だけ魔法が使える」
もう一度同じのが来たら、今度は確実に全員が捕らえられる。
そう考えて、何かが智也の頭の中で引っかかった。
――どうして先生は、いまので四人しか捕まえなかったのだろうか。
そう。確か午前の授業で、あの魔法の効果時間について言及していたはずだ。
うまく制御ができず、色んな意味で壁にぶつかっていた智也たちに「三十秒前後で効果が切れる」と。
だが四人を捕まえるまでのあの一瞬の出来事に、果たして三十秒も手間取っていただろうか。
最も安全な場所に固まっていた国枝と七霧の二チームを、その気になれば一人残らず捕らえられたはず。
そうしなかったのは、先生が四人しか捕まえなかったのではなく、四人しか捕まえられなかったのではないか。
その理由はなんだ、と思考の海に沈む智也に、紫月の叫び声が届く。
「智也くん! 後ろ!!」
「なん……」
考えることに没頭していたせいで、再び動き出していた鬼のアクションに気付けなかった。
先生は、智也のすぐ後ろまで迫っていた。




